第23話:告発は、届かなかった
二枚目の申立書は、一枚目より九年あとに書かれていた。母が死ぬ、二年前だ。書式は同じ。ただ、中身が違った。
一枚目は、罅のある石が検査を通過した事実を指摘して、実施者を書く直前で止まっていた。二枚目は、そこから先が書いてある。
「第七号納入分以降、当該商会の魔石は、芯部に伸展する罅を有するものが一定の割合で含まれる。検査記録上、これらはすべて『査収済』と記載されているが、記載者の署名欄は空欄である」
わたしは、その一行を二度読んだ。
署名欄が、空欄。
「検査を実施した者の署名を欠く記録は、当該記録の効力を有しない。よって、過去九年間の魔石納入は、すべて未検査として扱われるべきである」
九年間。
「なお、本件について、当職は十一年前に一度、申立てを取り下げている。取り下げの理由は、当職個人の事情による」
当職個人の事情。
母の字は、そこだけ少し大きかった。
「当該取り下げが、以後九年の未検査状態を招いた責任は、当職にある」
最後の行は、こう続いていた。
「よって本申立ては、当職の責任を明記したうえで——」
そこで、また切れていた。今度は線が引いてない。書きかけのまま、終わっている。わたしは日付を見た。九年前の、秋。その二年後に、母は死んだ。
「ノルデン嬢」
ハンネスさんが、後ろに立っておられた。わたしは紙を差し出した。ハンネスさんは受け取って、読んで、読み終わって、両手で顔を覆われた。
「……セレスティア様は、こうして書いておられたのですか」
「ご存知でしたか」
「一枚目は、知っておりました」
わたしは待った。
ハンネスさんは、椅子に座り込んだ。
「二十年前です。セレスティア様が、私に見せに来られました。『これを出す』と。私は止めました」
「なぜ」
「こわかったからです」
その方は、はっきりそう仰った。
「実施者の欄が空欄でした。空欄ということは、誰かが署名せずに通したということです。当時、納入検査を仕切っていたのは次席でした」
「ゲルハルト・メッツ」
「はい」
わたしは頷いた。
「私は言いました。『次席を告発すれば、あなたも私も寮にいられなくなる』と」
その方は、両手を膝の上で組み直された。
「言い訳をさせていただくと、当時の私は二十九で、寮に入って四年でした。首席と次席の争いに巻き込まれれば、真っ先に切られるのは私です」
「そうでしょうね」
「ですが、それは本当の理由ではありません」
「では」
「セレスティア様が勝つと思えなかったのです」
ハンネスさんは、そこで顔を上げた。
「罅の入った石が通っている。それは事実です。ですが、事実を出したところで、『魔石には当たり外れがある』の一言で終わる。当時も、いまも」
「終わりますね」
「終わります。終わったあとに残るのは、告発した人の名前だけです」
わたしは頷いた。
二十年経って、わたしが同じことを考えている。貼り紙に刻印の名前を書かなかったのも、会頭に「憶測を含みます」と言ったのも、たぶん、同じ計算だ。
「セレスティア様には、二つのお嬢さんが——いえ、お嬢さんが一人おられました」
わたしのことだ。
「二つでした」
「はい。二つでした」
ハンネスさんは、膝の上で手を組んだ。
「セレスティア様は、三日考えて、申立てを取り下げられました。そのかわり、ご自分の署名を全部、台帳から引かれた」
「……ご自分で?」
わたしは、聞き返した。
「はい」
「消されたのではなく」
「ご自分で、羽根ペンを持って、二十三行に線を引かれました。私はその場におりました」
外の列の音が、遠くに聞こえていた。
「なぜ、そんなことを」
「分かりません」
「分かりません、では」
「本当に、分からんのです」
ハンネスさんは、顔を上げた。
「ただ、線を引いたあとに、こう仰いました。——『これで、この子は誰の娘でもなくなる』と」
わたしは、椅子の背を掴んだ。
「もう一度、仰ってください」
「……『これで、この子は誰の娘でもなくなる』」
二十年、その言葉はハンネスさんの中にあった。わたしは、自分の手を見た。
十七で王宮に入ったとき、誰もわたしを首席調律士の娘だと言わなかった。名簿には「ノルデン」としか書いていない。ノルデンという姓は、この国では珍しくない。
寮の誰も、わたしを母と結びつけなかった。結びつける手がかりが、台帳から消えていたからだ。
「ハンネスさんは、ご存知でしたね」
「存じておりました」
「五年間、一度も仰いませんでした」
「……はい」
「なぜです」
「セレスティア様が、消された意味が無くなりますので」
わたしは、椅子に座った。座らないと、立っていられなかった。母が署名を消したのは、罰ではなかった。
告発を取り下げた人間として王宮に残れば、いつか誰かがその弱みを使う。使う相手は、母ではなく、二つの娘だ。だから、母は先に消えた。
台帳から名前を抜いて、寮を辞めて、町の工房で鍋の取っ手を三ルグで直した。誰の娘でもない子として、わたしを育てた。
「……ハンネスさん」
「はい」
「母は、九年後にもう一度書こうとしています」
「そのようですな」
「なぜ、そのときは出さなかったのでしょう」
ハンネスさんは、日付を指した。
「九年前の秋です。この年の冬に、セレスティア様は倒れられました」
わたしは息を吐いた。書けなくなったのだ。それだけの話だった。その日の夕方、寮から使いが来た。
ハンネスさんの元同僚だった。工房の前の列を見て、しばらく驚いた顔をしていた。
「メッツ寮長が、審問にかけられます」
「審問」
「結界の第七基の件です。三月前の点検記録が、丸ごと抹消されているのが問題になりました。誰が抹消を指示したのか、寮内で答えられる者がおりません」
わたしは、修理台の上の申立書を見た。
「わたしは、何もしておりません」
「存じております。だから、寮の者はみな驚いております」
使いは、少し声を落とした。
「ノルデン嬢が何もしていないのに、勝手に崩れているのです」
「これで、この子は誰の娘でもなくなる」。
二十年、この言葉はハンネスさんの中にありました。母親が署名を消したのは、罰でも逃亡でもなく、手続きだったのです。告発を取り下げた人間として王宮に残れば、いつか誰かがその弱みを使う。使う相手は自分ではなく、二つの娘だ。だから、先に消えた。
一枚目は人を告発し、二枚目は空欄を告発しています。九年かけて、母は矛先を人から書式へ移していました。
次回、工房の前に馬車が止まります。降りてきた人は、従者を連れていません。




