痕
写しの紙を前にレオと共に補正の痕跡を読み取る。姉の欄だけに残る二つのインク。断定はできない。ただ静かな痛みが残った。
壁を伝う水の筋が、朝の冷たさを連れてきた。
結露は秋が深まるごとに増えている。東翼には暖炉がない。石壁が夜のうちに蓄えた湿気を、朝になっても冷たいまま返してくる。
蝋燭に火を入れた。芯が安定するまでの間に、壁の影が二度揺れた。
棚の瓶の蓋を確かめた。軟膏。乾燥させた白樺の葉。蓋はどれも昨日と同じ固さで回った。
帳面を机に出した。革表紙の裏に紙が二枚挟まっている。指先に革の膨らみが返ってきた。
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廊下の向こうから足音が近づいた。
「先生、手首を診せに来ました」
手首の女だった。もう左手を庇う仕草がない。
「調子はどうですか」
「水仕事がずいぶん楽になりました。朝だけまだ少し硬いですけど」
フィアは女の手首を包んだ。乳白色の光を細く絞って、腱の輪郭を辿る。
炎症の芯が消えていた。腱は柔らかさを取り戻している。
「今日で終わりにできると思います」
「えっ、本当ですか」
「朝の硬さは温めれば引きます。もう通わなくて大丈夫です」
女が両手を握った。目の端が赤くなっている。
「ありがとうございます。正廊の実習室ではこんなに丁寧に診てもらえなかったので。ここがあってよかった」
「よくなってよかったです」
「先生。正廊のほう、まだ開かないんですか」
「わたしにはわかりません。通達が出たら掲示されると思います」
「知り合いが薬を切らしていて困っているんです。ここでも診てもらえますか」
「ええ。いつでもどうぞ」
女が深く頭を下げて出ていった。
帳面に最後の経過を書き入れた。腫れの消失。終診。筆を置いてインクの蓋を閉めた。
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帳面を開いたまま、革表紙からはみ出した紙の角に目が止まった。
二枚目の紙。七人ぶんの五年間の得点。
昨夜から、ずっとここにある。
指が紙の角に触れかけたとき、廊下にもうひとつの足音が近づいた。
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「フィアさん」
レオが入口に立っていた。今日は手ぶらだった。
「少しお時間いいですか」
「はい。入ってください」
レオが治療室に入り、扉を引いた。廊下の気配を断つ仕草。
フィアは紙を引き出して机の上に広げた。四つ折りの跡に沿って角が浮く。
「昨日のことで、帰ってから気づいたことがあるんです」
「聞かせてください」
レオが隣の椅子を引いて座った。紙の上の七行五列に目を落とす。
蝋燭の灯りが紙の表面に淡い影を作っている。レオのインクで書かれた数字は均整がとれていて、保管室で急いで写したとは思えないほどだった。
「帳簿の基の記入は、年によって筆跡が違いました。毎年、担当が替わるんだと思います」
「ええ」
「重ね書きのほうは——三年分とも同じ手でした」
フィアの指が紙の上で止まった。
「一年目も三年目も五年目も、上から書き足された字の癖が同じなんです。筆圧が強くて右に傾いている」
「基の記入者とは別の手が、三年にわたって同じ欄を直した」
「そうです」
「インクの色も気になりました」
「どういうことですか」
「基の記入は年によってインクの濃淡が微妙に違います。使う墨壺が替わるからでしょう。でも書き直しのインクはどの年も同じ色に見えた」
「同じインクで、同じ手が、同じ欄を」
「そういうことになります」
三年にわたって同じ手、同じインク。誰かが決まった時期に帳簿を開いて、ひとつの欄だけを書き直していた。
紙の上でフィアは姉の行を辿った。七八三、八二四、八六〇、九〇二、九三七。四十ほどずつの均等な刻みが並んでいる。
「書き直しの方向も気になります」
「はい」
「すべて上がっていますね。下がった年は一度もない」
レオが小さく頷いた。
「それと上がり幅が揃いすぎています。確定の数字は四十刻みでほぼ等間隔ですが、元の数字はそうではなかった」
「一年目は六四〇前後でした。三年目は——帰ってから思い返すと、七百台の前半だった気がするんです」
「ええ。元の数字のほうがばらつきがある。ほかの候補生に近い伸び方でした」
フィアは第二席と第三席の欄を見た。上がったり下がったり、不揃いに動いている。
姉の欄だけが、きれいな階段だった。ひとつの段差も乱れていない。まるで最初から行き先の決まった道のように、数字が同じ幅で上を向いている。
「確定の数字のほうが整いすぎている」
「はい。元の数字がほかの候補生と似た動きなら、この階段は後から揃えた形に見えます」
「二年目と四年目に書き直しがないのは」
「元の数字がすでに十分だったから直す必要がなかった。そう読むこともできます」
蝋燭の炎が揺れもしなかった。光の中で、紙の上の数字が静かに並んでいる。
フィアは紙の端をそっと持ち上げた。裏は白い。この薄い一枚が、五年間の痕跡を運んでいる。
