第24話:頭を下げに来た人
ゲルハルト・メッツ寮長の審問は、三日で終わった。
結果は、寮長の職を解かれたうえで、王宮魔道具寮の全記録の再点検を命じられる、というものだった。罷免ではない。処分としては軽い方だ。
ただ、再点検の対象が「過去二十年の納入検査記録」になった、と使いが教えてくれた。
二十年。
誰が言い出したのかは分からない。ハンネスさんではない。わたしでもない。審問で、寮の若い職人が一人、こう証言したのだそうだ。
「無署名の記録が多すぎて、どこから点検してよいか分かりません」
それだけだ。
告発ではない。困っている、と言っただけだ。その一言が、二十年ぶんの再点検を引き出した。ハンネスさんに、その話をした。
「若い者が言ったのですか」
「困っている、と言っただけだそうです」
「……二十年、誰も言わなかったことを」
その方は、受付の紙をめくる手を止められた。
「私は五十四です。ノルデン嬢のお母上を見送って、ノルデン嬢が入ってきて、出ていくのも見ました。そのあいだ、一度も『困っている』と言いませんでした」
「規則でしたので」
「規則ではありません。困っていると言うと、困っている理由を説明させられます。説明すると、誰かの名前を出すことになる」
ハンネスさんは、紙を揃えられた。
「その若い者は、名前を出さずに困っていると言った。それだけで通ったのです。二十年、私はそれを思いつきませんでした」
わたしは、母の申立書のことを考えていた。一枚目は、名前を書こうとして止まった。二枚目は、名前ではなく空欄を書いた。
母は九年かけて、その若い職人が一日で言ったことに辿り着こうとしていたのだと思う。その日の午後、工房の前に馬車が止まった。
列に並んでいた人たちが、いっせいに道を空けた。空けたというより、下がった。降りてきたのは、ユリウス様だった。
外套が、以前より地味だった。従者を連れていない。
「……セリア」
列の人が、ざわついた。わたしは修理台から立ち上がって、戸口へ出た。
「ユリウス様。ご用件は」
「話が、ある」
「二十九人お待ちですので、手短にお願いします」
ユリウス様は、列を見た。工房の前から角まで、人が並んでいる。
「……これは、全部客か」
「はい」
「一日に、これだけ」
「三十件で締めております」
ユリウス様は、しばらく列を見ていた。それから、こちらへ向き直られた。
「寮が、回らない」
「そうですか」
「メッツが解かれた。新しい寮長はまだ決まらん。若い職人は次々辞める。台帳の再点検には二十年ぶんの記録が要るが、記録の半分は署名がない」
「大変ですね」
「……戻ってくれ」
列のいちばん前の人が、聞こえないふりをして下を向いた。わたしは少し考えて、答えた。
「お断りします」
「給金は出す。位も付ける。無位ではなく、正規の調律士として」
「お断りします」
「なぜだ」
わたしは、修理台の方を振り返った。三十一枚の札が、今日のぶんだけ紐に通してある。
「二十九人お待ちですので」
「そんな話をしているのではない」
「そんな話をしております」
わたしは、はっきり言った。
「この二十九人は、明日また来ます。来週も来ます。わたしが王宮へ戻れば、この人たちの品を直す人がいなくなります」
「町の職人など、他にもいるだろう」
「無署名の品を受ける工房は、王都にここだけです」
ユリウス様は、口を開いて、閉じた。それから、視線を落とされた。
「……悪かった」
小さい声だった。
「五年、君に何をさせていたのか、分かっていなかった。報告書に自分の名前を書くのが当たり前だと思っていた。実際、そういう決まりだった」
「決まりではあります」
「決まりだからやっていたのではない。楽だったからだ」
わたしは黙っていた。
「壊れたら買い直せばいい、と言った。あれは——」
ユリウス様は、そこで言葉を探された。
「あれは、君が何をしているかを知らなかったから言えたことだ」
わたしは、その言葉を受け取った。受け取ったけれど、渡し返すものがなかった。
「ユリウス様」
「なんだ」
「謝っていただかなくて結構です」
「……そうか」
「怒っておりませんので」
嘘ではなかった。
最初の三日は腹が立った。四回目で飽きた。それから五十日近く、わたしは一度も腹を立てていない。腹を立てる時間がなかった。
「ただ、戻りません」
ユリウス様は頷いて、馬車の方へ歩いていかれた。途中で振り返って、こう仰った。
「一つ、教えてくれ」
「はい」
「あの二十台の新品は、どうすればいい」
「箱に戻して、乾いた場所に置いてください。次の調律士が来たときに、そのまま使えます」
「……調律すれば、点くのか」
「点きます。最初から、そう申し上げております」
ユリウス様は、少しのあいだ黙って、それから馬車に乗られた。列に戻ると、いちばん前の人が言った。
「あれ、婚約破棄した人でしょ」
「はい」
「ええんですか、あんな返事して」
「三十件で締めておりますので」
列から笑いが起きた。その晩、アイゼン殿が来られた。三十一挺目。わたしは受け取って、開けて、見て、閉じた。
「異常が、ありません」
「そうか」
その方は、いつもの位置に立っておられた。
「昼間、寮の主任が来たそうだな」
「お耳が早いですね」
「角に二人置いてある」
「……そうでした」
わたしは札を書いた。書きながら、訊いてみた。
「アイゼン殿は、なぜ角に二人置いてくださっているのですか」
「寮長が来たからだ」
「寮長は、もう解かれました」
「ああ」
「では、もう不要では」
「……解かれた者の方が、危ない」
それだけ仰った。
わたしは札を半分に切って、お渡しした。その方はいつものように外套の内側へしまい、いつものように手を止めた。
今日も、何も出さずに手を下ろされた。
二十年ぶんの再点検を引き出したのは、告発ではありませんでした。寮の若い職人が「無署名の記録が多すぎて、どこから点検してよいか分かりません」と言った。それだけです。
困っていると言うと、困っている理由を説明させられる。説明すると、誰かの名前を出すことになる。だから二十年、誰も言わなかった。——母が九年かけて辿り着こうとしていた場所に、その人は一日で立っていました。
次回、母が書き終えられなかった三枚目を、娘が書きます。




