断片
閲覧申請が通り、レオが帳簿から書き写した五年分の得点を見る。自分だけが動かない数字と、姉の欄にだけ残る書き直しの跡。
石壁に触れた指先から、朝の冷たさが腕まで伝わった。
秋が日ごとに深くなっている。東翼の壁は夜のうちに結露を蓄え、朝にはその水が石を冷やしていた。
手首の女を診て送り出した。腫れは前回の半分ほどに引いている。
「先生、指がこんなに動くの久しぶりです」
「もう一度だけ来てください。次で終わりにできると思います」
女は深く頭を下げて廊下に出ていった。
帳面に日付と経過を記した。腱の回復を図に描き入れた。
筆を置いた。インクの蓋を閉めた。
乾いた秋の空気が窓のない部屋にも入り込んでいる。薬草の瓶の蓋がいつもより固かった。
レオの閲覧申請の返事が、まだ来ない。
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薬草の在庫を確かめに管理棟まで出た。
渡り廊下を抜けると、いつもより声が多い。
管理棟のそばの回廊で、見慣れない法衣の神官が三人、巻物を広げていた。聖秤の調査に加わった者たちだろう。
声は低かった。図面を指差しながら何かを議論している。
回廊の石畳に聖花の花弁が落ちていた。踏まれて茶色く変色したまま拾われていない。
回廊の奥から壁越しに鉄の擦れる音が届いた。大聖堂の方角だった。
候補生の掲示板のそばを通った。前と同じ追加通達がまだ掲げてある。紙の角が反り始めていた。
中庭を囲む石壁の隅に蔦が赤く色づき始めていた。一年目もこの蔦が赤くなる頃に帳面を書き始めた。
薬草の包みを受け取り、東翼に戻った。新しい包みを棚に並べて瓶の蓋を確かめた。
治療室の椅子に座ると、乾いた薬草の古い匂いが胸に入ってきた。
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蝋燭の芯を替えたころ、足音が廊下を近づいてきた。
速い。けれど乱れてはいなかった。
「フィアさん」
レオが入口に立っていた。右腕に紙を一枚抱えている。
「お時間ありますか」
「はい」
「申請の返事が来ました」
治療室に入り、扉を引き寄せた。廊下の気配を断つ仕草だった。以前もそうした。
「通ったんですか」
「限定的にです。聖秤停止に伴う照合目的で、候補生の過去五年分の得点一覧のみ。原本は持ち出せません。保管室の中で閲覧と転記だけです」
「見てきたんですか」
「今朝、開室と同時に入りました」
レオが紙を机の上に広げた。四つ折りの跡がついていて角が浮く。指で端を押さえた。
「候補生七人分の五年間の数字です。帳簿に記されていたものをそのまま写しました」
整った筆跡だった。七つの名前が縦に並び、横に五つの数字が年ごとに連なっている。一部は空欄だった。
「帳簿はどんな形のものでしたか」
「革装丁の綴じ帳です。管理局の印が表紙にある。中身は商人の元帳に似た書式で、名前と年号の表組みになっていました」
「数字を書き込む人がいる」
「ええ。筆跡が年によって違います。毎年別の手が書いている」
「空欄は」
「虫食いです。第四席の三年目と四年目が読めなかった。それ以外は写せています」
フィアは椅子を引いて紙に向き合った。
薄い紙だった。レオが管理室で使うのと同じ、淡い茶色の紙。七行五列の数字が載っている。
自分の名前を探した。一番下の行にあった。
三一二。三一二。三一二。三一二。三一二。
五つの同じ数字が等間隔に並んでいた。
掲示板で見た数字と同じだった。
それでも、レオの筆跡で並んだ五つの三一二は、羊皮紙の上で見たときとは違う量感を持っていた。
帳簿にもこの数字があった。板のなかにも、紙のなかにも、同じ数字が座っている。
「掲示と同じですね」
「はい」
「ほかの方の欄も見ていいですか」
「見てください」
第二席。四七一、四九三、五二八、五四一、五六七。年ごとに三十ほどずつ上がっている。
第三席。三九五、四二〇、三八一、四四七、四六二。上がったり下がったりしながら、緩やかに伸びていた。
第五席。第六席。どちらも年ごとに数字が動いている。良い年もあれば落ちた年もある。
全員が、動いていた。
動いていないのは自分だけだった。
指が紙の上を滑った。自分の行。一年目から五年目まで、同じ数字が五つ。
「レオ」
「はい」
「二十七人から百四人になっても、三一二は変わらなかった」
口に出したのは初めてだった。
声は震えていなかった。怒りではなかった。
胸の底で何かが冷たく澄んでいくのがわかった。
レオは答えなかった。紙の上の数字を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「お姉様の欄について、もうひとつ」
