8
次の演目へと切り替わる。今度は巨大な鉄の輪が立てかけられていた。直径は三メートルほど。その輪の内側に、筋肉質な青年が立っていた。
彼は軽く息を吸うと、輪が回りはじめた。最初はゆっくり。だがすぐに速度を増し、風そのものになって、鉄の輪はステージを駆け巡った。パフォーマーは輪の中で逆立ちし、片手で体を支え、そのまま回転を続けた。
この大車輪のパフォーマーは、取材時、「すごいって褒めてほしい」と素直な言葉を口にしていた男だ。
演者の表情は笑顔のまま固定されている。目は笑っていない。輪が高速で回転しているのに、演者の髪も衣装も揺れない。風の影響を受けていない。
逆立ちの姿勢が崩れない。体幹が揺れない。人間の筋肉が本来持つ微細なブレが、どこにも存在しなかった。
すごいって、褒めてほしい。
そんな純粋な言葉が、妙に胸にのしかかる。すごいというより、異様だ。
「すごいね」
「えらいね」
子供が求める、もっとも単純で、もっとも強い承認。幼い願望が、この大車輪に宿って見える。
人形遊びをする子供の影が、脳裏をよぎる。
『ハラハラしてもらえるのが嬉しい。だって、目を離せなくなるでしょう?』
取材時、綱渡りのパフォーマーは、ハキハキと明るい口調でそう語った。
「見て、見て」
「すごいでしょ」
幼い子供の無邪気な願いが、あの綱渡りに宿っているように思えた。
ジャグリングのパフォーマーは、冗談っぽい口調でこう言った。
『驚かせるのがなにより面白いね。あっ、と、人が間抜けな顔になる瞬間。それが最高なんだ』
ああ、だから彼は、ステージの上にいても私の顔から目を離さなかったのだ。手元の玉には目もくれず、観客席だけを見つめていた。私の反応を期待する、きらきらした目をして。
子供は、大人が思っている以上に、大人をよく見ている。驚いたときの、間抜けな表情。
見世物小屋の少年は、観客の反応を楽しんでいたのかもしれない。
フラフープのパフォーマーは、取材中もフラフープを撫でていた。
『私を華やかに見せてくれるから』
きらきら光るもの。派手な色。たくさんの輪が回る様子。華やかに見せかけるだけでいい。
中身がなくても、光っていればそれでいい。
幼い子供が夢見る、空虚な光。
今まさに演目を見せる大車輪のパフォーマーは、取材時、「褒めて」とストレートに口にした。幼い少年が抱えていた感情を、そのまま彼が代弁したみたいに。
ある日、観客のひとりがトニー・ウィックスを侮辱した。トニーは理解できず、混乱し、癇癪を起こしてしまう。
そして、衝動的に観客たちに攻撃した。
彼にとっては「どうして酷いことを言うの? サーカスは楽しいのに。僕は、褒めてもらえるはずなのに」という感覚の延長。
大人たちはそれを怪物の暴走と見なした。
そうしてトニー・ウィックスは、「楽しい場所」から追放された。
私は頭を抱えた。なにを見ていても、トニー・ウィックスがちらつく。ずっと、どの演目を観ている間も、ずっとずっと、彼のことを考えていた。
全てがトニーの願望の表現者で、全てがトニーの操り人形に見える。トニーが見世物小屋で期待したものを、他の誰かに再現させているような。
パフォーマーは輪の外側へ飛び移り、そのまま外側に立って回転を続けた。もはや人間のバランス感覚では説明できなかった。見えない糸で吊られているようだった。
大車輪が最後の大回転を終えると、パフォーマーは輪の上で静止し、深々とお辞儀をした。
舞台が暗転する。私は、胸の奥がひどく冷たくなっていた。私は、なにを観せられているのだろう?
