番外編① もう話すことがありませんもの
出産から、一月が過ぎた頃。
公爵家の私室。
冬の午後の光が絨毯に落ち、暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜている。
ヴィオレッタは長椅子に腰かけ、揺り籠の中で眠る我が子の寝顔を眺めていた。
ふっくらとした頬。
小さく握られた指。
呼吸に合わせて上下する、驚くほど頼りない胸。
何度見ても飽きなかった。
「ヴィオレッタ」
扉が開き、クラウスが入ってくる。
その手には、革紐で束ねられた手紙の束があった。
かなりの厚みがある。
「実は、君に謝らなければならないことがある」
「何?」
顔を上げると、クラウスは手紙の束を小卓に置き、その隣に腰を下ろした。
「妹君から届いた手紙を、俺の判断で止めていた」
「……いつから?」
「懐妊がわかってすぐだ。最初の一通を見て、今の君に読ませる必要はないと思った」
「勝手に?」
「ああ。勝手にだ。すまない」
謝罪のあとに、言い訳は続かなかった。
自分の判断は正しかったのだと、押し通すこともしない。
ただ、クラウスは手紙の束を見ながら言った。
「妊娠中の君に、あの女の言葉を読ませたくなかった」
ヴィオレッタも、その束へ視線を落とした。
十通は下らないだろう。
この十か月、彼女はそのすべてを知らずに過ごしてきた。
悪阻に苦しみ、少しずつ膨らむ腹を撫で、名前を考え、産着を選び――そして、産んだ。
穏やかな十か月だった。
今になって、その静けさが何によって守られていたのかを知る。
「もう無事に生まれた。だから、ここから先は君が決めてくれ。読むなら渡す。読みたくないなら処分する」
ヴィオレッタはしばらく黙っていた。
それから手を伸ばし、束の一番上――最も新しい一通だけを抜き取る。
封を切った。
『ヴィオレッタお姉様、ご出産おめでとうございます。
わたくしの息子に従兄弟を作ってくださってありがとう。
息子も赤ちゃんに会えるのを、とても楽しみにしておりますの。
少し大きくなったら、きっとよい遊び相手になりますわね。
それから、お姉様にご相談したいこともたくさんございますの。
最近、侯爵家のことで少し困っておりますのよ。
姉妹なのですから、こういう時こそ助け合わなくては。
近いうちに息子を連れて伺いますわ』
最後まで読んだ。
そして、もう一度だけ最初から読んだ。
何も変わっていない……本当に、何ひとつ。
ヴィオレッタが眠れない夜を数え、宮廷医のもとへ通い、涙を涸らしていた歳月の間も、この妹の中では世界の中心が一度も動いていなかった。
ヴィオレッタは手紙を膝の上に置いた。
「……あなた」
「なんだ」
「暖炉に火は入っている?」
「ああ」
彼は、それ以上何も訊かなかった。
ヴィオレッタは立ち上がると、手紙の束を抱えて暖炉の前へ歩いた。
革紐を解く。
封蝋に刻まれた侯爵家の紋章が、火明かりを受けて赤く光った。
一通目。
炎の中へ落とすと、紙の端が縮れ、すぐに黒く食まれていく。
二通目。
三通目。
次々と火にくべた。
怒りはなく、ためらいもなく、ただ片づけているだけ。
長いこと部屋の隅に積まれていた、もう必要のないものを。
クラウスは背後に立っていたが、一度も止めなかった。
最後に、一番新しい手紙を手に取る。
『わたくしの息子に従兄弟を作ってくださってありがとう』
ヴィオレッタは、その一行を見つめた。
「この子は……カミラの息子に従兄弟を作るために産んだのではないわ」
手紙を炎へ落とすと、火が大きく揺れ、白い紙が燃え上がった。
文字が歪み、黒くなり、ほどなく形を失っていく。
「返事は?」
「書かないわ。だって、もう話すことがありませんもの」
「そうか」
その時だった。
「……ふぇ」
「あら、起きてしまったわ」
揺り籠から、小さな声が上がった。
ヴィオレッタはすぐに振り返ると、暖炉に背を向け揺り籠へ歩いていく。
「どうしたの。お腹が空いた? それとも、おむつかしら?」
長椅子の脇に膝をつき、覗き込む。
小さな手が、頼りなく空を掴んだ。
そこへ指を差し出すと、柔らかな五本の指がヴィオレッタの人差し指をぎゅっと握る。
「まあ。この子ったら、力持ちね」
思っていたよりも強い力に声を上げると、クラウスも歩み寄り妻の肩越しに我が子を覗き込んだ。
「よく似ている」
「どちらに?」
「その顔をされると、俺が何も言えなくなるところが君にそっくりだ」
「……まあ」
ヴィオレッタは口元を緩めた。
暖炉では、まだ手紙が燃えている。
灰になりかけた紙が火の熱にあおられ、崩れていく。
侯爵家の紋章も、封蝋も、そこに書かれていた言葉も、もうほとんど形を留めていなかった。
ヴィオレッタは振り返ることなく、小さな手が握る自分の指を、ただ見つめていた。
「ねえ、クラウス」
「なんだ」
「この子が大きくなったら、何を教えましょうか」
クラウスは我が子を見つめ、少し考える。
「まずは、名前だな」
「ええ。それは大切ですわね」
「次は……歩き方か」
「歩き方?」
思わず声を出して笑った。
「まだ首も据わっておりませんのよ?」
「だが、いずれ歩くだろう」
「ずいぶん気が早いのね」
「君は楽しみではないのか?」
「楽しみですけれど」
揺り籠の中では、小さな足が布を蹴っている。
それを見たクラウスが、真剣な顔で言った。
「ほら。もう練習している」
「あなた……」
ヴィオレッタはとうとう声を上げて笑った。
「では、歩けるようになったら?」
「庭を一緒に歩く」
「走れるようになったら?」
「追いかける」
「転んだら?」
「抱き上げる」
あまりにも早い回答に呆れながらも、笑みを抑えられなかった。
「随分先まで決めているのね」
「まだ何も決めていない」
「十分決めていますわ」
小さな手が、もう一度ヴィオレッタの指を握った。
クラウスの指も隣へ差し出される。
今度はそちらも、小さな指に捕まった。
夫婦は顔を見合わせた。
暖炉の中では、最後の紙片が灰になって崩れていく。
けれど、二人とももう見てはいなかった。
今はただ、この小さな子がいつ首を上げ、いつ立ち上がり、いつ自分の足で歩き出すのか。
その日のことばかりを考えていた。
日間総合完結済みで1位、ありがとうございます!
感謝の気持ちを込めて、後日談を追加させてもらいました。
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