第27話:台帳を、開きます
審査院の部屋は、思っていたより狭かった。
長机の向こうに三人。中央が審査官で、両脇が書記だった。傍聴席に十人ほど。その端に、オズヴァルト・クレーマー会頭が座っていた。
わたしは机の手前に立った。椅子は出されなかった。
「ノルデン嬢。あなたは王宮魔道具寮の元調律士ですね」
「無位の調律士でした」
「現在は」
「町で修理工房を営んでおります」
「本件について、何を証言されますか」
わたしは鞄を開けた。
「三点、提出いたします」
まず一枚目を置いた。
「二十年前、王宮魔道具寮 首席調律士セレスティア・ノルデンが作成した、魔石納入検査に対する異議申立書です。提出されておりません。取り下げられております」
審査官が紙を取った。読んだ。書記が写しを取り始めた。
「二枚目です。九年前、同じ人物が作成したもの。書きかけです。作成者はその年の冬に倒れ、二年後に死亡しております」
これも回された。
「三枚目です」
わたしは自分の書いた紙を置いた。
「本日付で、わたしが作成いたしました。二枚目の文章をそのまま引き継ぎ、最後の一行を書き足したものです」
審査官が読み始めて、途中で目を上げた。
「……ノルデン嬢。あなたの署名は、王宮の保証台帳から抹消されていますね」
「はい」
「では、この書類にはどのような効力が」
「ありません」
部屋が、少しざわついた。
「王宮の記録上、わたしには何の責任もございません。責任がない者の申立てには、効力がございません」
「では、なぜ提出を」
「効力がないことを、示すためです」
わたしは、机の上の三枚を指した。
「本件の争点は、罅の入った魔石が納入されたかどうかではないと存じます。魔石に当たり外れがあるのは自然のことで、商会の責任ではありません」
傍聴席で、会頭が少し身じろぎした。
「争点は、検査記録の署名欄が二十年間空欄だった、という一点です」
審査官が、書記の方を見た。書記が首を振った。手元に記録がないのだと思う。
「ノルデン嬢。確認しますが」
審査官が、身を乗り出した。
「無署名の記録が二十年ぶんあるということは、その期間の納入は、すべて無効になり得るということですか」
「規則どおりに読めば、そうなります」
「二十年ぶんの納入代金の返還を求める、ということですか」
「いいえ」
わたしは首を振った。
「返還を求めますと、商会が潰れます。潰れると、王都の魔石が明日から入らなくなります」
傍聴席がざわついた。
「クレーマー商会は、王都の魔石の六割を扱っております。潰していただいては、困るのはわたしどもです」
「では、何を」
「今後の分に、署名を入れていただければ結構です」
審査官が、書記と顔を見合わせた。
「……ずいぶん、控えめな要求ですな」
「控えめではありません」
わたしは、そこだけ言い直した。
「署名を入れるということは、次に罅のある石を通した人の名前が残るということです。残れば、その人は通しません」
「署名のない記録は、効力を持ちません。これは王宮魔道具寮の規則です。同じ規則により、無署名の魔道具には誰も手を触れられません。触れれば責任がその者に移るからです」
わたしは、鞄からもう一冊出した。
「わたしは五年間、王宮の四百七十二点を保守いたしました。使っていた魔石は、すべて『査収済』の記録がついたものです。その記録に、検査した人の名前はありませんでした」
「あなたは、それを問題にしなかった」
「はい」
「なぜです」
「疑わなかったからです」
わたしは、そこで一度息を吸った。
「王宮に入ってくる魔石には、罅がありませんでした。市場に出回るものには、あります。同じ刻印で、です」
審査官が、書記に何か囁いた。
「三年前、北の街道で第二騎士団の携行灯が暴発し、七人が亡くなっております。その隊の魔石は市場から入っておりました」
傍聴席の空気が変わった。
「隊は三度、報告を出しております。三度とも、消耗品の管理不備として処理されております。——消耗品には、保証がつきません」
わたしは、最後の一冊を机に置いた。白い表紙の、薄い帳面。
「これは、わたしの工房の保証台帳です」
審査官が、怪訝な顔をした。
「本件と、どのような関係が」
「関係ございません」
わたしは正直に答えた。
「ただ、開いていただけますか」
審査官が開いた。
一行目。携行灯。接点に煤。二十六ルグ。セリア・ノルデン。二行目。携行灯。留め具の緩み。十四ルグ。セリア・ノルデン。
三行目。秤。受け金の歪み。六十ルグ。セリア・ノルデン。
「百十四行ございます。二か月足らずのぶんです。全部に、誰が直したかが書いてあります」
審査官は、頁をめくり続けた。
「これは、鍋ですね」
「はい。三ルグです」
「魔道具ではない」
「魔道具ではありません。ですが、直しましたので、書きました」
わたしは、その隣に母の十冊を積んだ。
「こちらは、母が十年で書いたものです。四千件ございます。同じ形式です」
「王宮の台帳は、四百七十二点で、そのうち二十年ぶんの検査記録に署名がありません」
わたしは顔を上げた。
「町の鍋には、三ルグでも署名がついております」
傍聴席から、椅子の軋む音がした。審査官は、しばらく帳面を見ていた。やがて、こう言った。
「ノルデン嬢。あなたは、クレーマー商会を告発されますか」
「いたしません」
「では、何を求めますか」
「検査記録に、検査した方の署名を入れていただきたいと存じます。今後の分について」
「過去の分は」
「過去の分は、もう署名できません。書ける人がいない記録は、無効なままにしておくのがよろしいかと」
審査官が、書記に頷いた。書記が記録を取った。最後に、傍聴席の会頭が立ち上がった。
「ひとつ、伺ってよろしいか」
審査官が許可した。
会頭は、こちらを見た。
「ノルデン嬢。三年前、北の街道で暴発した魔石は——誰が調律した」
わたしは、答えを持っていなかった。携行灯の調律をしたのは隊の整備係で、その名前をわたしは知らない。
知らないと答えれば、こちらの主張は半分崩れる。誰が触ったかを問う立場で、誰が触ったかを知らないのだから。
わたしが口を開こうとしたとき、傍聴席の後ろで、椅子が鳴った。
告発しません。返還も求めません。求めたのは「今後の分に、検査した方の署名を入れてください」の一点だけです。潰したら王都の魔石が明日から入らない。だから潰さない。——争点を「粗悪品かどうか」から「署名欄が空白だったこと」へずらすのが、この回の勝ち筋でした。制度で殴るときは、感情を一滴も混ぜないほうが通ります。
町の鍋には、三ルグでも署名がついている。
そして最後に、会頭が一つだけ問います。「三年前、北の街道で暴発した魔石は——誰が調律した」。答えを、彼女は持っていません。
次回、傍聴席のいちばん後ろで、椅子が鳴ります。




