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資料館を出ると、冷たい外気が頬を刺した。
私は、まだカルテの内容をうまく呑み込めずにいた。
逆だった。
トニーは幼い精神を持つ大人ではなかった。正しくは、彼は子供で、身体だけが異常に成長してしまったのだ。
まるで、これまで信じていた前提がすべて裏返されたような感覚だった。
資料館の階段を降り、建物の前に広がる芝生の広場へ足を踏み出す。
そこに広がっていた光景に、私は、思わず立ち止まった。
サーカスのテントがある。
資料館に入る前、この広場には観光客が数人いるだけで、なにもなかったはずだ。だというのに今、私の目の前、広場の中央には、巨大なテントが立っているのだ。
赤と白のストライプ。風に揺れる旗。曇り空から差し込む光を受けて、テントの布地が淡く輝いている。テントの縁からこぼれる光は、まるで生き物の呼吸のように脈打っていた。
風が吹くたび、テントの影が地面に長く伸び、その影がゆっくりと形を変える。
私は、しばらくその場から動けなかった。
自分の他に誰もいない広場に、忽然と現れたサーカスのテント。それはまるで、私ひとりだけのために建てられた――私を迎えに来た存在のようにすら思えた。
目の前の光景が、現実なのか、それとも疲労による幻覚なのか、判断がつかなかった。
風の音がする。背後から、聞き覚えのある声がした。
「御厨さん」
反射的に振り返った。そこに立っていたのは、黒い燕尾服にシルクハットの男――トニー団長だった。
思考が停止する。
日本にいるはずの。今まさに公演中のはずの。その男が、なぜロンドンの広場に?
「ど、どうして……?」
声が震えた。
「どうしてここに……? トニー・フレンズ・サーカスは、今は日本で公演中じゃ……」
団長は、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
その笑みは、子供のように無邪気で、しかしなにもかも分かっている大人のようでもあった。
私は、気が動転していた。
「私がここにいるのは……あなたのことを知りたかったから。気がついたらロンドンまで来ていました。今、資料館を見てきたところで。あなたと……十九世紀のトニーとは……どういう関係があるんですか」
質問が溢れ出てくる。自分でも制御できない。団長はまるで泣き出しそうな子供をあやすように、ゆっくりと手を上げた。
「御厨さん、大丈夫」
優しく、柔らかく、しかし深い井戸の底から響くような、そんな響きを持つ声で、彼は言った。
「ここは寒い。中へ入りましょう。お話は、楽しい場所で」
団長は深くお辞儀をして、テントの入口へと手を差し出した。帰るべき場所へ戻る子供のように軽やかで、しかし誰かを連れていく大人のようでもあった。
テントの入口の布が、風にぱたぱたと揺れている。
私は、鞄のポケットに手を入れた。
どうして、持ってきたのだろう。自分でも覚えていないけれど、そこに、娘が残した三枚目のチケットが入っていた。
たなびく旗と、赤と白のストライプに向かって、無意識のうちに歩き出す。
テントの中には、誰もいなかった。観客席は円形に並び、どの椅子も空のままだ。
観客は私ひとり、他には隣にいる団長だけ。私たちは、その広い空間にぽつんと立っていた。
団長が私を中央の席へ案内する。
「どうぞ、御厨さん。ここがいちばん、よく見えます」
私は言われるままに腰を下ろした。心臓が落ち着かない。
ここはロンドンだ。日本にいるはずの団長が、なぜここにいる? こんなテントは、資料館に入るまでは建っていなかった。
なにも分からない。なにもかもがあり得ない。それなのに私は、このテントの中で座っている。
団長は、私の隣に立ち、穏やかな声で語りはじめた。
「トニー・ウィックスは、襲名制なんです」
私は顔を上げた。団長は、朗らかに微笑んでいた。
「十九世紀を生きた彼のことを、調べたんですよね。お気づきのとおりです。私の名前も経歴も、全て、『彼』のもの。そういう設定なんです。私が私であるための、世界観を作るための、必要な嘘です」
「では……あなたは本当は誰なんですか」
震える私の声に、団長は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「もう忘れてしまいました」
その仕草は、子供が難しい質問をされたときのようだった。
「私は、トニー・ウィックスとひとつになったんです」
突然、バンッと爆ぜるような音とともに、テントの中が一気に暗闇に沈んだ。
次の瞬間、ステージだけにぱっと光が灯る。
団長の声が、暗闇のどこかから響いた。
「さあ、御厨さん。あなたのためのショーを始めましょう」
自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。逃げることも、立ち上がることもできない。
ただ、光の中に浮かび上がるステージを見つめるしかなかった。




