百四
管理局の治療件数集計が掲示され、フィアの百四件が候補生の間にざわめきを生む。望んだ形ではない注目の中、東翼にまた見知らぬ気配が近づく。
「百四」という数字が、壁越しに届いた。
フィアは筆を止めた。
帳面に記した数字だった。今年の治療件数。レオに帳面を見せたとき、ふたりで数え直した数。
声はふたつ。東翼の廊下の、渡り廊下寄りの角で誰かが立ち話をしている。
「でも第七席でしょう。あの得点で百件って——」
「管理局の集計にそう出ていたのよ」
壁が声を崩して、断片だけが治療室に届く。
足音が渡り廊下のほうへ遠ざかった。
フィアは帳面に目を戻した。書きかけていたのは今朝の患者の経過だった。腰の痛みで紹介されてきた女の二度目の来室。
続きを書いた。インクの蓋を閉めた。
壁越しの声はもう聞こえない。けれど「百四」という音の残りが、治療室の空気にまだ留まっていた。
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午前の最後の患者を送り出してから、管理棟へ向かった。軟膏の在庫が切れかけていた。
渡り廊下に出ると、候補生がふたり立ち止まっている。
こちらに気づくと会話を止め、道を空けた。
目が合った。すぐに逸らされた。
背中で声が戻る。
「あれが——」
「ええ」
中庭の蔦が石壁に赤く張りついている。風が葉を揺らし、石畳に影が散った。
正廊寄りの渡り廊下は、いつもなら足早に通り過ぎる場所だった。今日は歩調が遅い。すれ違う人の視線が、一拍ぶん長くこちらに留まる。
候補生の掲示板の前に人だかりがあった。
追加通達の横に新しい紙が一枚。管理局の印が押された薄い紙だった。
各候補生の治療実施件数(本年度・手作業集計)。
七人の名前と数字が縦に並んでいる。
上の六つは三十件台から五十件台だった。ひとつだけ二十件台が混じっている。
一番下。第七席。百四件。
桁が違った。
掲示板の前に立つ候補生が三人ほど、紙の上の数字を見比べている。そのうちのひとりがフィアに気づいた。
「フィアさん」
第六席の少女が掲示板のそばから歩いてきた。
「これ、見ましたか」
「いま見ました」
「百四件って、今年だけですか」
「ええ。帳面にはそう記録してあります」
少女の目が丸くなった。
「わたし四十六件でした。多いほうだと思っていたのに」
「四十六件は立派な数字です」
「倍以上じゃないですか」
少女の声に棘はなかった。ただ純粋に驚いている。
「東翼にはそんなに患者さんが来るんですか」
「紹介で来てくださる方が増えました。正廊の実習室が閉まってからは、そちらの方も」
「紹介って——患者さん同士で」
「ええ。膝の治療で通っていた方が、お隣の方を連れてきてくださったり」
少女が黙った。それから小さく頷いた。
「……すごいですね」
「……そうですか」
少女の唇が薄く開いたまま止まった。何か言いかけて、やめて、掲示板のほうに視線を戻した。
掲示板を離れようとしたとき、後ろで低い声が通った。
「件数だけ多くても得点が最下位じゃ、何を治しているのかしらね」
振り返らなかった。声の主が誰なのか、確かめる必要はなかった。
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管理棟の窓口で軟膏を受け取ったとき、窓口の神官がフィアの顔を見た。
「東翼の方ですね。治療件数の多い——」
以前は名前も聞かれなかった。今日は顔を知られていた。
「はい。軟膏をいただけますか」
包みを受け取って管理棟を出た。窓口の神官の目がまだ背中に残っている気がした。
渡り廊下の角でレオとすれ違った。栗色の前髪が秋の風に乱れている。
「フィアさん。集計の紙、ご覧になりましたか」
「ええ」
「何か言われましたか」
「少し」
レオの足が止まった。廊下には他に誰もいなかった。石畳の敷き目の影が長く伸びている。声を落とした。
「あの集計は、評議会にも提出される予定だそうです。聖秤停止中の暫定指標として」
「評議会に」
「はい。フィアさんの件数がそのまま載ります」
「……そうですか」
レオは何か言いかけた。唇が動いて、戻った。
「気になることがあれば伝えてください」
小さく頭を下げて、記録管理棟のほうへ歩いていった。背中が角を曲がって見えなくなる。
評議会。候補生の実習の話が、そこまで届くのか。
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東翼に戻った。
扉を閉めると廊下の気配が遮断される。窓のない治療室は外の声を通さない。
軟膏を棚に並べた。瓶の蓋を指先で回して確かめる。いつもと同じ硬さ。いつもと同じ薬草の匂い。
帳面を開いた。書きかけの行の続きを書く。日付。経過。処置。
五年間、この部屋で帳面に書き続けてきた。
名前と症状と日付。一人ずつ、一行ずつ。
その積み重ねが、掲示板の上では数字ひとつに圧し潰されていた。