「ほかの候補生の欄には」
「どの年も書き直しの跡はありません」
声を出さなかった。出す必要がなかった。七人のうち、跡があるのはひとりだけだった。
紙の上で、第一席の行が蝋燭の灯りを受けている。レオの均整のとれた筆跡の向こうに、見えないもうひとつの層が重なっていた。
「断定はできません」
レオの声が低くなった。
「転記の訂正だった可能性もあります。ただ、同じ手が三年にわたって一人の欄だけを上方向に直している」
「偶然にしては揃いすぎている」
「……はい」
窓のない部屋の空気が、一段冷えたように感じた。フィアの指先が紙の端に触れたまま動かなかった。
七人のうち一人の欄だけに別の手が入っている。五年のうち三年。同じインク。同じ筆跡。上方向にだけ。
数字を持ち上げる意思が、そこにはあった。
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「レオ」
自分でも意外なほど静かな声だった。
「お姉様が以前、聖秤の、と言いかけて止めたことがありました」
レオの手が膝の上で止まった。
「聖秤が止まる前です。東翼に来たときに」
「続きは」
「聞いていません」
レオは何も言わなかった。紙の上の姉の数字を見つめたまま、長い間そこにいた。
「この紙は帳面に挟んでおいてください」
「ええ」
「何かわかれば伝えます」
レオが立ち上がり、扉を開けて廊下に出ていった。足音が記録管理の棟のほうへ遠ざかっていく。
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ひとりになった。
紙の上で、七八三から九三七までの階段が蝋燭の灯りに照らされている。
同じ手が三年にわたって数字を書き直していた。元の数字の上に、別のインクで。上方向にだけ。
あの日の姉を思い出した。
供も連れず東翼に来て、右手を差し出した。光量で治癒を押し通した代償で、経路の末端が細くなっていた。
掌で触れたとき、搾りつくされた指先の細さが伝わってきた。
「ここなら少し息がつける」と漏らした横顔。去り際の、くしゃりとした笑い方。
あの笑い方は幼い頃のままだった。互いの三つ編みを結ぼうとして失敗して、二人で笑ったときの顔。
あの頃の姉の指先は太くて温かかった。魔力の通った、健やかな手だった。いつからあんなに細く乾いた手に変わったのか。
聖秤の——。姉が続きを飲み込んだ言葉の先に、この数字があったのだろうか。
知っていたのか。知らなかったのか。
どちらであっても、あの搾り尽くされた手で壇に立ち続けた重さは変わらない。
嫌いにはなれなかった。
誰かが姉の数字を整え、あの壇の上に押し留め続けた。姉はそれに気づいていたのか。気づいていて、あの笑い方ができたのか。
けれど紙の上の痕跡は冷たかった。
怒りではない。身体のどこかで、冷えた水がゆっくりと嵩を増していくような静けさがある。どこまで広がるのか、まだ器の縁が見えなかった。
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紙を折って帳面に戻した。
引き出しにしまおうとしたとき、廊下の向こうで声がした。
「東翼の奥は突き当たりでよろしいですか」
聞き覚えのない声だった。低く、落ち着いている。患者の声ではない。
別の声が小さく応じた。聞き取れなかった。
「では、日を改めて」
硬い靴底が石畳を叩いて、渡り廊下のほうへ遠ざかった。
東翼を訪ねてくるのは、患者か、レオか、ときどきルカ。正廊から来る聖職者も管理局の者も、ふだんこの奥まで足を向けない。
あの声は、そのどれでもなかった。
東翼の場所を確かめるような口振りだった。管理棟で訊けば済むことを、わざわざここまで来て確かめている。
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帳面を引き出しにしまった。
机の上に蝋燭とインクの壺が残っている。
この壺の墨で、五年ぶんの記録を書いてきた。名前も日付も経過も、すべて同じ墨。
写しの紙の向こうにある帳簿には、ひとつの欄だけ、二つのインクが重なっていた。
壁の結露が一滴、石畳に落ちた。小さな音が治療室の静けさに溶けた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
レオが「帰ってから気づいた」という形で新しい観察を持ってくる構成は、書き始める前から決めていました。保管室では数字を正確に写し取ることに必死で、筆跡の癖にまで意識が回らなかった。でも部屋に戻って手を止めたとき、あの右に傾いた字が頭に浮かんだ。そういう人なのだと思います。
姉について書くたびに手が止まります。くしゃりとした笑い方、搾りつくされた右手、「ここなら少し息がつける」。この人を一面的には書けないと、毎回書くたびに感じます。
廊下の声の主が誰なのか、次話で少しだけ見えてきます。一緒に追いかけていただけたら嬉しいです。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




