第20話:消せない署名
工房に戻って五日、わたしは考えていた。母の異議申立書は、途中で消えている。誰が検査したのかを書く直前で、母は自分の手で線を引いた。
書けなかったのではない。書かなかったのだ。書かなかった理由を、わたしはまだ知らない。
ただ、二十年経ったいまも、同じ罅の入った石が市場に並んでいる。母が止めようとして止めなかったものが、そのまま続いている。
わたしにできることは、たぶん、告発ではない。告発は、一度失敗している。できるのは、見分け方を配ることだった。
「広場でやります」
朝、ヨナスさんとニナさんにそう言った。
「何をですか」
「調律を、人前で」
ヨナスさんが、露骨に嫌そうな顔をした。
「見世物にするのですか」
「見世物にします」
わたしは説明した。
王都の広場は、十日に一度、市が立つ。人が集まる。そこに修理台を出して、持ち込まれた品をその場で直す。無料で。ただし、条件をつける。
署名のない品だけを受ける。
「無署名の品は、寮の職人が触れません。触ると責任が移りますので。町の職人も、王宮の品には手を出せません」
「では、なぜノルデン嬢は」
「わたしは、責任を引き受けます。札を書きますので」
ニナさんが口を挟んだ。
「それ、危なくない? 壊れたら全部お姉さんのせいでしょ」
「はい」
「じゃあやめときなよ」
「壊れないように直しますので」
ニナさんは、頭を抱えた。市の日、広場の隅に修理台を出した。
ヨナスさんが看板を立てた。「無署名の品、直します。お代はいただきません。札を書きます」。最初の四半刻は、誰も来なかった。
半刻を過ぎた頃、老人が一人、鍋を持ってきた。
「これ、魔道具やないけど」
「直します」
留め金を替えて、二十を数えるうちに終わった。札を書いて、お渡しした。その様子を、十人ほどが遠巻きに見ていた。
二人目は、湯沸かしを台車で運んできた女の人だった。座が沈んでいたので、敷板を挟んだ。三人目は、子供の玩具。魔石の入れ方が逆だっただけで、直すというより教えるだけで終わった。子供が持ち帰るときに礼を言って、ニナさんが「ちゃんと言えたね」と褒めていた。
四人目のとき、人だかりの数が三十を超えた。わたしは手を動かしながら、声を出して説明することにした。
「いま開けているのは、座です。ここに魔石が載ります。座が沈むと、魔石が接点に押しつけられて、熱が籠もります」
誰も質問しなかったけれど、みんな聞いていた。
「熱が籠もると煤が出ます。煤が出ると通りが悪くなって、通りが悪くなると余計に熱くなります。ですので、煤を拭くのは掃除ではなくて、修理です」
人だかりの後ろから、声が飛んだ。
「そんなん教えたら、あんたの仕事が減るやろ」
笑いが起きた。
「減りません」
わたしも答えた。
「拭いても、座は沈みます。沈んだ座は、素人には直せません。そこから先が、わたしの仕事です」
また笑いが起きた。さっきより大きかった。六人目に持ち込まれたのは、灯りだった。王宮の紋が、枠に入っていた。
持ってきたのは、寮の下働きの若者だった。顔を伏せている。
「これは、王宮の品ですね」
「……廃棄に回された分です。もう帳簿から落ちておりますので、拾っても叱られません」
「無署名ですか」
「はい。誰も触れなくて、そのまま」
わたしは受け取って、修理台に置いた。人だかりの前列が、半歩詰めた。
枠を開ける。座を見る。魔石は生きている。接点に、うっすら緑青が出ていた。掻いて、拭いて、当て板を一枚入れる。
その手を止めて、わたしは顔を上げた。
「みなさん。ここを見ていてください」
わたしは座の縁を指した。
「調律をすると、座の縁に痕が残ります。棒の当て方が人によって違いますので、痕の形も違います。わたしの痕は、少し右に流れます」
人だかりが、修理台に寄ってきた。
「この灯りの座には、前の痕が残っております」
わたしは古い痕を指した。
「右に流れております」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「これは、わたしが四年前に調律したものです」
台帳から、わたしの署名は消えている。消えているけれど、この金属には、まだ残っている。
「署名は紙の上のものです。紙は、消せます」
わたしは当て板を入れて、蓋を閉じた。
「けれど、誰が直したかは、品の方が覚えております」
点けた。
光が点いた。
人だかりから、声が上がった。声というより、息の音がいっせいに出たような音だった。わたしは札を書いて、若者に渡した。
保証の欄に、セリア・ノルデンと書いた。その日、無署名の品が十一点来た。十一点とも直した。十一枚の札を書いた。
夕方、片付けているところへ、人だかりの奥から男が一人出てきた。仕立てのよい上着。クレーマー商会の支配人だった。
「ノルデン嬢。会頭からの言伝です」
「伺います」
「『たいへん結構な見世物でした。ただ、痕が残るのは調律の話であって、魔石の話ではありませんな』と」
わたしは頷いた。
「そのとおりだとお伝えください」
「……そのとおり、ですか」
「はい。ただ、もう一言お伝えください」
わたしは修理台を畳みながら言った。
「『魔石の検査にも、検査した人の名前を書く欄があります』と」
支配人の顔から、表情が抜けた。その晩、工房に戻ると、戸口にハンネスさんが立っておられた。帽子を手に持って、荷物を足元に置いて。
「ノルデン嬢。今日、広場におりました」
「お見かけしませんでした」
「後ろの方でしたので」
その方は、荷物を持ち上げた。
「寮を、辞めて参りました」
「署名は紙の上のものです。紙は、消せます。——けれど、誰が直したかは、品のほうが覚えております」。
この作品を思いついた瞬間に、この場面だけは先に決まっていました。台帳の署名は消せる。金属に残った棒の痕は消せない。右に流れる癖まで込みで、四年前の自分が証人になります。
「そんなん教えたら、あんたの仕事が減るやろ」に笑いが起きるところ、広場の空気がいちばん良かったと思います。
次回、工房の前に列ができます。朝、戸を開けたら十二人。
ブックマークと☆をいただけますと、広場に出した修理台の脚が、一本ぶん丈夫になります。




