第19話:倉に、十年置かれていた箱
隣町までは、荷馬車で一日かかった。問屋の倉は、町の外れにあった。屋根の高い、暗い建物で、床から天井まで木箱が積んである。
主人は七十くらいの方で、わたしの顔を見て、しばらく黙っておられた。
「……似とるな」
「母をご存知ですか」
「毎月来とったよ。この道を、荷馬車で。若い頃は歩いてきよった」
主人は奥の棚から、木箱をひとつ下ろした。埃をかぶっていた。表に、母の字で「ノルデン」とだけ書いてある。
「預かったのは、十一年前や。『しばらく置かせてくれ』言うてな」
「十一年前」
「そう。それから一年して、亡くなったと聞いた」
母が死ぬ一年前。
「保管料をお支払いします」
「ええよ、そんなもん」
「お支払いします。十年ぶんです」
押し問答の末、二百ルグで折り合った。主人はしぶしぶ受け取って、受取証を書いてくださった。
ヨナスさんと二人で荷馬車に積んで、その日は隣町に泊まった。宿の部屋で、わたしは箱の前に座ったまま、しばらく開けられなかった。
「開けますか」
「……はい」
留め金は錆びていて、二度めで外れた。中に入っていたのは、帳面だった。
十冊。
背に、年が書いてある。母がこの工房を開いた年から、十年ぶん。全部そろっている。わたしは一冊目を開いた。——ノルデン工房 保証台帳。
わたしが白紙の帳面の表紙に書いたのと、一字一句同じ言葉だった。
同じ言葉を選んだのは、偶然ではない。あの白紙の帳面は、母が使っていたのと同じ型だった。同じ型の表紙に、書くべき言葉はひとつしかない。
わたしはヨナスさんを見た。
「同じことを、書いておりました」
「……はい」
「母の帳面を、わたしは一度も見たことがありません」
「では、それは」
ヨナスさんが、言いにくそうにした。
「教わっていない、ということですか」
「教わっておりません」
教わったのは、動くところを全部押さえて残ったところを見る、という一言だけだ。
それ以外は、見て覚えた。母が修理台で手を動かすのを、隣で見ていた。手つきを覚えて、そのあと十年、王宮で同じ手つきで直した。
表紙の言葉も、たぶん、そうやって入っていた。中は、わたしの帳面と同じ形式だった。日付。品名。症状。お代。そして、いちばん右の欄に、母の署名。
一行目は、鍋だった。
「取っ手の留め金。三ルグ」
三ルグ。
わたしは指で数えていった。一頁に二十行。一冊で四百行ほど。それが十冊。母は十年で、四千件ほど直している。ほとんどが、一件十ルグ以下だった。
鍋。呼び鈴。湯沸かし。子供の玩具。壊れた靴の留め金——これは魔道具ですらない。途中で、同じ名前が何度も出てくることに気がついた。
ハルト鉄具店。四十七回。最初は開店祝いの看板の留め具で、お代の欄に「なし」と書いてある。そのあと、秤、呼び鈴、店の灯り、また秤。
最後にハルトの名前が出るのは、九冊目だ。
「店の看板 留め具四 なし」
わたしが二十二日後に打ち直すことになる、あの留め具だった。母は十二年前に打って、それきりだ。十二年もてば十分な仕事だと思う。
西通りの十七軒も、名前が並んでいた。水路の点検口を「一軒あたり二ルグ」で十七軒ぶん。合計三十四ルグ。半日仕事のはずだ。
母は、こうやって町を一巡していた。一巡した町の道具が、十年経って、いまわたしのところへ来ている。
王宮で四百七十二点を回していた人が、辞めたあと十年、鍋の取っ手を三ルグで直していた。
わたしは二冊目を開いて、三冊目を開いて、七冊目のあたりで手が止まった。字が、変わっていた。線が細くなって、少し震えている。病気になった頃だ。
それでも、書いてある。日付、品名、症状、お代、署名。最後の帳面の、最後の行は、亡くなる三日前の日付だった。
「傘の柄の留め具。二ルグ。」
署名がある。
わたしはその頁を、長いこと見ていた。母は、十年かけて、四千件の署名を残した。
王宮の台帳から名前を消された人が、消せない場所に、四千回名前を書いた。
「ノルデン嬢」
ヨナスさんが、小さな声で言った。
「泣いておられます」
「手元は見えますので、大丈夫です」
言ってから、それは母が言いそうな言い訳だと気がついた。箱の底に、もうひとつ入っていた。帳面ではない。折りたたんだ紙が、油紙に包んである。
油紙は、四つ折りにして、角を折り込んで留めてあった。
湿気を通さない包み方だ。母は魔石を保管するときに、いつもこの折り方をしていたのだと思う。十年経って、中の紙はまだ白かった。
わたしは折り目に沿って開いた。開くと、王宮の書式だった。——魔石納入検査 異議申立書。
日付は、二十年前。署名の欄に、セレスティア・ノルデンとある。本文は、途中で終わっていた。
「第七号納入分について、芯部に伸展する罅を有する石が、検査を通過した事実を確認した。当該検査の実施者は——」
そこで、切れている。書きかけではない。線を引いて、消してある。消されたのではなく、母自身が消していた。同じ墨で、同じ筆圧で。
わたしはその紙を、ゆっくり畳んだ。ヨナスさんが、横から覗き込んだ。
「……第七号納入分。二十年前ですね」
「はい」
「実施者を書く直前で、消しておられます」
「消したのは、母です」
わたしは、消し線を指でなぞった。
墨の色が、本文と同じだった。時間を置いてから消したのなら、色が変わる。変わっていないということは、書いたその日に消したということだ。
書いて、すぐに消した。
「ヨナスさん。この書式は、王宮のどこへ出すものですか」
「調達審査院です。寮を通さずに、直接出せます」
「直接」
「はい。寮の者が寮を告発できるように、そういう道が作られております」
道はあった。
道があるのに、母は出さなかった。
「ヨナスさん」
「はい」
「明日、朝いちばんで発ちます」
王宮の台帳から名前を消された人が、消せない場所に、四千回名前を書いていました。
鍋の取っ手、三ルグ。呼び鈴。子供の玩具。壊れた靴の留め金——これは魔道具ですらありません。十冊目の最後の行は、亡くなる三日前の「傘の柄の留め具。二ルグ」。署名があります。
箱の底の油紙には、二十年前の異議申立書が一枚。実施者を書く直前で、母親自身が線を引いて消していました。道はあったのに、出さなかった。
次回、広場に修理台を出します。人前で、無署名の品だけを直します。




