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 次の演目へと切り替わる。今度は巨大な鉄の輪が立てかけられていた。直径は三メートルほど。その輪の内側に、筋肉質な青年が立っていた。

 彼は軽く息を吸うと、輪が回りはじめた。最初はゆっくり。だがすぐに速度を増し、風そのものになって、鉄の輪はステージを駆け巡った。パフォーマーは輪の中で逆立ちし、片手で体を支え、そのまま回転を続けた。


 この大車輪のパフォーマーは、取材時、「すごいって褒めてほしい」と素直な言葉を口にしていた男だ。

 演者の表情は笑顔のまま固定されている。目は笑っていない。輪が高速で回転しているのに、演者の髪も衣装も揺れない。風の影響を受けていない。

 逆立ちの姿勢が崩れない。体幹が揺れない。人間の筋肉が本来持つ微細なブレが、どこにも存在しなかった。


 すごいって、褒めてほしい。

 そんな純粋な言葉が、妙に胸にのしかかる。すごいというより、異様だ。


「すごいね」

「えらいね」


 子供が求める、もっとも単純で、もっとも強い承認。幼い願望が、この大車輪に宿って見える。

 人形遊びをする子供の影が、脳裏をよぎる。


『ハラハラしてもらえるのが嬉しい。だって、目を離せなくなるでしょう?』


 取材時、綱渡りのパフォーマーは、ハキハキと明るい口調でそう語った。


「見て、見て」

「すごいでしょ」


 幼い子供の無邪気な願いが、あの綱渡りに宿っているように思えた。


 ジャグリングのパフォーマーは、冗談っぽい口調でこう言った。


『驚かせるのがなにより面白いね。あっ、と、人が間抜けな顔になる瞬間。それが最高なんだ』


 ああ、だから彼は、ステージの上にいても私の顔から目を離さなかったのだ。手元の玉には目もくれず、観客席だけを見つめていた。私の反応を期待する、きらきらした目をして。


 子供は、大人が思っている以上に、大人をよく見ている。驚いたときの、間抜けな表情。

 見世物小屋の少年は、観客の反応を楽しんでいたのかもしれない。


 フラフープのパフォーマーは、取材中もフラフープを撫でていた。


『私を華やかに見せてくれるから』


 きらきら光るもの。派手な色。たくさんの輪が回る様子。華やかに見せかけるだけでいい。

 中身がなくても、光っていればそれでいい。

 幼い子供が夢見る、空虚な光。


 今まさに演目を見せる大車輪のパフォーマーは、取材時、「褒めて」とストレートに口にした。幼い少年が抱えていた感情を、そのまま彼が代弁したみたいに。


 ある日、観客のひとりがトニー・ウィックスを侮辱した。トニーは理解できず、混乱し、癇癪を起こしてしまう。

 そして、衝動的に観客たちに攻撃した。


 彼にとっては「どうして酷いことを言うの? サーカスは楽しいのに。僕は、褒めてもらえるはずなのに」という感覚の延長。

 大人たちはそれを怪物の暴走と見なした。


 そうしてトニー・ウィックスは、「楽しい場所」から追放された。


 私は頭を抱えた。なにを見ていても、トニー・ウィックスがちらつく。ずっと、どの演目を観ている間も、ずっとずっと、彼のことを考えていた。

 全てがトニーの願望の表現者で、全てがトニーの操り人形に見える。トニーが見世物小屋で期待したものを、他の誰かに再現させているような。


 パフォーマーは輪の外側へ飛び移り、そのまま外側に立って回転を続けた。もはや人間のバランス感覚では説明できなかった。見えない糸で吊られているようだった。

 大車輪が最後の大回転を終えると、パフォーマーは輪の上で静止し、深々とお辞儀をした。


 舞台が暗転する。私は、胸の奥がひどく冷たくなっていた。私は、なにを観せられているのだろう?


 思考がままならないうちに、ステージが明るくなった。

 ステージの上空に、二本のブランコが垂れ下がっている。高い天井から吊られたそのブランコの前に、ふたりの演者が姿を現した。


 彼らは取材時も印象深かったふたりだ。同時に喋ったり、一文をふたりで分けて話したり、片方に話しかけるともう片方が答えたりする。

 顔立ちも、体格も、表情の作り方まで同じ。多分双子なのだと思っていたが――。


 あのサーカスのあと、私はパフォーマーについてそれぞれ調べ上げたから、知っている。このふたりは、本当は赤の他人だ。

 化粧で同じ顔にしているだけなのだ。


 ふたりはブランコに乗り、タイミングを合わせて空へ飛び出した。完璧な軌道。完璧な速度。完璧な受け渡し。

 私は、その美しい動きを見つめていた。


 偽物の双子。本当に血を分けた相手でない。

 ──このサーカスの演者たちは、トニー・ウィックスの幼児的な身内ごっこの一員だ。


 見世物小屋で展示される側だった彼にとって、同じく展示されていた人々は、家族、仲間、いや、友達だった。


 自分と同じ「見られる存在」で、観客を喜ばせるための「道具」。

 役割を果たす限り、価値がある存在。


 空中で、パフォーマーが手を取り合う。

 たとえ架空の関係だとしても、結んだ絆を、離さないように。手が解けないように。


 ふたりは同じタイミングで笑い、同じ角度で首を傾げ、同じ瞬間に息を吸う。


「気づきましたか?」


 突然、団長の声がした。


「トニー・ウィックスの『友達』は、トニーの望む形でしか存在できない」


 トニーの言葉を遮らない。トニーの機嫌を損ねない。

 トニーが上手に言葉にできない心の内を、表現してくれる人。

 それが、彼の、今の友達。


 空中ブランコのふたりが手を手を繋ぎ、ブランコを使ってくるりと回転する。

 ふたりの演者は最後に大きく宙を舞い、完璧なタイミングでブランコへ戻った。舞台から光が消え、全てが暗闇に包まれた。


 サーカスの取材に行った、あの日。

 幕が下りるそのときに、団長が口にした言葉。


“Don’t stop yet……wanna play more……”


