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「壊れたら買い直せばいい」と婚約破棄されましたので、王宮の魔道具保証は本日で終了です 〜修理工房を開いたら、無口な騎士団長が毎日壊れた品を持ってきます〜  作者: 灯野このは
第5章 本日で終了です

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第26話:証言の前の夜

 審査院へ行く前の日、工房は三十件で締めた。


 締めたあと、明日は休みます、と貼り紙を出した。母が十年、一度も出さなかった貼り紙だと思う。十冊の帳面には、休んだ日がほとんどない。


 夕方、片付けを終えて、椅子に座った。明日、審査院で何を訊かれるのかを、わたしは知らない。


 書類は用意した。母の二枚と、わたしの一枚と、母の帳面十冊と、わたしの帳面。全部を鞄に入れると、思ったより重かった。


 重いのは紙のせいで、紙の中身が重いわけではない。そう思おうとして、うまくいかなかった。


 戸を叩く音がした。


「明日は休みです」と言いかけて、開けたら、ニナさんだった。


 両手に鍋を持っている。


「母さんが、食べろって」

「あの、明日は」

「知ってる。だから今日来た」


 ニナさんは押し入るように入ってきて、修理台に鍋を置いた。そのあとに、ぞろぞろと人が入ってきた。


 金物屋のご主人。奥様。下宿屋の女将さん。老夫婦。西通りの十七軒のうち、五、六軒。荷馬車の御者。ヨナスさん。ハンネスさん。


 工房は、十人も入ると身動きが取れない。


「あの、なんですか、これは」

「うるさい。座って」


 ニナさんに椅子に押し込まれた。鍋の蓋が開いて、湯気が上がった。工房が急に、食べ物の匂いになった。


「明日、一人で行くって聞いたけど」

「はい」

「そのわりに顔がひどいから、見にきた」


 わたしは自分の顔を触った。


「そんなにひどいですか」

「ひどい。母さんが見たら泣くよ」


 女将さんが、椀を回し始めた。


 老夫婦のご主人が、暖房具の礼を言い出して、話が長くなった。奥様が途中で遮った。荷馬車の御者が、魔石を落として買った話を、なぜか自慢げに語った。


 わたしは黙って聞いていた。途中で、下宿屋の女将さんがわたしの手を取って、ひっくり返した。


「ノルデンさん、手ぇ荒れとるね」

「金属を触りますので」

「油塗っときなさい。うちの姪が使うとるやつ、持ってくるわ」

「明日は休みですので」

「明後日に持ってくる」


 老夫婦の奥様が、それを聞いて口を挟んだ。


「うちのは獣脂のがええよ。よう染みる」

「獣脂は匂いがきついやろ」

「働く手に匂いも何もあるかね」


 二人の言い合いが始まって、ご主人が止めて、止めきれずに巻き込まれた。わたしは、その真ん中で椀を持って座っていた。


 王宮では、こういう時間が一度も無かった。五年いて、寮の誰かの家に招かれたことも、誰かが工房に食べ物を持ってきたことも無い。


 無かったことに、いままで気づいていなかった。半刻ほどして、ハンネスさんが小さな声で言った。


「ノルデン嬢。明日、審査院が何を訊くかは分かりませんが」

「はい」

「一つだけ、はっきりしていることがあります」


 その方は、修理台の上の紐を指した。今日までの札の控えが、そこに下がっている。何度か紐を継ぎ足して、いまは三本になっている。


「あそこに下がっている札の枚数だけ、ノルデン嬢の署名は実在します。審査院がどう判断しようと、それは変わりません」


 わたしは紐を見た。


 数えたことがなかった。今日まで、一枚ずつ通してきただけだ。


「ヨナスさん。何枚ありますか」

「数えます」


 ヨナスさんが立ち上がって、数え始めた。工房が静かになって、みんながその手元を見ていた。


「……百十四枚です」


 百十四。


 母の四千件には、まだ遠い。遠いけれど、二か月足らずで百十四だ。


「ノルデンさん」


 金物屋のご主人が、椀を置いて言った。


「うちの棚は、来月には空になりますわ」

「……はい」

「それでも、明日は行ってください」

「はい」

「うちの店が潰れるのは、あんたのせいやない。あの罅の入った石を、誰も検査せんかったからです」


 ご主人は、そこで少し詰まった。


「二十年、誰も名前を書かんかったからです」


 わたしは頷いた。


 その言い方が、母の二枚目の申立書とほとんど同じだった。母は九年かけてそこへ辿り着いて、この方は半年で辿り着いた。


 百十四という数を、わたしはしばらく口の中で繰り返した。母は四千件を十年で書いた。一年に四百件。一日に一件と少し。


 わたしは二か月で百十四だから、一日に二件近い。母より速い。速いのは、客が多いからだ。客が多いのは、王宮が止まったからだ。


 母のときは、王宮は止まらなかった。母が自分から消えて、町へ来て、誰にも気づかれずに十年直した。四千件のうち、母が誰だったかを知っていた人は、たぶん一人もいない。


「ハンネスさん」

「はい」

「母の四千件のお客さんは、母が首席調律士だったことを知っていたでしょうか」

「知らんでしょうな」

「知らないまま、鍋を三ルグで直してもらっていた」

「……そうなります」


 わたしは、その方が悔しくないのかを訊きたかった。


 訊かなかった。


 訊いてどうなるものでもないし、たぶん、母は悔しくなかった。悔しかったら、十年も続かない。人が帰ったのは、夜半だった。


 最後にニナさんが鍋を回収して、戸口で振り返った。


「お姉さん」

「はい」

「明日、あの団長さん来ると思う?」

「分かりません。明日は休みですので」

「来るよ」

「なぜ」

「三十一日ぶんの札、あの人まだ一枚も使ってないから」


 ニナさんは、それだけ言って帰った。使う、という言い方が引っかかった。札は使うものではない。控えとして持っておくものだ。


 わたしは灯りを消して、二階へ上がった。上がりかけて、下りてきて、鞄の中身をもう一度確かめた。三度確かめて、三度とも同じだった。

 百十四枚。母の四千件には、まだ遠い。それでも、紐に下がっている札の枚数だけ、その署名は実在します。

 王宮では、五年いて一度もなかった時間でした。誰かが工房に食べ物を持ってくる、というだけの時間が。手荒れに塗るのが獣脂かどうかで揉めているあいだ、主人公は椀を持って真ん中に座っているだけです。書いていて、工房が狭くて本当によかったと思いました。

 次回、審査院。椅子は、出されません。

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