目
百四件の掲示後、候補生を超えて神官・聖職者の間にもフィアの名が広がり始める。望まない視線の中で患者を診続けるフィアの前に、正体の知れぬ人物が東翼の入口に立つ。
治療室の扉が、午前のうちに六度開いた。
いつもは三度か四度。帳面を広げなおす間もなく、次の名前を聞いた。
「すみません。東翼の先生に診ていただけると聞きまして」
初めての顔だった。紹介でも常連でもない。
「掲示のところで、百件以上治された方がいると」
「お名前と、どこが悪いか教えてください」
「背中の張りが取れなくて。正廊の実習室はまだ閉まったままなので」
フィアは女の背に手を当てた。乳白色の光を細く通す。
背筋に沿って、筋の硬直が二か所。深くはない。
「二度ほど通っていただければ引きます。三日後にいらしてください」
「ありがとうございます。長屋に腰の悪い方がいるのですが、こちらを教えてもいいですか」
「もちろん。いつでもどうぞ」
女が深く頭を下げて出ていった。
帳面に名前と症状を記した。今朝だけで三人が初めての名前だった。
月に一人いるかどうかだった新患が、この数日で七人になっている。
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午前の最後の患者を送り出してから、軟膏を取りに管理棟へ向かった。
渡り廊下に出ると、中庭の蔦が先週より濃い朱に染まっていた。
風が通り抜けるたびに、石壁に張りついた葉がかさりと鳴る。
正廊寄りの角を曲がったとき、年嵩の神官がふたり、石柱の陰に立っていた。
候補生ではない。法衣の襟に銀の祭祀紋が刺してある。
一人がこちらに顔を向けた。
「——あの方かしら」
「東翼の」
声は落としてあったが、石壁が音を拾った。
祭祀を司る格の者の口から「東翼」が出るのは初めてだった。五年間、この廊下ですれ違っても目を向ける者はいなかった。
歩調を変えずに通り過ぎた。背に視線が残る。候補生の好奇とは質が違う。物の値を見定めるような、静かで底の深い目だった。
五年間、この渡り廊下を何百回歩いただろう。足を止められたことは一度もなかった。薬草の包みを抱えて通り過ぎるだけの影だった。
今日は影ではなくなっている。ただそれが心地よいとは思えなかった。
正廊のそばを通ったとき、もうひとつ声が聞こえた。
「百件を超えた候補生がいるそうだ。東翼に」
「ヴェルネイユの——妹のほうか」
知らない男の声だった。ヴェルネイユの妹。その呼ばれ方は初めてだった。
これまでは「第七席」か「最下位」だった。今は家名に「妹」がつく。姉の名と対で呼ばれている。
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管理棟の窓口で軟膏を受け取った。
「東翼のフィア様ですね」
窓口の年配の神官が、こちらの名を呼んだ。先週まで名前を聞かれたことすらなかった。
「先日から治療の申し込みが窓口にも来ておりまして。薬草の追加をお出ししましょうか」
「お願いします」
催促しなければ届かなかった東翼の薬草が、向こうから足された。五年間、在庫が切れても三日待たされたことがある。包みが一つ増えて両手がふさがる。
廊下に出た。すれ違う候補生がふたり、こちらを見た。
目をそらす速さが違う。以前はそもそも見ていなかった。今は見て、それから逸らしている。
どちらの視線にも、言葉はなかった。ただ以前は無かったものが、今は在る。それだけのことが、渡り廊下の空気を変えていた。
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東翼に戻ると、廊下に見慣れない人が立っていた。
管理棟の補佐官らしき若い神官だった。
「失礼いたします。こちらが東翼の治療実習室でしょうか」
「はい」
「上より視察の報告を求められまして、少しだけ拝見させていただけませんか」
「診察中はお入りいただけません。午後の最後の患者のあとでしたら」
「承知しました。では改めて」
若い神官が一礼して去った。
治療室に入り、棚の瓶の蓋を確かめた。蝋燭の芯を整えた。
五年間、この部屋を見に来た者は一人もいなかった。正廊の演示室には毎月のように調べが入ると聞いていたのに、東翼は誰の帳簿にも載っていないように扱われてきた。
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午後の二人目を送り出したとき、入口からルカの声がした。
「先生、ちょっといいっすか」
「どうぞ」
ルカが椅子に腰を下ろした。麻の上衣に油の染みが新しい。
「さっき正廊の渡り口で聞こえたんすけど、祭祀官の人が東翼のこと話してたっす」
「朝、わたしもすれ違いました」
「候補生じゃなくて、もっと上の人っすよ。百四件がどうとか、第一席とどう違うのかって」