『終わらないで。もっと遊びたい……』


 それは、幼い子供が拗ねるような言葉遣いだった。


 鎖で繋がれて、暗い部屋に閉じ込められていた、彼。

 誰も笑ってくれない。誰も拍手してくれない。

 誰も、自分を見てくれない。


 病院に収容されて、彼の世界は完全に崩壊した。

 そして、彼の幼児的な思考はひとつの結論に辿り着く。


『サーカスが終わっちゃったから、みんな悲しいんだ。じゃあ、終わらせなければいいんだ』


「トニー・ウィックスは、脆くなった病院の壁から鎖を千切って、脱走しました」


 闇に塞がれた視界のどこかから、団長の声がする。


「そして彼は、病院に火を放ちました。それは復讐ではなく、『世界をリセット』するという幼児的な願望の暴走」


 サーカスが終わった世界は嫌だ。だから全部燃やして、終わりをなくす。

 そうすればまた、楽しいサーカスが始まる。


 トニー・ウィックスは自らが放った火の中で焼け死ぬが、彼の願望だけは、燃え残った。

 時代を超えて、見世物小屋はサーカスという形にかわり、トニー・ウィックスは今も現代に現れる。


「団長、あなたは、誰なんですか」


 私は、舞台が始める前と同じ質問をした。団長の答えは変わらない。


「忘れてしまいました」


 でも今度は、それに短く続きがあった。


「トニー・ウィックスとひとつになり、彼の代わりにサーカスを続けてくれる身体、です」


 サーカスを運営する知識と、社会に溶け込む外見、観客を集める能力を持った人たち。

 トニーが舞台のために集めたのは、そんな普通の、パフォーマーたちだった。


 トニー・ウィックスを壊したのは、彼を消費して捨てた大人。歪んだ構造が彼を孤独にし、終わらないサーカスを望ませてしまった。


 そこまで考えたとき、私は、気がついた。


「娘は――」


 私が途中で言葉を詰まらせると、団長は言った。


「私にも、分かりません。でも、トニー・ウィックスは知っているかもしれませんね」


 団長はトニーであり、トニーではない。彼は彼なりに、言葉を続けた。


「お嬢さんが『もっとサーカスを観ていたい』と思ったのであれば、もしかしたら、彼の友達の一員になったかもしれません』


 娘も、ひとりぼっちだった。

 クラスメイトも、先生も、母親も、そして父親も、誰も娘を見ていなかった。

 だから彼女は、トニーに手を差し伸べられて――。


「そうか、悪意ではなくて、幼児的な純粋さで」


 楽しいものは終わらない方がいい。帰りたいなんて言わないで。

 もっと遊ぼうよ。

 ずっと一緒にいようよ。


 トニー・ウィックスは「終わり」を許さない。全ては、悪意ではなく、終わりの否定。


 観客が帰ろうとすると不安になる。

 サーカスが終わると泣きそうになる。

 だから、閉じ込める。


 それが彼にとっての優しさであり、愛情だった。


「そうならば、団長。あなたとサーカスが私の前に現れたのも?」


 娘を失い、妻とも話さず、周りの人間ともろくに関わってこなかった、そんな私を。

 迎えに、来たのか。


 団長の柔らかな声が答える。


「どうでしょうか。私は、ただの操り人形ですから、分かりません」


 そして、まるで子供が友達を遊びに誘うような口調で続けた。


「でも、なにか問題がありますか? お嬢さんも、パパとまた会えるのを、待っているかもしれませんよ」


 無邪気で、残酷な響きを持って、彼は言った。

 私は悟った。もう、選択肢はない。


「お願いがあります。トニー・ウィックスの残滓ではなく、団長、あなたに」


「なんでしょうか」


「これから記事を書きます。私が見たものを、全て」


 この記事は、私が見たもの、聞いたもの、そして理解できなかったものの記録である。

 誰が読んでも信じないだろう。それでも書く。

 これは、私が最後に残せる唯一の証拠だからだ。


「そのデータを、出版社に送らせてほしいんです」


「ほう、いいですよ。分かりました」


「ありがとうございます。では、この記事を書き上げるまで、待っていてください」


 ふっと、ステージが明るくなった。

 ステージの中央に、ぽつんと、檻がある。

 取材のときに、元猛獣使いの受付の女が大事に抱えていたものだ。

 その隣には、黒い燕尾服姿の団長。声はすぐ傍から聞こえていた気がしたのに、いつの間に、そこへ移ったのだろう。


 全ての演目が終わり、テントの中には静寂が落ちていた。

 観たもの全てが、夢だったかのように。


 からっぽに見える檻を前にして、私は今、この記事を書いている。

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