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6

 資料館を出ると、冷たい外気が頬を刺した。

 私は、まだカルテの内容をうまく呑み込めずにいた。


 逆だった。

 トニーは幼い精神を持つ大人ではなかった。正しくは、彼は子供で、身体だけが異常に成長してしまったのだ。

 まるで、これまで信じていた前提がすべて裏返されたような感覚だった。


 資料館の階段を降り、建物の前に広がる芝生の広場へ足を踏み出す。

 そこに広がっていた光景に、私は、思わず立ち止まった。


 サーカスのテントがある。


 資料館に入る前、この広場には観光客が数人いるだけで、なにもなかったはずだ。だというのに今、私の目の前、広場の中央には、巨大なテントが立っているのだ。


 赤と白のストライプ。風に揺れる旗。曇り空から差し込む光を受けて、テントの布地が淡く輝いている。テントの縁からこぼれる光は、まるで生き物の呼吸のように脈打っていた。

 風が吹くたび、テントの影が地面に長く伸び、その影がゆっくりと形を変える。


 私は、しばらくその場から動けなかった。

 自分の他に誰もいない広場に、忽然と現れたサーカスのテント。それはまるで、私ひとりだけのために建てられた――私を迎えに来た存在のようにすら思えた。

 目の前の光景が、現実なのか、それとも疲労による幻覚なのか、判断がつかなかった。


 風の音がする。背後から、聞き覚えのある声がした。


「御厨さん」


 反射的に振り返った。そこに立っていたのは、黒い燕尾服にシルクハットの男――トニー団長だった。


 思考が停止する。

 日本にいるはずの。今まさに公演中のはずの。その男が、なぜロンドンの広場に?


「ど、どうして……?」


  声が震えた。


「どうしてここに……? トニー・フレンズ・サーカスは、今は日本で公演中じゃ……」


 団長は、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。

 その笑みは、子供のように無邪気で、しかしなにもかも分かっている大人のようでもあった。


 私は、気が動転していた。


「私がここにいるのは……あなたのことを知りたかったから。気がついたらロンドンまで来ていました。今、資料館を見てきたところで。あなたと……十九世紀のトニーとは……どういう関係があるんですか」


 質問が溢れ出てくる。自分でも制御できない。団長はまるで泣き出しそうな子供をあやすように、ゆっくりと手を上げた。


「御厨さん、大丈夫」


 優しく、柔らかく、しかし深い井戸の底から響くような、そんな響きを持つ声で、彼は言った。


「ここは寒い。中へ入りましょう。お話は、楽しい場所で」


 団長は深くお辞儀をして、テントの入口へと手を差し出した。帰るべき場所へ戻る子供のように軽やかで、しかし誰かを連れていく大人のようでもあった。

 テントの入口の布が、風にぱたぱたと揺れている。


 私は、鞄のポケットに手を入れた。

 どうして、持ってきたのだろう。自分でも覚えていないけれど、そこに、娘が残した三枚目のチケットが入っていた。

 たなびく旗と、赤と白のストライプに向かって、無意識のうちに歩き出す。


 テントの中には、誰もいなかった。観客席は円形に並び、どの椅子も空のままだ。


 観客は私ひとり、他には隣にいる団長だけ。私たちは、その広い空間にぽつんと立っていた。

 団長が私を中央の席へ案内する。


「どうぞ、御厨さん。ここがいちばん、よく見えます」


 私は言われるままに腰を下ろした。心臓が落ち着かない。

 ここはロンドンだ。日本にいるはずの団長が、なぜここにいる? こんなテントは、資料館に入るまでは建っていなかった。

 なにも分からない。なにもかもがあり得ない。それなのに私は、このテントの中で座っている。


 団長は、私の隣に立ち、穏やかな声で語りはじめた。


「トニー・ウィックスは、襲名制なんです」


 私は顔を上げた。団長は、朗らかに微笑んでいた。


「十九世紀を生きた彼のことを、調べたんですよね。お気づきのとおりです。私の名前も経歴も、全て、『彼』のもの。そういう設定なんです。私が私であるための、世界観を作るための、必要な嘘です」


「では……あなたは本当は誰なんですか」


 震える私の声に、団長は、ほんの少しだけ首を傾げた。


「もう忘れてしまいました」


 その仕草は、子供が難しい質問をされたときのようだった。


「私は、トニー・ウィックスとひとつになったんです」


 突然、バンッと爆ぜるような音とともに、テントの中が一気に暗闇に沈んだ。

 次の瞬間、ステージだけにぱっと光が灯る。

 

 団長の声が、暗闇のどこかから響いた。


「さあ、御厨さん。あなたのためのショーを始めましょう」


 自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。逃げることも、立ち上がることもできない。

 ただ、光の中に浮かび上がるステージを見つめるしかなかった。

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