第26話:証言の前の夜
審査院へ行く前の日、工房は三十件で締めた。
締めたあと、明日は休みます、と貼り紙を出した。母が十年、一度も出さなかった貼り紙だと思う。十冊の帳面には、休んだ日がほとんどない。
夕方、片付けを終えて、椅子に座った。明日、審査院で何を訊かれるのかを、わたしは知らない。
書類は用意した。母の二枚と、わたしの一枚と、母の帳面十冊と、わたしの帳面。全部を鞄に入れると、思ったより重かった。
重いのは紙のせいで、紙の中身が重いわけではない。そう思おうとして、うまくいかなかった。
戸を叩く音がした。
「明日は休みです」と言いかけて、開けたら、ニナさんだった。
両手に鍋を持っている。
「母さんが、食べろって」
「あの、明日は」
「知ってる。だから今日来た」
ニナさんは押し入るように入ってきて、修理台に鍋を置いた。そのあとに、ぞろぞろと人が入ってきた。
金物屋のご主人。奥様。下宿屋の女将さん。老夫婦。西通りの十七軒のうち、五、六軒。荷馬車の御者。ヨナスさん。ハンネスさん。
工房は、十人も入ると身動きが取れない。
「あの、なんですか、これは」
「うるさい。座って」
ニナさんに椅子に押し込まれた。鍋の蓋が開いて、湯気が上がった。工房が急に、食べ物の匂いになった。
「明日、一人で行くって聞いたけど」
「はい」
「そのわりに顔がひどいから、見にきた」
わたしは自分の顔を触った。
「そんなにひどいですか」
「ひどい。母さんが見たら泣くよ」
女将さんが、椀を回し始めた。
老夫婦のご主人が、暖房具の礼を言い出して、話が長くなった。奥様が途中で遮った。荷馬車の御者が、魔石を落として買った話を、なぜか自慢げに語った。
わたしは黙って聞いていた。途中で、下宿屋の女将さんがわたしの手を取って、ひっくり返した。
「ノルデンさん、手ぇ荒れとるね」
「金属を触りますので」
「油塗っときなさい。うちの姪が使うとるやつ、持ってくるわ」
「明日は休みですので」
「明後日に持ってくる」
老夫婦の奥様が、それを聞いて口を挟んだ。
「うちのは獣脂のがええよ。よう染みる」
「獣脂は匂いがきついやろ」
「働く手に匂いも何もあるかね」
二人の言い合いが始まって、ご主人が止めて、止めきれずに巻き込まれた。わたしは、その真ん中で椀を持って座っていた。
王宮では、こういう時間が一度も無かった。五年いて、寮の誰かの家に招かれたことも、誰かが工房に食べ物を持ってきたことも無い。
無かったことに、いままで気づいていなかった。半刻ほどして、ハンネスさんが小さな声で言った。
「ノルデン嬢。明日、審査院が何を訊くかは分かりませんが」
「はい」
「一つだけ、はっきりしていることがあります」
その方は、修理台の上の紐を指した。今日までの札の控えが、そこに下がっている。何度か紐を継ぎ足して、いまは三本になっている。
「あそこに下がっている札の枚数だけ、ノルデン嬢の署名は実在します。審査院がどう判断しようと、それは変わりません」
わたしは紐を見た。
数えたことがなかった。今日まで、一枚ずつ通してきただけだ。
「ヨナスさん。何枚ありますか」
「数えます」
ヨナスさんが立ち上がって、数え始めた。工房が静かになって、みんながその手元を見ていた。
「……百十四枚です」
百十四。
母の四千件には、まだ遠い。遠いけれど、二か月足らずで百十四だ。
「ノルデンさん」
金物屋のご主人が、椀を置いて言った。
「うちの棚は、来月には空になりますわ」
「……はい」
「それでも、明日は行ってください」
「はい」
「うちの店が潰れるのは、あんたのせいやない。あの罅の入った石を、誰も検査せんかったからです」
ご主人は、そこで少し詰まった。
「二十年、誰も名前を書かんかったからです」
わたしは頷いた。
その言い方が、母の二枚目の申立書とほとんど同じだった。母は九年かけてそこへ辿り着いて、この方は半年で辿り着いた。
百十四という数を、わたしはしばらく口の中で繰り返した。母は四千件を十年で書いた。一年に四百件。一日に一件と少し。
わたしは二か月で百十四だから、一日に二件近い。母より速い。速いのは、客が多いからだ。客が多いのは、王宮が止まったからだ。
母のときは、王宮は止まらなかった。母が自分から消えて、町へ来て、誰にも気づかれずに十年直した。四千件のうち、母が誰だったかを知っていた人は、たぶん一人もいない。
「ハンネスさん」
「はい」
「母の四千件のお客さんは、母が首席調律士だったことを知っていたでしょうか」
「知らんでしょうな」
「知らないまま、鍋を三ルグで直してもらっていた」
「……そうなります」
わたしは、その方が悔しくないのかを訊きたかった。
訊かなかった。
訊いてどうなるものでもないし、たぶん、母は悔しくなかった。悔しかったら、十年も続かない。人が帰ったのは、夜半だった。
最後にニナさんが鍋を回収して、戸口で振り返った。
「お姉さん」
「はい」
「明日、あの団長さん来ると思う?」
「分かりません。明日は休みですので」
「来るよ」
「なぜ」
「三十一日ぶんの札、あの人まだ一枚も使ってないから」
ニナさんは、それだけ言って帰った。使う、という言い方が引っかかった。札は使うものではない。控えとして持っておくものだ。
わたしは灯りを消して、二階へ上がった。上がりかけて、下りてきて、鞄の中身をもう一度確かめた。三度確かめて、三度とも同じだった。
百十四枚。母の四千件には、まだ遠い。それでも、紐に下がっている札の枚数だけ、その署名は実在します。
王宮では、五年いて一度もなかった時間でした。誰かが工房に食べ物を持ってくる、というだけの時間が。手荒れに塗るのが獣脂かどうかで揉めているあいだ、主人公は椀を持って真ん中に座っているだけです。書いていて、工房が狭くて本当によかったと思いました。
次回、審査院。椅子は、出されません。




