控え
聖秤停止の混乱の中、記録保管室で管理局の内部帳簿を見つけたレオが、得点の控えが紙にも残されている可能性をフィアに告げる。
大聖堂のある棟に続く扉が、朝になっても閉じたままだった。
渡り廊下を渡る足音が自分だけだった。
大聖堂の方角から行き交うはずの神官の姿が少ない。聖秤の調査に人手を取られているのだろう。
石壁に響く自分の足音だけが、いつもより大きく聞こえた。
中庭に面した柱の下に、候補生の実習時間割の用紙が一枚落ちていた。記入欄はすべて空白だった。
風に半分めくれて、靴跡がついている。
拾わなかった。
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壁の石が水を吸っていた。
治療室の扉に手をかけたとき、石壁の冷たさが指の腹に触れた。
秋が深まると東翼の壁は夜のうちに結露を帯びる。窓のないこの部屋では、壁の湿り気だけが季節を教える。
鍵を回した。扉を引くと乾いた薬草の匂いが押し出されるように漏れた。
五年分の匂いが壁に沈んでいる。
棚を開けて瓶の蓋を確かめた。軟膏の残りは三日分。包帯は足りている。
帳面を机に置いた。
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午前の患者が来る前に、足音が廊下から近づいた。
「おはようございます」
レオだった。腕に紙の束を抱えている。薬草の包みではなかった。
「お時間をいただけますか。記録のことで」
治療室に入り、紙の束を机に置いた。候補生の名前が並んだ帳票だった。
「聖秤の記録が参照できなくなったので、管理局から指示が出ました。各候補生の治療実績を手作業で集め直せと」
「手作業で」
「過去一年分の件数と患者の大まかな内訳です。候補生の自己申告で集めるしかない」
「ほかの方はどうしていますか」
「記憶頼りです。帳面をつけている方はほとんどいません。正廊の演示記録は管理局が保管していますが、東翼のような個別治療は記録する仕組みがなかった」
「ほかの実習室は」
「聖秤の調査に使われています。実習そのものが止まっている方もいるようで」
フィアは引き出しから帳面を出した。
「ここに全部書いてあります」
レオが帳面を受け取った。頁を繰る。指がすぐに止まった。
「……五年分ですか」
「患者の名前と症状と経過を毎日書いてきました」
レオは頁を戻さなかった。四年目の冬のあたりを見ている。
日付ごとに名前と処置が、ペンの太さの変わらない筆跡で詰まっていた。
途中でインクの色がわずかに変わっている。二年目の途中で壺が尽きたのだろう。
レオの指がその境目で止まった。
「今年の治療件数は」
「百を超えたあたりで数えるのをやめました。帳面を見ていただければわかります」
「百」
レオの声がわずかに低くなった。帳面に目を落としたまましばらく動かなかった。
「五年分の治療記録をここまで残している候補生は、おそらくいません」
「そうですか」
「フィアさんの帳面が、結果として一番完全な記録になっています。管理局の集計よりも」
レオが帳面を閉じた。革表紙を丁寧に合わせて返す。
「件数はお昼過ぎに写してお持ちします。帳面はお返しします」
「お願いします」
レオが紙の束を抱え直した。立ち上がりかけて、動きが止まった。
「フィアさん」
「はい」
「ひとつだけ。——人に言わないでほしいのですが」
廊下に目を向けた。人の気配がないのを確かめるような間があった。
レオが治療室の扉を引き寄せた。隙間がなくなる。
「記録保管室で候補生の実習記録を整理していたとき、普段手を触れない棚に帳簿が並んでいるのを見つけました。管理局の内部帳簿です」
管理局の、と聞いて膝の上の手が止まった。
「背表紙に年号が振ってある。少なくとも十年分ありました。中を開くと、候補生の名前と年ごとの数字が並んでいた」
背筋に冷たいものが走った。
「それが……紙に」
「得点です。おそらく聖秤が板に刻んだ紋を紙に写したもの」
「控え」
「控えかもしれません。管理局が定期的に書き写していたのか、板に刻む前の元の数字なのか、まだわかりません」
紙に残っている。聖秤が止まっても、数字は消えていない。
確かめる方法が、まだあるのかもしれない。
「読んだんですか」
「表紙と最初の一頁だけです。候補生の名前を確認して、閉じました」
「わたしの名前もありましたか」
「候補生は七人全員分です」
「なぜ閉じたんですか」
「管理局の内部帳簿を下級神官が無断で読めば職務違反です」
レオの声は穏やかだった。けれど目の奥が動いていない。
数日前に記録保管室へ向かう背中に見えたのと同じものが、静かな目の底に据わっている。
「板の中だけではなかったんですね。紙にも記録がある」
「おそらく」
「それなら聖秤が止まっていても——」
「得点は確認できる可能性があります」
レオは言葉を切った。
「閲覧の申請を出すつもりです。記録管理の職務として正規に申請が通るかどうか、まず確認します」
「レオ」
「フィアさんを巻き込むつもりはありません」
口元だけの笑みだった。
「件数の写しはお昼過ぎに届けます」
レオが廊下に出ていった。足は記録管理室のある棟の方角に向いていた。
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薬草の補充を取りに東翼を出た。
