第22話:うちは、看板を下ろさない
ハルト鉄具店の棚が、目に見えて減っていった。十日で、金物の棚が三分の一空いた。二十日で、半分になった。
ご主人は毎朝、店の前を掃いておられた。掃く場所は減っていないのに、掃く時間は長くなっていた。わたしにできることは、なかった。
できることがないので、代わりに毎日、店の前を通るときに挨拶をした。それだけだ。二十二日目の朝、商会の人が三人で来た。
わたしは工房の窓から見ていた。ニナさんが店の奥から出てきて、ご主人の隣に立った。紙が差し出された。ご主人が受け取って、読んだ。
それから、破いた。
三人が何か言った。ご主人が首を横に振った。三人が、もう一度何か言った。そのとき、ニナさんが前に出た。距離があるので、声は聞こえなかった。
ただ、ニナさんが腕を組んで、片眉を上げたのが見えた。それから、口が動いた。短い言葉だった。三音か、四音。三人は帰っていった。
昼過ぎ、わたしは店の前へ行った。ご主人が、看板を見上げておられた。
「ノルデンさん」
「はい」
「これ、傾いとりませんか」
見ると、たしかに右に傾いていた。留め具が腐食している。金物屋の看板が金物で傷んでいるのは、少し可笑しかった。
「直せます。魔道具ではありませんが」
「直してもらえますか」
「お代はいただきません」
「取ってください」
「では、留め具の実費だけ」
脚立を出して、看板を下ろした。留め具は四つとも駄目になっていた。裏側に、古い留め具の跡がある。前に一度、打ち直してある。
「これ、いつ打ち直されましたか」
「十二年前ですわ」
「どなたが」
「ノルデンさんの、お母さんです」
わたしは手を止めた。
「母が」
「開店したときにね、看板が傾いとったんです。そしたら、隣の工房のご主人が——お母さんですけど——脚立担いで来て、勝手に直してしまわれた」
「勝手に、ですか」
「勝手に。お代も取らんと。『傾いた看板は、店が傾いて見えるから』言うて」
ご主人は笑った。
「うちの家内が、そのとき妊娠しとりましてね。生まれたのがニナです」
わたしは古い留め具を外して、手のひらに載せた。四つとも、同じ型だった。工房の二十九番目の箱にあるのと同じ。母の在庫と、同じ型。
「ご主人。この留め具は」
「お母さんが打ったやつですわ」
「十二年、もっておりますね」
「金物屋の看板が十二年もたんかったら、恥ですやろ」
わたしは笑った。声を出して笑ったのは、久しぶりだった。新しい留め具を四つ打った。水平を見て、少し右を上げて、もう一度見た。
「終わりました」
「ええ看板になりましたわ」
ご主人は、しばらく看板を見上げておられた。
「ノルデンさん」
「はい」
「うちは、たぶん、あと二月です」
わたしは何も言えなかった。
「金物が入らんのですわ。他所から引こう思うたら、値が倍になる。倍の値で売ったら、誰も買わん」
「……申し訳ありません」
「謝らんでください」
ご主人は首を振られた。
「あの秤の話を聞いてから、うちは値札を全部書き直しました。正しい重さで。売上は落ちましたわ」
わたしは、ニナさんが言っていたことを思い出した。
「そのぶん、常連が増えた。前は月に八十軒やったのが、いま百二十軒来ます」
ご主人は、指を四本立てた。
「百二十軒のうち、四十軒はよそから移ってきたお客です。『ハルトの秤は正しい』言うて」
その方は、看板を指した。
「うちが潰れるとしたら、それは仕入れが止まったからです。値札を直したからやない」
わたしは頷いた。
「だから、看板は下ろしません。潰れる日まで、傾いてない看板を掛けときます」
その言い方が、ニナさんとよく似ていた。工房に戻ったら、ニナさんが修理台に座っていた。
「見てたでしょ」
「見ておりました」
「あの三人に何て言ったか、聞きたい?」
「聞きたいです」
ニナさんは、腕を組んで、片眉を上げた。
「『うちは、看板を下ろさないから』」
わたしはしばらく黙って、それから言った。
「よい台詞です」
「でしょ。三日考えた」
「三日」
「言う日が来るって思ってたから」
ニナさんは、修理台の隅の帳面を見た。母の十冊が、そこに積んである。
「それ、おばさんの?」
「はい。十年ぶんの、四千件です」
「四千」
ニナさんは一冊を手に取って、めくった。
「鍋。三ルグ。……安すぎない?」
「安すぎます」
「なんでこんな安いの」
「たぶん、払える額にしたのだと思います」
ニナさんは、頁をめくる手を止めた。
「ハルト鉄具店って書いてある」
「四十七回、出てまいります」
「四十七」
「開店祝いの看板が、いちばん最初です。お代は『なし』でした」
ニナさんは、その行をじっと見ていた。
「……わたし、生まれてない」
「その年に、お生まれになったそうです」
「父さんが言ってたの?」
「はい。看板を直しているときに」
ニナさんは帳面を閉じて、両手で持ったまま、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「うちの店って、最初から傾いてたんだ」
「傾いていたのは看板だけです」
「同じでしょ」
「違います」
わたしは、いつもの答えを返した。ニナさんは、笑った。ニナさんは、そのまま何頁かめくって、それから急に手を止めた。
「お姉さん。これ」
差し出された頁を、わたしは覗き込んだ。九冊目の、後ろの方。挟まっていたのは、折りたたんだ紙だった。倉の箱の底にあったものと、同じ書式の。
二枚目の異議申立書だった。
「うちは、看板を下ろさないから」。三音か四音に見えた口の動きの正体が、これでした。三日考えたそうです。
その看板の留め具を十二年前に打ったのは、母親でした。お代も取らず、「傾いた看板は、店が傾いて見えるから」と言って、勝手に。その年に生まれた子が、いま同じ台詞を言っています。血ではなく、留め具の型でつながっている話が書きたかった。
次回、九冊目に挟まっていた二枚目を読みます。九年後に、母はおなじ書式でもう一度書いていました。
ブックマークと☆は、留め具四つぶんの実費に充てさせていただきます。




