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万年最下位だった聖女候補、5年目にして採点システムそのものが壊れていたと気づく  作者: 雨宮 彩月


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14/26

目

百四件の掲示後、候補生を超えて神官・聖職者の間にもフィアの名が広がり始める。望まない視線の中で患者を診続けるフィアの前に、正体の知れぬ人物が東翼の入口に立つ。

 治療室の扉が、午前のうちに六度開いた。


 いつもは三度か四度。帳面を広げなおす間もなく、次の名前を聞いた。


「すみません。東翼の先生に診ていただけると聞きまして」


 初めての顔だった。紹介でも常連でもない。


「掲示のところで、百件以上治された方がいると」


「お名前と、どこが悪いか教えてください」


「背中の張りが取れなくて。正廊の実習室はまだ閉まったままなので」


 フィアは女の背に手を当てた。乳白色の光を細く通す。


 背筋に沿って、筋の硬直が二か所。深くはない。


「二度ほど通っていただければ引きます。三日後にいらしてください」


「ありがとうございます。長屋に腰の悪い方がいるのですが、こちらを教えてもいいですか」


「もちろん。いつでもどうぞ」


 女が深く頭を下げて出ていった。


 帳面に名前と症状を記した。今朝だけで三人が初めての名前だった。


 月に一人いるかどうかだった新患が、この数日で七人になっている。


---


 午前の最後の患者を送り出してから、軟膏を取りに管理棟へ向かった。


 渡り廊下に出ると、中庭の蔦が先週より濃い朱に染まっていた。


 風が通り抜けるたびに、石壁に張りついた葉がかさりと鳴る。


 正廊寄りの角を曲がったとき、年嵩の神官がふたり、石柱の陰に立っていた。


 候補生ではない。法衣の襟に銀の祭祀紋が刺してある。


 一人がこちらに顔を向けた。


「——あの方かしら」


「東翼の」


 声は落としてあったが、石壁が音を拾った。


 祭祀を司る格の者の口から「東翼」が出るのは初めてだった。五年間、この廊下ですれ違っても目を向ける者はいなかった。


 歩調を変えずに通り過ぎた。背に視線が残る。候補生の好奇とは質が違う。物の値を見定めるような、静かで底の深い目だった。


 五年間、この渡り廊下を何百回歩いただろう。足を止められたことは一度もなかった。薬草の包みを抱えて通り過ぎるだけの影だった。


 今日は影ではなくなっている。ただそれが心地よいとは思えなかった。


 正廊のそばを通ったとき、もうひとつ声が聞こえた。


「百件を超えた候補生がいるそうだ。東翼に」


「ヴェルネイユの——妹のほうか」


 知らない男の声だった。ヴェルネイユの妹。その呼ばれ方は初めてだった。


 これまでは「第七席」か「最下位」だった。今は家名に「妹」がつく。姉の名と対で呼ばれている。


---


 管理棟の窓口で軟膏を受け取った。


「東翼のフィア様ですね」


 窓口の年配の神官が、こちらの名を呼んだ。先週まで名前を聞かれたことすらなかった。


「先日から治療の申し込みが窓口にも来ておりまして。薬草の追加をお出ししましょうか」


「お願いします」


 催促しなければ届かなかった東翼の薬草が、向こうから足された。五年間、在庫が切れても三日待たされたことがある。包みが一つ増えて両手がふさがる。


 廊下に出た。すれ違う候補生がふたり、こちらを見た。


 目をそらす速さが違う。以前はそもそも見ていなかった。今は見て、それから逸らしている。


 どちらの視線にも、言葉はなかった。ただ以前は無かったものが、今は在る。それだけのことが、渡り廊下の空気を変えていた。


---


 東翼に戻ると、廊下に見慣れない人が立っていた。


 管理棟の補佐官らしき若い神官だった。


「失礼いたします。こちらが東翼の治療実習室でしょうか」


「はい」


「上より視察の報告を求められまして、少しだけ拝見させていただけませんか」


「診察中はお入りいただけません。午後の最後の患者のあとでしたら」


「承知しました。では改めて」


 若い神官が一礼して去った。


 治療室に入り、棚の瓶の蓋を確かめた。蝋燭の芯を整えた。


 五年間、この部屋を見に来た者は一人もいなかった。正廊の演示室には毎月のように調べが入ると聞いていたのに、東翼は誰の帳簿にも載っていないように扱われてきた。


---


 午後の二人目を送り出したとき、入口からルカの声がした。


「先生、ちょっといいっすか」


「どうぞ」


 ルカが椅子に腰を下ろした。麻の上衣に油の染みが新しい。


「さっき正廊の渡り口で聞こえたんすけど、祭祀官の人が東翼のこと話してたっす」


「朝、わたしもすれ違いました」


「候補生じゃなくて、もっと上の人っすよ。百四件がどうとか、第一席とどう違うのかって」


 フィアの指が帳面の縁に当たった。


「お姉さんの名前も出てたっす。姉妹で件数にこれだけ差があるって」


 得点ではなく件数で姉と並べられること自体が、五年の間に一度もなかった。


「先生、大丈夫っすか」


「ええ。ルカこそ、底板の仕事は」


「灰色のまんまっすけど、毎晩磨いてるっす」


「それでいいと思います」


