第13話:壊れる前に、直したい
その日、アイゼン殿は手ぶらで来られた。
夕方の、まだ日のあるうちだった。戸口に立って、いつもと同じように黙っておられる。ただ、両手に何も持っていない。
「……いらっしゃいませ」
「頼みがある」
わたしは椅子を出した。今日は座られた。座ると、修理台の高さが合わなくて、少し窮屈そうだった。
「隊の携行灯を、四十挺すべて見てほしい」
わたしはペンを取った。
「承ります。日を分けて、何日かに」
「まとめてでいい。隊舎に来てもらえるか」
「出張ですか」
「運ぶと落とす者が出る」
真面目な顔で仰るので、わたしは笑わないように口を結んだ。
「四十挺ですと、二日いただきます。出張料は日に八十ルグ、点検料は一挺五ルグ、部品は実費で」
「安すぎる」
「え」
「二日拘束して二百六十ルグは、安すぎる」
わたしは計算を見直した。合っている。
「相場が分かりませんので、そう仰るなら上げます」
「上げてくれ」
初めて、値上げを客に頼まれた。結局、出張料を日に百二十ルグに直した。アイゼン殿は頷いて、それから、しばらく黙っておられた。
言いたいことがあるときの黙り方だと、この十日ほどで分かるようになっていた。
わたしは待った。
工房の奥で、ヨナスさんが魔石を選り分ける音がしていた。石が木箱の底に触れる、こつ、こつという音。アイゼン殿は、その音の方を一度見た。
「人を入れたのか」
「三日前に。寮を辞めた方です」
「払えるのか」
「三月後には」
「それまでは」
「わたしの分を減らします」
アイゼン殿は眉を寄せられた。眉が動いたのを見たのは、初めてだった。
「壊れてからでは、遅い」
やがて、そう仰った。
「はい」
「灯りが消えて困るのは、暗いからではない」
アイゼン殿は、修理台の木目を見ておられた。
「暗いのは我慢できる。困るのは、消えた瞬間に人が固まることだ。二歩か三歩、動けなくなる。その二歩で、隊列が割れる」
わたしはペンを置いた。
「点検は、その二歩を消すためのものだ」
「……はい」
「だから、点検を五ルグで書かないでほしい」
わたしは顔を上げた。
「異常なしの札を、七枚持っている」アイゼン殿は外套の内側に手を当てられた。「あれは、異常がなかったという記録だ。壊れなかった記録が七枚ある。それは修理より安いものではない」
わたしはこの五年、王宮で四百七十二点を回してきた。壊れたものを直し、壊れる前に見て、報告書に書いた。報告書には「修理件数」の欄しかなかった。壊れなかったものを数える欄は、どこにもなかった。
だから、そういう数え方があると、いま初めて知った。
「……点検料を、十五ルグに上げます」
「まだ安い」
「では二十で」
「ああ」
アイゼン殿は満足そうに——たぶん満足そうに、頷かれた。表情はほとんど動かないので、確信は持てない。
その方が帰られたあと、ニナさんが入れ替わりに顔を出した。
「今の、団長さん?」
「はい」
「手ぶらだったけど」
「四十挺まとめて見ることになりました。隊舎へ伺います」
ニナさんは、ぽかんと口を開けた。それから、両手で顔を覆って、しゃがみ込んだ。
「ニナさん?」
「なんでもない」
「お加減が」
「なんでもないって言ってるでしょ!」
しばらくして立ち上がったニナさんは、なぜか疲れた顔をしていた。
「うちの秤、まだちゃんとゼロだよ」
「よかったです」
「半月使って、一回もずれてない」
「受け金が合っておりますので」
「……あのさ」
ニナさんは修理台に肘をついた。
「父さんに言った。半年で三十七貫損してましたって」
「なんと仰いましたか」
「泣いてた」
わたしはどう答えていいか分からず、茶を淹れた。ニナさんは茶碗を両手で持って、ふうふうと吹いた。
「そのあと、クレーマー商会に文句言いに行くって騒ぎ出して、母さんが止めた」
「止めてよかったと思います」
「なんで」
「秤は商会の品ではありませんので。あれは受け金の歪みで、店の使い方の問題です」
ニナさんが、じっとこちらを見た。
「お姉さん、それ、商会をかばってる?」
「いいえ。合っていないことを合っていると言うと、合っていることまで疑われますので」
ニナさんは、ふうん、と言って茶を飲んだ。
「じゃあ、合ってることって何」
「あの魔石には、罅があります。それだけは、本当です」
ニナさんが帰ったあと、ヨナスさんが奥から声をかけてきた。
「ノルデン嬢。今日の選り分けの結果です」
紙を受け取った。今日持ち込まれた魔石が四十二個。罅なしが二十六、閉じた罅が七、伸びた罅が九。
「九個ですか」
「はい。ただ、一つ気になることが」
ヨナスさんは伸びた罅の九個を、修理台に並べた。
「この九個、刻印の位置が全部同じです」
「位置」
「側面の、下から三分の一のところ。罅のない石は、位置がばらばらです」
わたしは九個を持ち上げて、順に見た。そのとおりだった。半円ふたつの刻印が、九個とも同じ高さに、同じ角度で押してある。
「押した人が違う、ということでしょうか」
「あるいは、押した時期が」
罅のある石だけを、あとから別の場所で刻印している。そう考えると筋が通る。通ってしまう。
「ヨナスさん。これは、まだ誰にも言わないでください」
「……はい」
「貼り紙には書きません。刻印の位置まで書くと、真似をされます」
真似をされる、という言い方を自分がしたことに、少し驚いた。わたしはまだ、誰も悪くない、と思おうとしていたはずだった。
「壊れなかった記録が七枚ある。それは修理より安いものではない」。点検料五ルグを、客のほうから二十ルグに上げさせる回でした。
灯りが消えて困るのは、暗いからではない。消えた瞬間に人が二歩、動けなくなるからだ——この人が「壊れてからでは遅い」と言い続ける理由は、もう少し先で明かします。
次回、黒塗りの四頭立てが、この狭い通りに入ってきます。
ブックマークと☆をいただけますと、部品箱の押さえ金が十二個ほど補充されます。