渡り廊下を抜けると、正廊のほうから声が漏れてくる。
「得点がつかないのに治療する意味あるの」
「わからない。戴聖の儀はどうなるのかしら」
「冬至まであと二月もないのに」
候補生の声だった。足を止めなかった。
得点がつかなくても患者は来る。来れば治す。それは変わらない。
管理棟のそばを通った。棟の奥にある保管室の扉が細く開いている。
中から紙を捲る音がかすかに聞こえた。
覗かなかった。足を止めかけた自分に気づいて、歩き直した。
渡り廊下を戻るとき、聖花の花弁が石畳に一枚だけ残っていた。踏まれて茶色く変色している。
誰も拾わなくなっていた。
正廊の掲示板に新しい羊皮紙が掲げられていた。
「管理局より追加通達。聖秤の調整にともない候補生の治療実習は各自の判断で継続可とする。実績の記録および採点は復旧まで保留する」
各自の判断。
五年間得点が動かなかった候補生には、何ひとつ変わらない言葉だった。
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午後、患者が二人来た。
膝の老婆が先だった。廊下の長椅子で待っている間に頬が赤くなっていた。
「先生、今日は正廊のほうも通ってきたけどね。あっちの実習室が三つとも閉まっていたよ」
「三つとも」
「あたしは先生のとこにしか来ないけどね。待ってる人たちが行き場がないって困ってた」
老婆の左膝に手を当てた。乳白色の光が掌から滲み、軟骨の薄くなった箇所に集束する。
軟膏の壺が手の温度で柔らかくなるまで黙って治療を続けた。
「先生。聖秤が止まったって聞いたけど」
「ええ」
「先生のお仕事には関係あるのかい」
「……わたしは治療をするだけですから」
老婆の膝から手を離した。関節の温度が一段上がっている。
「変わらないのは、いいことだよ」
老婆はそう言って立ち上がった。足取りが来たときより軽かった。
扉を引く前に振り返って、小さく頭を下げた。
咳の男を診た。喉の炎症はだいぶ引いている。
あと二回ほどで治療を終えられるだろう。帳面に二人分の経過を書き入れた。
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日の色が壁にかかる頃、もう一度足音が来た。
「件数の写しです」
レオが紙を一枚差し出した。五年分の治療件数が年ごとに並んでいる。
一年目、二十七。二年目、四十一。三年目、六十三。四年目、七十九。五年目、百四。
「確認をお願いします」
「合っています」
「それはフィアさんのお控えです。管理局に出す分は別に作りました」
フィアは紙を受け取った。レオの筆跡で並んだ五年分の数字が、薄い一枚の紙に収まっていた。
五年が一枚。帳面の厚さとはまるで違う。
「控え」
「ご自分の記録を手元に持っておくことは大事なことです」
レオは扉のそばに立ったまま動かなかった。栗色の前髪の奥で何かを量るような目をしている。
「フィアさん」
「はい」
「帳面は——大事にしてください」
頼みではなかった。問いかけでもなかった。確認するような声だった。
「捨てたことはありません」
「……そうでしたね。失礼しました」
レオが廊下に出た。
東翼とは反対の方角へ歩いていく。記録管理室のある棟のほうだった。
いつもの歩幅より狭い。何かを確かめながら進む足取りだった。
背中が角を曲がる直前、レオの手が一度だけ上衣の内側に触れた。何かを抱えている仕草だった。
角を曲がって、足音が消えた。
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帳面を閉じた。
革表紙の上にレオの書いた紙を重ねた。
帳面と控え。同じ五年を数えている。数え方が違うだけで、同じ人を治した記録だった。
管理局の内部帳簿にも数字がある。候補生の名前と得点。板に刻まれた紋の写し。
三一二。五年間動かなかった数字。あの帳簿にも同じ三一二が並んでいるのだろうか。
あの帳簿と帳面の数字が並んだとき、何が見えるのだろう。
帳面の革表紙がインクの匂いを吸って、年々重くなっていく。数字の重さではない。名前の重さだった。
まだわからない。確かめる手は自分のものではなかった。
灯りを落とした。
薬草の匂いが暗闇の中で少し強くなった。
石の部屋は夜になると、壁が呼吸を始める。
壁の結露がかすかに光っている。朝に触れた水の膜が、日暮れにはわずかに乾いて石の地肌を覗かせていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「控え」という言葉がこの話の核でした。フィアの帳面、レオの写し、管理局の内部帳簿。同じ五年を三つの紙がそれぞれの側から記録しています。その数字が並んだとき何が見えるか——答えはまだ先ですが、この一語が出てきた瞬間に話の形が決まりました。
廊下で聞こえた「得点がつかないのに治療する意味あるの」を書いた時、手が止まりました。フィアにとっては意味のない問いです。得点のために治していたのではないこの子には、聖秤が止まろうが何も変わらない。変わらないことが、この先いちばん静かな証拠になっていきます。
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