「あと、礼装の人——また東翼のそばにいたっす」


 フィアの手が止まった。


「今朝の早い時間。東翼の裏手の石段あたりに立ってて、こっちに気づいたら角を曲がって消えたっす」


「三度目ですね」


「っす。なんか、先生を見に来てる感じしません?」


「わかりません」


「……先生って、そういうとこありますよね」


 ルカが立ち上がった。


「気をつけてくださいっす」


 足音が廊下の奥に吸い込まれていった。石の反響が消えるまでの間が、いつもより長く感じられた。


 帳面の頁に目を落とした。ルカの名前は一年目の冬からある。火傷の行に「っす」とは書いていないが、声は覚えている。


---


 午後の三人目は年若い男だった。


「左の足首をくじきまして。正廊のほうは閉まっていると聞いたので」


「いつ痛めましたか」


「三日前です。歩けはするのですが、夕方になると腫れて」


 フィアは男の足首に手を当てた。靭帯に軽い裂けがある。


「包帯で固定します。七日ほど安静にしてください」


「わかりました。あの——先生って、あの百件以上の」


 フィアの手が一瞬止まった。


「足首を動かさないでください」


「すみません」


 包帯を巻き終えた。男がまだ何か言いたそうにしていたが、帳面を開くと黙って名前を告げた。


---


 蝋燭が一段短くなった頃、渡り廊下でレオと行き合った。


「フィアさん。今日は患者が多かったと聞きました」


「新しい方が三人来ました」


「やはり」


 レオの声が低くなった。栗色の前髪が秋風に揺れている。


「集計が評議会に出てから、東翼の件が上のほうで話題になっているようです。祭祀官や評議員のあいだで、候補生の治療実績を比較する声があると」


「比較」


「第一席の得点と第七席の件数を並べて、どちらが実態に近いか。そういう話が出ているそうです」


 姉と自分の名が、評議の席で並んでいるのか。得点ではなく件数で。


「フィアさんが望んだことではないのはわかっています」


「わたしは何も言っていません」


「ええ。だからこそ——」


 レオが口を閉じた。言葉が喉まで来て、飲み込まれた。


 渡り廊下を秋の風が抜けていった。聖花はとうに散っていたが、甘い残り香だけが石壁に染みている。


「気になることがあれば伝えます」


 記録管理棟のほうへ歩いていった。背が角を曲がるまで、フィアはそこに立っていた。


 風が止まっていた。中庭の蔦だけが、乾いた音を立てている。


---


 午後の最後の患者を送り出してから、視察の若い神官を迎えた。


 神官は治療室のなかを一巡した。棚の瓶を眺め、机の上の帳面に目を止めた。


「こちらが記録ですか」


「ええ。診た方のお名前と経過を書いています」


「五年分の」


「はい」


 神官が帳面のそばに立ち止まった。


 フィアは帳面を引き寄せた。表紙の上に手を置く。


「報告に記載いたします。ありがとうございました」


 神官が一礼して出ていった。


 帳面を開いた。今日の頁に、七つの新しい名前が並んでいる。


 一つずつ、症状と日付を確かめた。背中の張り。足首の靭帯。肩の古傷。どの行にも同じ太さの文字が並んでいる。


 頁をめくった。昨日の記録。その前の記録。百件目の名前。九十件目の名前。どれも自分しか読まない前提で書いたものだった。


 五年分の名前が、同じ墨で、同じ手で並んでいる。朝から夕方まで、一人ずつ聞いて、一行ずつ書いた名前。


 今日この部屋には、名前を伝えに来た者と、数字を確かめに来た者が、同じ扉から入ってきた。


 蝋燭の炎が揺れた。窓のない部屋では、扉の隙間風だけが空気を動かす。


 帳面を閉じた。留め金に指をかけたまま、しばらく手を離さなかった。


---


 東翼の入口のほうから、足音がした。


 硬い靴底が石畳を打つ音。ルカの軽い足でも、レオの革底でもない。


 ゆっくりと近づいてくる。


「第七席のフィア・ヴェルネイユ殿とお見受けする」


 低く、よく通る声だった。


 振り返った。


 入口に人が立っていた。仕立てのいい法衣。銀糸ではなく、金糸の刺繍が襟から胸に走っている。蝋燭の灯りを受けて、その糸が鈍く光った。


 候補生でも管理局でもなかった。


「少しお時間をいただきたい」


 帳面の留め金が、掌の中でつめたく光っていた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


この話を書いている間ずっと、「見てもらう」ことの手触りについて考えていました。窓口の神官の態度が変わる。渡り廊下で祭祀官の目がこちらに留まる。視察の報告が求められる。どれも小さな変化なのに、フィアにとっては東翼の空気そのものが変わってしまう体験です。同じ廊下を同じ速さで歩いているのに、周りとの距離だけが違う。


帳面を閉じたまま留め金から手を離さない場面が、書いていて一番手が止まりました。五年間ずっとあの帳面は「自分だけのもの」だった。それが「報告に記載する」と言われた瞬間の手の動きに、言葉にできないものが全部入ったと思います。


最後の声の主が何者か、次話で明かされます。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!

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