思考がままならないうちに、ステージが明るくなった。
ステージの上空に、二本のブランコが垂れ下がっている。高い天井から吊られたそのブランコの前に、ふたりの演者が姿を現した。
彼らは取材時も印象深かったふたりだ。同時に喋ったり、一文をふたりで分けて話したり、片方に話しかけるともう片方が答えたりする。
顔立ちも、体格も、表情の作り方まで同じ。多分双子なのだと思っていたが――。
あのサーカスのあと、私はパフォーマーについてそれぞれ調べ上げたから、知っている。このふたりは、本当は赤の他人だ。
化粧で同じ顔にしているだけなのだ。
ふたりはブランコに乗り、タイミングを合わせて空へ飛び出した。完璧な軌道。完璧な速度。完璧な受け渡し。
私は、その美しい動きを見つめていた。
偽物の双子。本当に血を分けた相手でない。
──このサーカスの演者たちは、トニー・ウィックスの幼児的な身内ごっこの一員だ。
見世物小屋で展示される側だった彼にとって、同じく展示されていた人々は、家族、仲間、いや、友達だった。
自分と同じ「見られる存在」で、観客を喜ばせるための「道具」。
役割を果たす限り、価値がある存在。
空中で、パフォーマーが手を取り合う。
たとえ架空の関係だとしても、結んだ絆を、離さないように。手が解けないように。
ふたりは同じタイミングで笑い、同じ角度で首を傾げ、同じ瞬間に息を吸う。
「気づきましたか?」
突然、団長の声がした。
「トニー・ウィックスの『友達』は、トニーの望む形でしか存在できない」
トニーの言葉を遮らない。トニーの機嫌を損ねない。
トニーが上手に言葉にできない心の内を、表現してくれる人。
それが、彼の、今の友達。
空中ブランコのふたりが手を手を繋ぎ、ブランコを使ってくるりと回転する。
ふたりの演者は最後に大きく宙を舞い、完璧なタイミングでブランコへ戻った。舞台から光が消え、全てが暗闇に包まれた。
サーカスの取材に行った、あの日。
幕が下りるそのときに、団長が口にした言葉。
“Don’t stop yet……wanna play more……”
『終わらないで。もっと遊びたい……』
それは、幼い子供が拗ねるような言葉遣いだった。
鎖で繋がれて、暗い部屋に閉じ込められていた、彼。
誰も笑ってくれない。誰も拍手してくれない。
誰も、自分を見てくれない。
病院に収容されて、彼の世界は完全に崩壊した。
そして、彼の幼児的な思考はひとつの結論に辿り着く。
『サーカスが終わっちゃったから、みんな悲しいんだ。じゃあ、終わらせなければいいんだ』
「トニー・ウィックスは、脆くなった病院の壁から鎖を千切って、脱走しました」
闇に塞がれた視界のどこかから、団長の声がする。
「そして彼は、病院に火を放ちました。それは復讐ではなく、『世界をリセット』するという幼児的な願望の暴走」
サーカスが終わった世界は嫌だ。だから全部燃やして、終わりをなくす。
そうすればまた、楽しいサーカスが始まる。
トニー・ウィックスは自らが放った火の中で焼け死ぬが、彼の願望だけは、燃え残った。
時代を超えて、見世物小屋はサーカスという形にかわり、トニー・ウィックスは今も現代に現れる。
「団長、あなたは、誰なんですか」
私は、舞台が始める前と同じ質問をした。団長の答えは変わらない。
「忘れてしまいました」
でも今度は、それに短く続きがあった。
「トニー・ウィックスとひとつになり、彼の代わりにサーカスを続けてくれる身体、です」
サーカスを運営する知識と、社会に溶け込む外見、観客を集める能力を持った人たち。
トニーが舞台のために集めたのは、そんな普通の、パフォーマーたちだった。
トニー・ウィックスを壊したのは、彼を消費して捨てた大人。歪んだ構造が彼を孤独にし、終わらないサーカスを望ませてしまった。
そこまで考えたとき、私は、気がついた。
「娘は――」
私が途中で言葉を詰まらせると、団長は言った。
「私にも、分かりません。でも、トニー・ウィックスは知っているかもしれませんね」
団長はトニーであり、トニーではない。彼は彼なりに、言葉を続けた。
「お嬢さんが『もっとサーカスを観ていたい』と思ったのであれば、もしかしたら、彼の友達の一員になったかもしれません』
娘も、ひとりぼっちだった。
クラスメイトも、先生も、母親も、そして父親も、誰も娘を見ていなかった。
だから彼女は、トニーに手を差し伸べられて――。
「そうか、悪意ではなくて、幼児的な純粋さで」
楽しいものは終わらない方がいい。帰りたいなんて言わないで。
もっと遊ぼうよ。
ずっと一緒にいようよ。
トニー・ウィックスは「終わり」を許さない。全ては、悪意ではなく、終わりの否定。
観客が帰ろうとすると不安になる。
サーカスが終わると泣きそうになる。
だから、閉じ込める。
それが彼にとっての優しさであり、愛情だった。
「そうならば、団長。あなたとサーカスが私の前に現れたのも?」
娘を失い、妻とも話さず、周りの人間ともろくに関わってこなかった、そんな私を。
迎えに、来たのか。
団長の柔らかな声が答える。
「どうでしょうか。私は、ただの操り人形ですから、分かりません」
そして、まるで子供が友達を遊びに誘うような口調で続けた。
「でも、なにか問題がありますか? お嬢さんも、パパとまた会えるのを、待っているかもしれませんよ」
無邪気で、残酷な響きを持って、彼は言った。
私は悟った。もう、選択肢はない。
「お願いがあります。トニー・ウィックスの残滓ではなく、団長、あなたに」
「なんでしょうか」
「これから記事を書きます。私が見たものを、全て」
この記事は、私が見たもの、聞いたもの、そして理解できなかったものの記録である。
誰が読んでも信じないだろう。それでも書く。
これは、私が最後に残せる唯一の証拠だからだ。
「そのデータを、出版社に送らせてほしいんです」
「ほう、いいですよ。分かりました」
「ありがとうございます。では、この記事を書き上げるまで、待っていてください」
ふっと、ステージが明るくなった。
ステージの中央に、ぽつんと、檻がある。
取材のときに、元猛獣使いの受付の女が大事に抱えていたものだ。
その隣には、黒い燕尾服姿の団長。声はすぐ傍から聞こえていた気がしたのに、いつの間に、そこへ移ったのだろう。
全ての演目が終わり、テントの中には静寂が落ちていた。
観たもの全てが、夢だったかのように。
からっぽに見える檻を前にして、私は今、この記事を書いている。