名前も症状も経過もない。「百四」という数字だけが切り取られて、フィアの知らないところで歩き始めている。
膝の悪かった老人は三か月通った。咳の男は半年かかった。火傷の少年はまだ来る。一人ずつに顔がある。一人ずつに声がある。
掲示板の紙には、その全部が三桁の数字に畳まれていた。
帳面をつけ続けたのは自分のためだった。けれど——誰かがいつか気づいてくれたら、という願いが、なかったとは言えない。
あの掲示板の紙は、その願いとは違う形で帳面の中身を引きずり出していた。数字だけが独り歩きして、名前を置き去りにしている。
数字だけを見て驚く声。桁が違うと囁く声。件数が多くても得点が低いと嗤う声。
どの声も、この治療室を覗いたことはなかった。
帳面の革表紙を撫でた。角が擦れて色が薄くなっている。留め金の真鍮も曇っていた。五年ぶんの手の跡だった。
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午後の患者を送り出した後、入口で軽い足音がした。
「先生」
ルカだった。薄い麻の上衣に油の染みがついている。
「少しいいっすか」
「ええ。どうぞ」
「集計の紙、見ました。先生、百四件はやっぱすごいっす」
「一人ずつ診ていたら、そうなっただけですよ」
「俺の火傷も入ってるんすよね」
「もちろん。帳面にルカの名前もあります」
ルカがぱっと笑った。それからすぐ顔を引き締めて、声を落とした。
「あと——先生に伝えとこうと思って。気になることがあるんす」
「なんですか」
「昨日の夕方、東翼の入口のそばで見慣れない人がいたんす」
フィアの手が膝の上で止まった。帳面の紙を挟んだまま、指が動かなくなる。
「法衣を着てたんすけど、管理局のとは違う。丈が長くて仕立てのいい、礼装みたいなやつでした」
「顔は見えましたか」
「遠くて。でも靴音がはっきりしてたっす。硬い底の、石畳に響くやつ」
昨日の声が蘇った。「東翼の奥は突き当たりでよろしいですか」と尋ねたあの落ち着いた声。石畳を叩いて渡り廊下へ去った足音。
「声はかけましたか」
「いえ。俺が通りかかったら向こうが先に気づいて、渡り廊下のほうに行っちまいました」
「……昨日、わたしも廊下で聞き慣れない声を聞きました」
「やっぱり。あと先生、正廊のほうでも集計の話してたっすよ。候補生じゃない人たちまで」
「そうですか」
「東翼に百件超えの候補生がいるって。けっこう広まってるっす。気をつけてくださいっす」
ルカが手を上げて廊下に出ていった。足音が遠ざかる。
戸口から風が入ってきた。渡り廊下のほうから、聖花の甘い匂いがかすかに混じっている。正廊の演示はとうに止まっているのに、花弁の香りだけがまだ建物に染みついていた。
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ひとりになった。
静けさが治療室の空気にゆっくりと降りてくる。
東翼を訪ねてくるのは、患者か、レオか、ルカ。五年間ずっとそうだった。
掲示板に数字が出た日に、礼装の聖職者が東翼のそばに立っていた。
偶然かもしれない。けれど東翼は大聖堂の裏手にある。用がなければ足を向けない場所だった。
帳面の革表紙に手を置いた。紙が二枚、まだ中に挟まっている。レオが写してくれた治療件数と、五年分の得点。
ここに座って、一人ずつ診て、一行ずつ書いてきた。
その積み重ねが、今日から違う目で見られ始めている。
棚の薬草の瓶から、白樺の葉の乾いた匂いが漏れていた。
窓のない部屋の中だけ、時間がいつもの速さで流れている。外では「百四」が一人歩きを続けているのだろう。この壁の向こうで、まだ誰かがその数字を口にしている。
扉を叩く音がした。
「すみません」
聞いたことのない声だった。
「百件以上も治してこられた先生がいると、掲示板の前で聞いたものですから」
帳面を開いた。次の空白の行に指を置いた。
「お名前を聞かせてください」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話の裏テーマは「数字の独り歩き」です。書く前に「フィアの件数が知られたとき、彼女は何を感じるか」を考え続けていました。答えは「嬉しくはない」でした。帳面に一人ずつ名前を記してきた人間にとって、百四という数字だけが掲示板の上を歩き始めることは、見つけてもらえたこととは少し違う。
第六席の少女は、この話で一番書くのが楽しかったキャラです。棘のない素直な驚きを向けられることが、フィアにとってはかえって居心地が悪い。人の善意に対して「……そうですか」としか返せない不器用さが、改めてフィアの核だと感じました。
東翼のそばに立っていた礼装の人物、次話で少しだけ近づきます。
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