第29話 氷の女王の忠告
鬼灯さんの満足げな声が響き渡ると、スタジオに張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
スタッフたちから「お疲れ様でした!」という安堵の声と、拍手が沸き起こる。
「トーカちゃん、最高だったわよぉ! あの最後の表情、鳥肌モノだったわ!」
蘭さんが駆け寄ってきて、透花の肩を抱きしめる。
玲さんも、いつもは感情の読めない顔に、ほんのわずかな満足の色を浮かべて頷いていた。
「うん、すごく良かった。服の持つ世界観が、完璧に表現できてた」
「ありがとうございます!」
プロたちからの称賛に、透花は嬉しそうに、そして少しだけ誇らしげに微笑んだ。
僕も、自分のことのように胸が熱くなる。
その時、それまでソファに座って静観していた、創業者にしてデザイナーの星影綺羅さんが、すっと立ち上がった。
カツ、カツ、とヒールの音を響かせ、彼女がこちらに近づいてくる。
その一挙手一投足に、スタジオの誰もが固唾をのみ、視線を彼女に集中させた。
星影綺羅。
彼女は、まるで氷の彫刻のように、完璧で、そして冷たい美しさを持っていた。
純白のセットアップスーツは、彼女の非の打ち所のないプロポーションを際立たせ、一切の無駄がない。
きっちりとまとめられた夜会巻きの髪は、一筋の乱れもなく、シャープなアイラインが引かれた切れ長の瞳は、見る者を射抜くような強い光を宿している。
その唇は、血のように赤いルージュで彩られ、彼女が微笑むと、その完璧な美貌はさらに凄みを増した。
自身もまた最高の作品の一つとして、磨き上げている。
「素晴らしかったわ、透花さん。今日のあなたは、私の想像を遥かに超えていた」
綺羅さんの声は、鈴の音のように涼やかで、しかし有無を言わせぬ威厳に満ちている。
彼女に褒められた透花は、緊張した面持ちながらも、ぱあっと顔を輝かせた。
なんでも綺羅さんが、透花を直接スカウトしたのだという。
彼女は透花にとって、自分をモデルの世界に引き上げた恩人であり、同時に強烈な影響を持つ存在だった。
「ありがとうございます、綺羅先生!」
「特に、最後のカット。あの、ふとした瞬間に見せた、寂しさと温もりが同居した表情……。あれこそ、私がこのコレクションで表現したかった世界観そのものよ」
「そう言ってもらえて嬉しいです! 正直ホッとしました」
「とてもよく頑張ってくれたわね。メイク落としをしてきたらどうかしら?」
「はい、失礼します! 守くん、もうちょっと待っててね」
綺羅さんはそう言うと、その鋭い視線を、僕へと向けた。
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
彼女の視線は、まるで僕の心の奥底まで見透かしているかのようで、僕は身動きが取れなくなった。
この人……怖い。
透花が、あるいはこの場にいるスタッフのみんなが緊張するのが分かる。
とてつもないカリスマは本物だろう。
だが、同時に人の内面を覗き込むような、強烈な怖さがある。
「あなたが、相馬守くんね」
「……は、はい」
綺羅さんは、僕の返事を聞くと、ふっと口元だけで微笑んだ。
それは、決して温かいものではなく、品定めをするような、冷たい笑みだった。
「透花さんを支えてくれている、大切な幼馴染だと聞いているわ。今日の彼女の最高の表情を引き出せたのは、あなたの存在があったからかもしれない。その点については、感謝する」
「い、いえ、僕は何も……」
謙遜する僕の言葉を、綺羅さんは手のひらを向けて制した。
「でもね、覚えておいて」
声のトーンが、一段低くなる。
スタジオの空気が、再び緊迫した。
「彼女は、ダイヤモンドの原石よ。これからもっともっと磨かれて、世界中の誰もが目を奪われるような、唯一無二の輝きを放つことになる。……でも、ダイヤモンドは、とても繊細なものでもあるの。ほんの少しの傷や曇りで、その価値は、大きく損なわれてしまう」
