第28話 君は僕の知らない世界で戦っている
メイクが終わり、スタイリストの玲さんが用意した衣装に透花が着替えて、撮影セットの中央に立った瞬間、僕は息を呑んだ。
秋色の深い森をイメージしたセットの中に立つ透花は、まるで森の妖精のようだった。
ふわりとしたオフホワイトのニットに、温かみのあるブラウンのチェック柄ロングスカート。
彼女が動くたびに、柔らかな生地が優雅に揺れる。
蘭さんが施したメイクは、透花の持つ透明感を最大限に引き出した。
玲さんが選んだ衣装は、彼女のスタイルの良さを完璧に際立たせている。
家で見る、少しだらしなくて甘えん坊な透花じゃない。
学校で見る、誰にでも優しい完璧な優等生の透花とも違う。
そこにいたのは、僕の全く知らない、『プロのモデル・白崎透花』だった。
透花はその名を表すように、その場所でそれぞれに適した色の花を咲かせる。
「……いいね。じゃあ、始めるか」
スタジオの隅で沈黙を守っていたフォトグラファーの鬼灯さんが、重々しく口を開いた。
その声で、スタジオの空気が一瞬にして張り詰める。
カシャッ、カシャッ、とリズミカルなシャッター音が響き始めた。
「トーカ、いいね、その表情。もっとこっちに体を預けて。そう、風を感じるように」
鬼灯さんの指示に、透花は瞬時に応える。
目を伏せ、物憂げな表情を浮かべたかと思えば、次の瞬間には、悪戯っぽく微笑んでカメラを見つめる。
指先の角度、スカートの揺れ方、髪の毛一筋の流れまで、すべてが計算され尽くしているかのようだった。
僕は、ただ圧倒されていた。
僕の知らない世界で、透花はこんなにも輝いている。
僕が料理の腕を磨いている厨房とは、また違う戦場。そこで彼女は、たった一人で、その身一つで戦っているんだ。
撮影が順調に進む中、鬼灯さんの声のトーンが、ふと変わった。
「違う」
たった一言。
その言葉で、スタジオの空気が緊迫した。
「トーカ、お前、何を考えてる? 心が少しも篭もってない。そんな上っ面の表情で、この服の良さが伝わると思ってんのか?」
厳しい、プロの言葉。
ソファに座って観察していたデザイナーの綺羅さんの眉が、ぴくりと動くのが見えた。
「……すみません。もう一度、お願いします」
透花の声は、震えていなかった。
ただ、その顔からは、すっと血の気が引いている。
深呼吸をした透花は、表情を戻し、慎重にポーズを取る。
だが、鬼灯さんはカメラの構えを解いてしまった。
「違うな。もっと感情を出せ。ただ可愛いだけじゃダメだ。秋の終わりの、寂しさと、でもどこか温かい、そんな複雑な感情を表現してみろ。表情、目線、仕草、立ち方、全身のあらゆる先まで神経を張り巡らせろ。お前にはできるはずだ」
「はい! もう一度お願いします!」
鬼灯さんの要求は、抽象的で、そしてあまりにも高度だ。
見ているだけの僕ですら、胸が苦しくなる。
透花は、ぎゅっと唇を噛み締めた。
その瞳が、一瞬だけ不安に揺らぐ。
追い詰められた透花は、助けを求めるように、スタジオの隅にいる僕へと視線を向けた。
その瞳は、不安と、ほんの少しの甘えを帯びて、潤んでいる。
僕と目が合った瞬間、彼女の張り詰めていた表情が、ふっと和らいだ。
プロのモデルとしての仮面が剥がれ落ち、僕だけが知っている、素の白崎透花の顔になる。
それは、僕にだけ見せる、絶対的な信頼と安心感を宿した顔だ。
厳しいプロの世界で戦う中で、ふと見せた一瞬の隙。
寂しげな瞳の中に、僕の存在を見つけたことで灯った、確かな温もり。
――秋の終わりの、冷たい風の中に差し込む、一筋の陽だまり。
それは、まさに鬼灯さんが求めていた、そのものだったらしい。
「……それだ!」
鬼灯さんが、息を呑む。
そして、まるで何かに取り憑かれたかのように、夢中でシャッターを切り始めた。
カシャカシャカシャカシャッ!
スタジオに、シャッター音だけが激しく響き渡る。
透花は、どのポーズ、どの仕草でも、僕を視線で捉えていた。
カメラのレンズではなく、僕だけをまっすぐに見つめ、その瞳は逸らされない。
少しだけ緩んだ柔らかな表情。
そのあまりにも無防備な表情に、僕の心臓は大きく跳ねた。
「いいぞっ! その状態をキープしろ!」
「……!」
僕は、その光景から目が離せなかった。
すごい。
透花は、すごい。
僕が支えてあげなきゃいけない、か弱い女の子なんかじゃない。
彼女は、自分の力で、厳しいプロの世界で戦っている。
求められた表情を理解して、どうすればそれを一番今すぐに出せるのか、瞬時に判断して行動に移した。
プレッシャーを力に変えて、期待以上の結果を出す、とてつもなく強い人間なんだ。
支えてあげたい、なんて、おこがましかった。
自宅での彼女と、外での彼女はまったくの別人だ。
もし僕にできる道があるとすれば、家に帰って無防備になった透花を、優しく包みこんであげることだけだろう。
料理の道も、そのためのものだ。
彼女が戦う世界とは違う場所で、僕も自分の武器を磨く。
そして、彼女が疲れて帰ってきた時に、一番の安らぎを与えられる存在になる。
それが、僕の戦い方だ。
「……OK!」
鬼灯さんの、満足げな声が響く。
その声で、スタジオの緊張がふっと解けた。
透花は、プロの顔から、いつもの柔らかい笑顔に戻り、「ありがとうございました!」と深く頭を下げた。
その額に浮かぶ汗が、太陽の光を浴びた朝露のように、キラキラと輝いて見えた。