レオの声がわずかに低くなった。
フィアは紙の一番上の行に目を戻した。第一席。
七八三。八二四。八六〇。九〇二。九三七。
数字が一段ずつ階段のように上がっている。四十ずつ、均等に近い刻みだった。
「数字だけ見ると、順当に伸びていますね」
「そう見えます。ただ、原本にはこの数字の横に別の数字が薄く残っていました」
フィアの指が紙の端で止まった。
「重ね書きの跡です。元の数字の上から別の数字が重ねてある。五年のうち三年分にそれがありました」
重ね書き。
「読めましたか」
「一年目だけかろうじて。かすれていて断定はできませんが、六四〇前後に見えました」
その数字が、頭の中で姉の名前と重なった。
「確定の七八三との差は百四十以上です」
百四十。自分の五年間の得点のほぼ半分に近い差だった。
フィアの手が紙の端に触れた。紙は少しめくれている。レオが急いで折り畳んだ跡だった。
「書き直しがあるのは一年目、三年目、五年目ですか」
「そうです。二年目と四年目にはありません」
「ほかの候補生の欄にも」
「ありません。重ね書きの跡があるのは——第一席の欄だけです」
蝋燭の芯がかすかに弾けた。影が壁の上で一度揺れて戻った。
沈黙が治療室の石壁に沈んだ。薬草の匂いのなかに紙のかすかな匂いが混じっている。
「この紙は」
「フィアさんに持っていてほしくて写しました。原本にもう一度触れられる保証はありません」
「管理局が帳簿を——」
「残すとは限りません。申請が通った時点で帳簿の存在を知る者が増えた。管理局がどう動くかは」
レオは言葉を切った。栗色の前髪の奥の目が紙の上を見つめている。
「保管室を出るとき、正規の閲覧簿に署名しました。手続きは踏んでいます」
「レオ」
「はい」
「ありがとうございます」
「あの紙は——人の目に触れないほうがいいかもしれません。お気をつけて」
レオが廊下に出ていった。足音が遠ざかっていく。記録管理室の棟のほうだった。
背中が角を曲がるまで、足音は規則正しかった。
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ひとりになった。
紙が机の上に残っている。
フィアはもう一度、七人分の数字を上から順に読んだ。
どの候補生も得点は年ごとに動いている。上がる年もあれば落ちる年もある。
患者が変わり、季節が変わる。だから数字は揺れる。
自分の欄だけが揺れていなかった。
帳面を引き出しから出した。紙の隣に並べた。
帳面は厚い。五年ぶんの名前と症状と日付を吸い込んで革表紙が膨らんでいる。
紙は一枚。七人の五年が薄い一枚に収まっている。
二十七人から百四人になった。帳面はその道のりを全部抱えている。
一年目の二十七人も、五年目の百四人も。いくら増えても、紙の上の数字はぴたりと止まったままだった。
二つを並べたのは初めてだった。
患者の数が増えていくのと、得点が動かないのと。頭のなかでその二つが初めてはっきりと隣り合った。
怒りではなかった。
腹の底に石が沈むような静けさだった。
重さだけがはっきりしている。熱はなく、ただそこに留まっていた。
帳面を閉じた。
紙をその表紙の裏に挟んだ。先に入れておいた一枚——レオが治療件数を写してくれた紙——の上に二枚目が重なった。
姉の欄に残っていた重ね書きの跡が、頭の奥で輪郭を持ち始めている。
六四〇が七八三に変わる。差は百四十以上。
それが五年のうち三年。
あの差を埋めたのは、誰の手なのだろう。
帳簿を書いた手か。それとも、もっと上の——。
蝋燭の煤を指で払った。
暗がりのなかで帳面の革表紙に手を置いた。二枚の紙を挟んだ革が、昨日より少しだけ重い。
一枚は数えた患者の数。もう一枚は動かなかった得点。
帳面の端からはみ出した紙の角に、レオのインクの匂いがかすかに残っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
数字を並べるだけの場面をどう書くか、この話の一番の勝負どころでした。帳簿の数字は冷たくて、そのままでは物語にならない。でもレオの手書きの紙一枚がフィアの帳面の隣に置かれた瞬間、五年分の温度差が一気に見えてきた。書いている最中、自分でもその落差に手が止まりました。
レオが保管室で帳簿を写している朝の場面を本文には書きませんでした。彼がどんな顔でインクを走らせていたかは想像に任せたかったからです。でも紙の折り目の深さに、彼の気持ちは十分出ていると思います。
姉の欄に残っていた重ね書き——その先に何が見えてくるか、次話を楽しみにしていただけたら嬉しいです。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




