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万年最下位だった聖女候補、5年目にして採点システムそのものが壊れていたと気づく  作者: 雨宮 彩月


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10/24

日課

聖秤停止で大聖堂が浮足立つ中、東翼だけは変わらない。フィアは患者を診て記録を書き、わずかな変化の兆しに触れる。

 遠い声が壁を抜けるころには、もう言葉ではなくなっている。


 聖秤。管理局。戴聖(たいせい)の儀。渡り廊下の向こうで交わされる声の断片が、石壁に吸われて溶けていく。


 走る足音が三つ重なった。正廊の方角へ急いでいる。昨日もその前も同じだった。


 治療室の扉を引いた。


 乾いた薬草の匂いが頬を撫でた。昨日と同じ匂い。一年前と同じ匂い。


 棚の瓶の蓋を確かめた。軟膏。包帯。乾燥させた白樺の葉。


 手順は毎朝同じだった。


 帳面を机の端に置いて、筆とインクの壺を並べた。


 渡り廊下の向こうでまだ足音が途切れない。聖秤が止まってからも、大聖堂は落ち着きを取り戻していなかった。


 東翼には喧騒の代わりに、薬草と蝋燭の煤の匂いだけが座っている。壁の継ぎ目から滲む冷気が、朝の時刻を連れてきた。


 廊下に出ると、管理棟のほうから戻ってきた下級神官が二人、すれ違いざまに声を交わした。


「今日も変わりないそうだ。管理局は技師を増やすと言っているが」


「冬至まであと二月もないのに」


 二人はフィアに気づかず通り過ぎた。


 正廊の掲示板には追加通達がまだ掲げられている。治療実習は各自の判断で継続可。実績の記録および採点は復旧まで保留。


 羊皮紙の角が乾いて丸まりかけていた。掲示を見つめる神官の一人が首を振り、ため息をつくように背を向けた。


 フィアはそのまま東翼へ戻った。


---


 軟膏の蓋が手のぬくもりで緩むころ、廊下に足音が近づいた。


 扉の手前で小さな咳。以前よりずっと浅い。


「先生。今日もお世話になります」


 咳の男だった。


 自分から襟元を緩め、椅子に腰を下ろす。秋の初めに東翼を訪れたころは声を出すだけで咳き込んでいた。今は喉がよく通っている。


「調子はどうですか」


「昨日、朝起きたとき咳が出ませんでした。ここ二年で初めてです」


 フィアは男の喉に手を当てた。


 乳白色の光が掌から滲み、気管の内壁を辿る。薄い膜のように残っていた炎症が、前回よりさらに退いていた。


「次で最後にできると思います」


「本当ですか」


 男の目が丸くなった。


「ずっと諦めてたんです。正廊に行っても順番は回ってこないし、ここがあると聞いたのも偶然で」


「偶然でも来てくれてよかった」


 男が頷いた。それから声を落とした。


「先生。正廊の実習室が全部閉まっているのはご存じですか」


「ええ」


「知り合いが二人、行き場がなくて困っていました。ここは開いているのかと訊かれたので」


「得点はつきませんが、治療はします。いつでもどうぞと伝えてください」


 男は一度口を閉じた。それからゆっくりと笑った。


「先生のところだけ変わらないんですね。外は大騒ぎですよ。聖秤がどうの、儀式がどうのって」


「わたしには関わりのないことですから」


「候補生なのに?」


「候補生だからこそ、やることは変わりません」


 帳面を開いた。日付と経過を書き入れ、喉の図を簡略に描いて炎症の残りの位置を記した。


「次回で最後ですから、しっかり治しましょう」


「先生」


「はい」


「おれが来なくなっても、先生はここにいますか」


「いると思います」


 男が深く頭を下げた。入ってきたときよりも背筋が伸びていた。


 扉が閉まった。


 男が最後に訊いたのは、咳のことではなかった。そのことだけが、薬草の匂いの中に静かに残った。


---


 扉の向こうで足音が遠ざかった。


 治療室に残ったのは、乳白色の光の名残りとインクの匂いだけだった。


 ほどなく、知らない顔が廊下に立っていた。


 四十がらみの女が、左の手首を庇っている。


「東翼の治療室はここでしょうか」


「はい。お入りなさい」


「正廊のほうが閉まっていて。こちらでも診てもらえると聞いたんですが」


「どこが痛みますか」


「手首です。水仕事で。月に一度ほど正廊の第三実習室に通っていたんですけど」


 フィアは女の手首を両手で包んだ。


 関節の周りに熱がこもっている。腱が腫れ、指の動きを圧していた。


 乳白色の光を細く絞った。腱の付け根に沿わせ、腫れの芯に届かせる。


 光が腱を包む間、女は手首の力を抜いて目を閉じていた。額にうっすらと汗が浮いている。痛みを我慢してきた時間が長かったのだろう。


 やがて女が目を開けた。光がまだ腱の輪郭を辿っている。


「……正廊では手をかざすだけでしたから。こんなに丁寧に診てもらったのは初めてです」


 同じ大聖堂の中で、治療がこれほど違う。その戸惑いが声の端に残っていた。


「腫れが残っていますから、三日後にまた来てください。それまではなるべく冷やして」


「わかりました。ありがとうございます」


 女が立ち上がりかけて、振り返った。


「先生は、聖秤が止まってもこうして続けているんですね」


「仕事というほどのことではないですが」


「でもほかの実習室は全部閉まっていました」


