第25話:母が、自分で消した
王室調達審査院から通知が来たのは、審問の五日後だった。封蝋の押された、重い紙だった。
——クレーマー商会の王室納入資格について、再審査を行う。ついては、関係者として出頭を求める。
日付は、十日後。
「行かれますか」
ハンネスさんが訊いた。
「行きます」
「何を持って行かれます」
わたしは答えられなかった。
母の申立書が二枚ある。一枚目は途中で消してあり、二枚目は書きかけだ。どちらも提出されていない。提出されていない書類は、証拠にならない。
母の帳面が十冊ある。四千件。けれどこれは町の品の記録で、王宮の納入とは関係がない。わたしの帳面がある。八十六行。同じく関係ない。
「……何もありません」
その夜、わたしは修理台に全部を並べた。二枚の申立書。母の十冊。わたしの一冊。二十年前の台帳の写し。並べて、朝まで見ていた。
夜明け近くに、ハンネスさんが下りてきた。眠れなかったらしい。
「ノルデン嬢」
「はい」
「一枚目を、もう一度お読みください」
わたしは一枚目を開いた。
「第七号納入分について、芯部に伸展する罅を有する石が、検査を通過した事実を確認した。当該検査の実施者は——」
消してある。
「二枚目も」
「検査記録上、これらはすべて『査収済』と記載されているが、記載者の署名欄は空欄である」
わたしは、そこで手を止めた。二枚は、同じことを言っていない。一枚目は、誰が通したかを書こうとしている。
二枚目は、誰も署名していないことを書いている。
「ハンネスさん」
「はい」
「母は、九年かけて、告発をやめたのですね」
「……と、申しますと」
「一枚目は、人を告発しています。ゲルハルト・メッツという人を。だから消しました。消せば、その人は無事です」
わたしは二枚目を持ち上げた。
「二枚目は、人を告発していません。空欄を指摘しているだけです。空欄は、誰の名前でもありません」
ハンネスさんが、口を開いた。
「……ですが、それでは誰も罰せられません」
「罰は、要らないと思ったのだと思います」
わたしは、母の最後の行を読んだ。——「よって本申立ては、当職の責任を明記したうえで——」母は、自分の名前を書こうとしている。
告発した人ではなく、取り下げた人として。九年前、母は自分を書こうとして、書けないまま倒れた。
「ハンネスさん。もう一つ、伺ってよろしいですか」
「はい」
「母は、二枚目を書いたとき、誰に見せるつもりだったのでしょう」
ハンネスさんは、しばらく考えられた。
「……私にではないでしょうな。一枚目のとき、私は止めましたので」
「では」
「九年前です。ノルデン嬢は、十三でしたか」
「十三でした」
その方は、それ以上言わなかった。言わなかったので、わたしが自分で続けることになった。母は、わたしが大きくなるのを待っていたのだと思う。
二十年前は、二つの娘に何も背負わせないために消えた。九年経って、娘が十三になった。もう少し待てば、この子は自分で読める。
そう思って書き始めて、その冬に倒れた。
二年後に死んだ。
母は、間に合わなかった。わたしはペンを取った。新しい紙を出して、書式を写した。王宮の書式は、五年で覚えている。——魔石納入検査 異議申立書。
日付。本日。
本文を、二枚目からそのまま書き写した。母の文章を、一字も変えずに。
最後の行まで来た。
「よって本申立ては、当職の責任を明記したうえで——」
その先を、わたしが書いた。
「——提出する。当職は、当該記録が無署名であった二十年間、王宮魔道具寮に在籍した調律士である。当職もまた、無署名の記録に基づいて調律を行い、これを問題としなかった」
書きながら、手が震えなかったのが自分でも不思議だった。
「当職の署名は、現在、王宮保証台帳から抹消されている。したがって当職には、王宮の記録上、何らの責任も存在しない」
わたしは、そこで一度ペンを置いた。それから、また持った。
「よって本書は、王宮の記録によらず、当職個人の署名によって提出する」
最後に、名前を書いた。
セリア・ノルデン。
署名の下に、もう一行足した。——ノルデン工房 保証台帳 第八十六番まで記帳。ハンネスさんが、わたしの手元を覗き込んだ。
「……これは」
「王宮の署名が消えているなら、工房の署名で出します」
「そんな書類、審査院が受け取りますか」
「受け取らないかもしれません」
わたしは紙を乾かした。
「ですが、受け取らなかったとしたら、それは『署名のない記録は効力を持たない』という母の主張を、審査院が自分で証明したことになります」
ハンネスさんが、しばらく黙った。それから、小さく笑われた。
「……セレスティア様に、よく似ておられる」
「顔がですか」
「いえ。理屈のこね方が」
朝になって、わたしは母の申立書を二枚とも、油紙に包み直した。包みながら、思った。母は、消えたのではなかった。
台帳から名前を引いたのは、逃げたからでも、罰を受けたからでもない。あれは、娘に何も背負わせないための手続きだった。
二十年、その手続きは効いていた。
わたしは誰の娘でもなく、無位の調律士として王宮に入り、無位のまま出てきた。おかげで、消されても失うものが何もなかった。
母が用意しておいてくれたのは、たぶん、そこだった。
「ハンネスさん」
「はい」
「十日後、審査院へ参ります」
「お供します」
「いえ」
わたしは首を振った。
「一人で行きます。これは、母とわたしの署名の話ですので」
母の文章は、一字も変えていません。変えたのは、最後の一行だけです。
「よって本申立ては、当職の責任を明記したうえで——」。九年前、母はそこで倒れました。書けなかったのではなく、間に合わなかった。娘が読める歳になるのを待っているうちに、冬が来た。
三枚目の署名の下に、セリアはもう一行足しました。——ノルデン工房 保証台帳 第八十六番まで記帳。王宮の署名が消えているなら、工房の署名で出す。受け取られなければ、それはそれで「署名のない記録は効力を持たない」という母の主張を、審査院が自分で証明したことになります。
次回、審査院へ行く前の夜。工房に、鍋が届きます。




