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ステージに灯った光は淡く、霧の中に浮かぶ月に見えた。
その光の中心に、ピエロが現れる。
白い顔に、大きすぎる靴。体よりも少しだけ大きな衣装。子供が描いた理想のピエロをそのまま立体化したようだった。
私はサーカスを取材した日を思い浮かべた。あのピエロは、ステージでは楽しげに大笑いしていたのに、舞台裏では真顔で無言でいた。取材にも応じなかった。
団長は、「シャイなんです」と言っていたが――。
ステージの上のピエロは、なにも言わずに、ただ大きな身振りで笑いを作り出す。こける。片足で立つ。帽子を落とす。
観客は私はしかいない。私が笑わなければ、静まり返ったままだ。
ピエロは、何度も転び、何度も笑い、何度も私の方へ手を振った。
子供が「見て、見て」と訴えているようだった。
十九世紀のトニー・ウィックスも、きっとこんなふうに、観客に笑ってほしくてステージに立っていたのだ。
トニーは、「幼い精神を持つ大人」ではなかった。ただ身体だけが大人になってしまった、正真正銘の子供だった。
彼は純粋無垢な心で、人々を笑顔にしたくて、その奇怪な身体を晒していた。
ピエロが転ぶ。大袈裟な仕草で、笑いを誘おうとする。
それでも、私には笑えなかった。大人に利用され、大人に笑われ、大人に捨てられた、幼い子供が重なって見えてしまうから。
と、突如、ピエロの笑顔が消えた。
「なんで笑わないの?」
その声は、ピエロのものではない。私の傍にいる、団長のものだ。
「どうして笑わないの? 楽しいのに」
ピエロは無言で口を結んでいる。でもそのピエロに声を当てているみたいに、団長が話す。私はひゅっと、喉を鳴らした。
ピエロは最後に大きくジャンプして、そのままステージの中央に倒れ込んだ。テントの天井から紙吹雪が舞い降りる。赤、青、金、銀。光を受けてきらきらと輝き、星が降ってくるようだった。
笑わない観客がたったひとりのサーカス。その異様な雰囲気の中に、いやにご機嫌な演出がなされる。冷えた空気と煌びやかな紙吹雪、この乖離が不協和音を生む。
見世物小屋での、幸福と誤解。
トニーは、見世物小屋で笑われ、指さされ、奇異の目で見られていた。しかし彼はそれを、「自分が人を楽しませている」と受け取っていた。
観客が笑えば、「僕が楽しいことをしてあげている」と。
拍手が起これば、「もっとやってほしいんだ」と。
笑わなければ、「どうして笑わないの? 楽しいのに」と。
なにかが、常にずれていたのだ。
ピエロはゆっくりと立ち上がり、深々とお辞儀をした。ステージの光がふっと消える。再び照らされると、いつの間にか一本の綱が張られていた。
高い位置に、空中に浮かぶ線のように細く、真っ直ぐ伸びている。
その綱の上に、ひとりのパフォーマーが現れた。
バランス棒を両手に持ち、しなやかな姿勢で立って、私にアイコンタクトを送る。パフォーマーは、ゆっくりと歩きはじめた。
同じ演目を以前にも観ているが、改めて観ても見事なものだ。二度目になっても、その安定感に驚かされる。
いや、安定している、どころではない。足先が綱に触れるたび、本来なら揺れるはずの綱が、全く揺れなかった。
綱そのものが地面に固定されているかのように、微動だにしない。パフォーマーの足音もしない。
なにかが、おかしい。
パフォーマーは片足立ちになり、そのまま静止した。「落ちる」という概念そのものが存在しないかのように、そこに立っていた。
見事な曲芸、では、片付けられない。本当に、人間なのか? とすら思えてくる。
サーカスについて調べていたときに、団員のプロフィールは確認している。彼らは確かに人間だ。それは間違いない。
だが、目の前の動きは、生身の人間のものとは思えなかった。
目を奪われる光景を前にしているのに、私の心はここにあらずで、殺風景な隔離室の風景が頭に浮かんでいた。鎖で繋がれて、暗い部屋に閉じ込められていた、彼。
誰も笑ってくれない。誰も拍手してくれない。
誰も、自分を見てくれない。
閉鎖的な部屋の中で、小さくなる男が見える。
パフォーマーが後ろ向きに歩きはじめる。滑らかな挙動は、人間の筋肉の動きとは思えないほど均一だった。
彼が綱の中央で再び静止すると、ステージの光がふっと消えた。
再び光が灯ると、カラフルなボールが宙を舞っていた。赤、青、緑、黄色。それらは軽快なリズムで放物線を描き、パフォーマーの手の中へ吸い込まれるように戻っていく。
ボールの軌道は完璧だ。空中に見えないレールがあり、その上を滑っているかのように、毎回全く同じ軌跡を描く。
演者の手の動きは速すぎて、指先に残像が見えた。人間の筋肉では不可能な速度ではないか?
それでもパフォーマーは、遊んでいる子供のように楽しげに笑い、こちらを見ている。
パフォーマーは、ボールの数を増やし、さらに複雑な軌道を描かせた。それでも手元は乱れない。「驚かせるため」に調整されているようだった。
「楽しいものは終わらない方がいい」
「帰りたいなんて言わないで」
「もっと遊ぼうよ」
「ずっと一緒にいようよ」
舌っ足らずな子供の声が、脳裏に響いている。
最後にパフォーマーは、ボールを全て空高く投げ上げた。私の視線も、自然と誘導される。ボールが落ちてくる。下で構えるパフォーマーは、未来を知っていたみたいに完璧な位置で手を差し出し、全てを受け止めた。
そして深々とお辞儀をした。彼を闇で包むように、ステージの光が消える。
次の演目は、目を奪われる彩りで始まった。ピンク、金、銀、虹色の、カラフルなフラフープが積み上げられている。
光を受けてきらきらと輝き、宝石の山のようだった。
パフォーマーが現れ、フラフープを手に取り、回しはじめる。腰で、腕で、足で。次々と回転し、その数は増えていく。
腰の動きは殆どない。フラフープのほうが勝手に回っている。
パフォーマーはさらにフラフープを増やしていく。十個、十一個、十二個。その全てが、完璧な円を描いて回転する。
きらきらと光って、華やかで、それなのにどこか空虚だ。真ん中が抜けた、輪っかそのものを見ているような。なんだろうか、この気持ちは。
十九世紀を生きた彼の心は、幼児のまま止まっていた。彼にとってサーカスとは、楽しくて、終わってほしくない、ずっと続いてほしい、永遠の遊び場だった。
光に満ちていて、嘘だらけの、自分の居場所。
パフォーマーの笑顔は、最初から最後まで同じ角度のまま変わらなかった。パフォーマーが、十数個のフラフープを一斉に投げ上げた。色とりどりの輪は光を反射し、テントの天井に虹色の輪を描いた。
落ちてくるフラフープを、パフォーマーは完璧な位置で手を伸ばし、受け止めた。
ステージの光が消える。