「そうかもしれません」
綺羅さんの言葉は、静かだった。
でも、その一言一句が、鋭い氷の刃のように、僕の胸に突き刺さる。
「彼女の才能を一番に理解し、その輝きを曇らせることなく支えてあげられるのは、あなたのような、一番近しい存在のはず。……まさかとは思うけれど、彼女の足を引っ張るような真似は、しないわよね?」
「……しません。僕は、透花の支えでありたいと、心から思っています」
僕の言葉に、綺羅さんは鼻で笑った。
「支え? 気持ちだけで支えられるほど、この世界は甘くないわ。あなたのその甘い感傷が、彼女のプロ意識を鈍らせる毒になる可能性だってあるのよ。今日の撮影だってそう。彼女はあなたに助けを求めた。それは、本当はプロとして失格よ。自分の力で、最高のパフォーマンスを見せるのがプロなの」
「だとしても、僕がいたからこそ、透花はあの表情を見せられたんです。透花は求められてる表情を出すために、瞬時に判断して、僕に視線を向けていた。それは誰にも代わることのできない、彼女だけの光です」
自分でも驚くほど、強い言葉が出た。
僕の反論に、綺羅さんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷たい笑みに戻る。
「光、ですって? 面白いことを言うのね。でも、その光が強すぎれば、ダイヤモンドそのものの輝きを霞ませてしまうこともある。……あなたの存在が、彼女の可能性を縛る枷にならないと、言い切れる?」
「言い切れます。僕も、自分の道でプロを目指しています。彼女に相応しい男になるために、僕も成長します。だから、僕は彼女の枷にはなりません。むしろ、彼女をさらに高く羽ばたかせる翼になります」
「……翼、ね。大きく出たものだわ……。驚くほどの素質を持ちながら、その実力を発揮できないまま業界を去る子たちは腐る程にいる世界なの。あなたが彼女の未来を潰してしまわないように、どうか気をつけて」
それは、忠告の形をした、明確な警告だった。
『お前のようなただの学生が、彼女の未来の邪魔をするな』
そう言われているようで、僕は唇を噛み締める。
僕が料理人としての道に迷い、透花を不安にさせたのは事実だ。
僕のせいで、彼女の心は曇り、体育祭では怪我までしかけた。
綺羅さんの言う通り、僕は彼女の足を引っ張っていた。
「……分かっている、わね?」
綺羅さんは、僕の返事を待つでもなく、そう念を押すと、いつの間にか戻ってきた透花へと向き直った。
その顔にはもう、氷のような冷たさはなく、デザイナーとしてのプロフェッショナルな微笑みが浮かんでいる。
「さあ、透花さん。次の撮影も期待しているわ。あなたの輝きで、私の服をもっと素敵に見せてちょうだい」
「……はい!」
透花は、僕と綺羅さんの間の不穏な空気に気づいているのかいないのか、力強く返事をした。
でも、その瞳が、ほんの少しだけ不安そうに揺れているのを、僕は見逃さなかった。
綺羅さんは、僕に一瞥もくれることなく、ヒールを鳴らして颯爽と去っていく。
その後ろ姿は、まるで戦場を支配する女王のようだった。
「守くん?」
「…………大丈夫。帰ろうか」
「う。うん……」
残された僕は、ただ、握りしめた拳が、悔しさで震えているのを感じることしかできなかった。
プロの世界。
そこは、僕が思っている以上に、厳しくて、そして冷たい場所なのかもしれない。
透花は、そんな世界で戦っている。
そして僕は、今のままでは、その戦いの邪魔になる存在にもなりかねないのだと、はっきりと突きつけられたのだ。
成長しないといけない。
もっともっと、透花を支えられる存在になって、他の人にも認められるぐらいになりたい。
胸に突き刺さった氷の棘が、ズキズキと痛んだ。




