第15話:結界が、綻ぶ
仕入れが止まって、二日が経った。
部品箱の在庫は、母の代からのものが残っている。すぐに困りはしない。困るのは、消耗の速い部品——接点の当て板と、押さえ金と、細い留め具だ。あれは月に百は使う。
ヨナスさんが、隣町まで買いに行くと言い出した。
「往復で二日かかります」
「二日で足りるなら、行きます」
「隣町の問屋も、断られるかもしれません」
「その場合は、そう分かるだけでも収穫です」
わたしは路銀を渡した。財布が、また軽くなった。ヨナスさんが出ていった日の午後、空が光った。
雷ではなかった。
王都の上空には、目には見えない結界が張られている。年に四度、足場を組んで調律する、あの結界だ。見えないはずのものが、そのとき、白い膜になって見えた。
膜に、亀裂が走っていた。北から南へ、細く、長く。通りの人が全員、空を見上げていた。
「なんだあれ」
「結界だろ。あんなの見えるもんか」
「見えるってことは、まずいんじゃないのか」
まずい。
結界は十二基の柱で支えられていて、一基の座がずれると、隣が負荷を引き受ける。引き受けきれなくなると、膜が薄くなる。薄くなったところが、光って見える。
見えている時点で、限界の八割は超えている。
わたしは工房に駆け戻って、母の古い紙束から結界の図を引っ張り出した。十二基の配置と、調律の順番。母の字だ。北から南への亀裂。第七基だ。
三月前に、わたしが登った。あのとき座に少し遊びがあって、当て板を一枚入れた。次は秋に見るつもりで、台帳の余白にそう書いた。
書いたその欄に、いま、斜線が引いてある。わたしは図を持って、通りに出た。
結界の柱は、王都の外周に十二本ある。町の中からでも、二本は見える。北の丘の上と、東の城壁の角。
北の丘を見上げた。柱の上に、うっすらと光の筋が立っている。あの筋が見えるということは、そこから膜が漏れているということだ。
膜が破れると、どうなるか。
結界は、外から入るものを止めている。魔物の類はここ三十年出ていないので、実際に止めているのは風と雨と、季節はずれの雹くらいだ。
破れたところで、すぐ人が死ぬわけではない。
ただ、王都の水路と農地は、結界の内側の気候で組まれている。破れれば、収穫が変わる。変わるのは今年ではなく来年で、困るのは王宮ではなく町だ。
わたしは図を畳んで、工房に戻った。
「ヨナスさん。当て板の在庫、何枚ありますか」
「隣町から買った二百枚が、まだ百八十あります」
「結界用の厚みは」
「……ありません。あれは特注です」
そうだった。
結界の当て板は、寮が窯に特注する。町では手に入らない。つまり、いまわたしが第七基に登っても、直せない。
直せないものの心配をしても仕方がない、と自分に言い聞かせて、その日の三件を片付けた。片付けているあいだ、手が二度止まった。
夕方までに、王宮から三騎が下りてきた。一騎目は寮の使い走りで、工房の前を素通りした。二騎目も素通りした。三騎目が、止まった。
降りてきたのは、ゲルハルト・メッツ寮長だった。あの日、羽根ペンを持っていた方。
「久しいな、ノルデン嬢」
「寮長」
寮長は工房に入ってきて、勝手に椅子に座られた。会頭よりも遠慮がなかった。
「単刀直入に言おう。第七基だ」
「そのようですね」
「君が最後に触った。三月前だ」
「はい」
「当て板を入れたな」
「入れました。台帳の余白に書いております」
寮長は、工房の中を見回された。部品箱。修理台。壁の貼り紙。貼り紙のところで、鼻を鳴らされた。
「素人に石の見分けを教えて、何になる」
「買う人が困らなくなります」
「困らせておけばいいのだ。困った者が金を出す。それで職人が食える」
わたしは黙っていた。
「君の母上は、そこが分かっていなかった。だから町へ落ちた」
落ちた、という言い方に、わたしは一度だけ息を止めた。
止めて、吐いた。
母の十年は、落ちた十年ではない。それを証明するものを、わたしはまだ持っていない。持っていないので、いま言い返しても、ただの反論になる。
寮長は、指で修理台を二度叩かれた。
「その余白ごと、抹消されている」
「存じております。目の前で引かれましたので」
寮長の表情は変わらなかった。
「戻れ」
「お断りします」
「聞け。あれは君の仕事だ。君が入れた当て板が原因かもしれん。だとすれば、責任は君にある」
「ございません」
わたしは自分でも驚くくらい、はっきり言った。
「当て板を入れた時点で、台帳にはわたしの署名がありました。責任はそこにありました。署名を抹消なさった瞬間に、その責任も一緒に消えております」
「屁理屈だ」
「規則です。無署名の品に手を入れれば責任が触れた者に移る——そう仰ったのは、寮長です」
寮長は、しばらく黙っておられた。それから、笑われた。会頭とは違う笑い方だった。歯を見せる笑い方だった。
「セレスティアも、そういう物言いをした」
わたしは息を止めた。
「母をご存知なのですね」
「次席だったからな。あれは首席で、私は次席だ。二十年、その順番だった」
「二十年前に、母の署名を抹消なさったのはどなたですか」
「さあ。当時の寮長だろう」
「ご指示は」
「私は次席だ。指示などできん」
嘘だ、と思った。
思ったけれど、証拠がない。証拠がないものを口に出すと、それは悪口になる。寮長は立ち上がって、外套の埃を払われた。
「ノルデン嬢。忠告しておく」
「はい」
「君の母上は、あのあと十年、この工房で町の品を直して死んだ。王宮の名簿からは名前が消え、いまでは覚えている者もほとんどいない」
寮長は、戸口で振り返った。
「君の母上のように、消えたくはないだろう」
戸が閉まった。
わたしは、しばらく動かなかった。窓の外で、まだ空が白く光っている。亀裂は、さっきより少しだけ広がっていた。消えたくはないだろう、と言われた。
母は、消えたのだろうか。
母は十年間、この修理台で町の品を直して、その一件ずつを帳面に書いた。あの帳面はどこにあるのだろう。抽斗にも棚にも、白紙の一冊しかなかった。
十年ぶんの帳面が、この家にはない。わたしはそのことに、いま初めて気がついた。
結界は十二基の柱で支えていて、一基の座がずれると隣が負荷を引き受けます。引き受けきれなくなると膜が薄くなり、薄くなったところが光って見える。——見えている時点で、限界の八割は超えています。
「君の母上のように、消えたくはないだろう」。この台詞を言わせた時点で、寮長の負けは決まりました。言わなければ、誰も母親のことを調べなかったので。
次回、朝、戸を開けたら通りが塞がっています。