 他の候補生が何をしているかは、東翼にいるフィアにはわからなかった。


「わたしは、来てくださった方を診るだけです」


 女が小さく頭を下げて出ていった。


 帳面に新しい名前を書き入れた。手首の図を描き、腫れの範囲を記す。


 頁が一つ埋まった。咳の男が言っていたもう一人の知り合いも、いずれ来るのかもしれなかった。


---


 二人分の記録を書き終えて、帳面を閉じた。


 廊下の向こうから、まだ足音が重なっている。同じ方角へ行き交う靴底の音が、壁を通して丸くなって届いた。


 レオが申請を出した帳簿の中に、数字が眠っている。あの帳簿と、この帳面の数字が並んだとき、何が見えるのか。


 それでも今、自分の手で動かせるものは何もなかった。


 患者が来れば診る。診れば書く。


 このままで、いいのだろうか。


 指先が帳面の背に触れた。閉じた革表紙の膨らみが、五年ぶんの厚さを返している。


 問いは消えていなかった。ルカの報告が退けられた朝から胸の底に座っている。形を持たないまま、ただそこにある。


 答えを急ぐつもりはなかった。急いだところで、第七席の候補生に差し出せる答えはまだ見つからない。


 ただ、帳面だけは閉じない。それが今の自分にできることだった。


 薬草の補充を取りに、管理棟のそばまで出た。


 中庭を回る回廊を抜けると、正廊のほうから光が漏れていた。


 足を止めた。


 柱の陰に、姉の姿があった。壇上に一人で立ち、演示の所作を繰り返している。


 金色の光が指先から湧いた。壇の空気がゆるやかに照らされ、光が弧を描いて消える。


 観客のいない正廊だった。審査官も聖職者の目もない。


 候補生の多くが浮足立ち実習を休んでいる中で、姉は一人で光を繰り返していた。


 視線が合った。


「……お元気そうね」


 姉の声が回廊の冷えた空気に落ちた。


「お姉様も」


 姉がかすかに首を傾けた。


「わたくしは元気以外のものを見せる余裕がないだけよ」


 その言葉を残して、姉は正廊の奥に戻っていった。銀糸の裾が石畳の上を音もなく滑って消えた。


 踏み出しかけた足が半歩ずれて、息がひとつぶん止まった。


---


 薬草の包みを受け取り、渡り廊下を戻った。


 半ばでレオとすれ違った。


「フィアさん」


「薬草を受け取ってきました」


「すみません、届けるつもりだったんですが。管理室がまだ立て込んでいて」


 レオの目の下に薄い影がある。


「申請は」


「出しました。返事はまだです」


 声は平たかった。焦りを乗せていない。


「通るかどうかはわかりません。ただ出さないよりはましだと思って」


「そうですね」


「フィアさんは今日も」


「二人来ました。一人は正廊から流れてきた方です」


「正廊から」


 レオが一拍止まった。


「実習室が閉まっているので」


「……東翼だけが開いている」


 レオの目が動いた。栗色の前髪の奥で何かを量るような表情が一瞬だけ浮かび、消えた。


「フィアさんは変わりませんね」


「変えようがないだけです」


 レオは口元だけで笑い、記録管理室の棟のほうへ歩いていった。


 首がわずかに前へ傾いている。考えごとを抱えたまま歩く横顔だった。


---


 東翼に戻った。治療室の扉を閉めると、廊下の足音が遠くなった。蝋燭に火を灯し直した。


 蝋燭が指一本ぶん短くなったころ、帳面に最後の一行を書き入れた。


 咳の男。経過良好。次回終診の見込み。


 手首の女。新患。正廊第三実習室から。腱周囲の炎症。三日後再診。


 帳面を閉じかけたとき、廊下の奥から声の切れ端が届いた。


「——控えと数が合わない。一枚だけなら転記の誤差だが——」


 声が壁に吸われて途切れた。


 誰の声かはわからなかった。管理局の技師か、記録管理の神官か。


 フィアは帳面の上に手を置いたまま動かなかった。


 控えと数が合わない。


 レオが見つけた帳簿に書かれた数字と、灰色に沈黙した板の中の紋。どちらが、どちらに合わないのか。


 それを確かめる手は、まだ自分のものではなかった。


 帳面を閉じた。


 灯りを落とした。


 暗がりの中で、革表紙がかすかに温もっていた。


 五年分の手のぬくもりを吸った革は、どの朝もどの夜も同じ温さを返す。


 表紙の裏に、レオが書いた紙が一枚挟まっている。


 帳面は変わらない。


 挟まれた一枚だけが、まだ新しかった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


アーク2「起」の締め括りを、あえて静かな回にしました。聖秤が止まっても患者は来る、来れば治す。書いているあいだずっと、その当たり前がこの子の強さなのだと感じていました。


咳の男が「おれが来なくなっても、先生はここにいますか」と訊いた場面で、手が止まりました。フィアは「いると思います」としか言えない。でもその曖昧さが、この子の正直さだと思います。


回廊で姉の光を見た場面は、書く前から頭にありました。観客のいない壇で一人、光を繰り返す姉。あの横顔を書いたとき、自分の中のフィアが足を止めた気がしました。


ラストの声の切れ端は次話への小さな布石です。控えと数が合わない——その先で何が見えてくるのか、一緒に追いかけていただけると嬉しいです。

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