フィアの指が帳面の縁に当たった。
「お姉さんの名前も出てたっす。姉妹で件数にこれだけ差があるって」
得点ではなく件数で姉と並べられること自体が、五年の間に一度もなかった。
「先生、大丈夫っすか」
「ええ。ルカこそ、底板の仕事は」
「灰色のまんまっすけど、毎晩磨いてるっす」
「それでいいと思います」
「あと、礼装の人——また東翼のそばにいたっす」
フィアの手が止まった。
「今朝の早い時間。東翼の裏手の石段あたりに立ってて、こっちに気づいたら角を曲がって消えたっす」
「三度目ですね」
「っす。なんか、先生を見に来てる感じしません?」
「わかりません」
「……先生って、そういうとこありますよね」
ルカが立ち上がった。
「気をつけてくださいっす」
足音が廊下の奥に吸い込まれていった。石の反響が消えるまでの間が、いつもより長く感じられた。
帳面の頁に目を落とした。ルカの名前は一年目の冬からある。火傷の行に「っす」とは書いていないが、声は覚えている。
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午後の三人目は年若い男だった。
「左の足首をくじきまして。正廊のほうは閉まっていると聞いたので」
「いつ痛めましたか」
「三日前です。歩けはするのですが、夕方になると腫れて」
フィアは男の足首に手を当てた。靭帯に軽い裂けがある。
「包帯で固定します。七日ほど安静にしてください」
「わかりました。あの——先生って、あの百件以上の」
フィアの手が一瞬止まった。
「足首を動かさないでください」
「すみません」
包帯を巻き終えた。男がまだ何か言いたそうにしていたが、帳面を開くと黙って名前を告げた。
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蝋燭が一段短くなった頃、渡り廊下でレオと行き合った。
「フィアさん。今日は患者が多かったと聞きました」
「新しい方が三人来ました」
「やはり」
レオの声が低くなった。栗色の前髪が秋風に揺れている。
「集計が評議会に出てから、東翼の件が上のほうで話題になっているようです。祭祀官や評議員のあいだで、候補生の治療実績を比較する声があると」
「比較」
「第一席の得点と第七席の件数を並べて、どちらが実態に近いか。そういう話が出ているそうです」
姉と自分の名が、評議の席で並んでいるのか。得点ではなく件数で。
「フィアさんが望んだことではないのはわかっています」
「わたしは何も言っていません」
「ええ。だからこそ——」
レオが口を閉じた。言葉が喉まで来て、飲み込まれた。
渡り廊下を秋の風が抜けていった。聖花はとうに散っていたが、甘い残り香だけが石壁に染みている。
「気になることがあれば伝えます」
記録管理棟のほうへ歩いていった。背が角を曲がるまで、フィアはそこに立っていた。
風が止まっていた。中庭の蔦だけが、乾いた音を立てている。
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午後の最後の患者を送り出してから、視察の若い神官を迎えた。
神官は治療室のなかを一巡した。棚の瓶を眺め、机の上の帳面に目を止めた。
「こちらが記録ですか」
「ええ。診た方のお名前と経過を書いています」
「五年分の」
「はい」
神官が帳面のそばに立ち止まった。
フィアは帳面を引き寄せた。表紙の上に手を置く。
「報告に記載いたします。ありがとうございました」
神官が一礼して出ていった。
帳面を開いた。今日の頁に、七つの新しい名前が並んでいる。
一つずつ、症状と日付を確かめた。背中の張り。足首の靭帯。肩の古傷。どの行にも同じ太さの文字が並んでいる。
頁をめくった。昨日の記録。その前の記録。百件目の名前。九十件目の名前。どれも自分しか読まない前提で書いたものだった。
五年分の名前が、同じ墨で、同じ手で並んでいる。朝から夕方まで、一人ずつ聞いて、一行ずつ書いた名前。
今日この部屋には、名前を伝えに来た者と、数字を確かめに来た者が、同じ扉から入ってきた。
蝋燭の炎が揺れた。窓のない部屋では、扉の隙間風だけが空気を動かす。
帳面を閉じた。留め金に指をかけたまま、しばらく手を離さなかった。
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東翼の入口のほうから、足音がした。
硬い靴底が石畳を打つ音。ルカの軽い足でも、レオの革底でもない。
ゆっくりと近づいてくる。
「第七席のフィア・ヴェルネイユ殿とお見受けする」
低く、よく通る声だった。
振り返った。
入口に人が立っていた。仕立てのいい法衣。銀糸ではなく、金糸の刺繍が襟から胸に走っている。蝋燭の灯りを受けて、その糸が鈍く光った。
候補生でも管理局でもなかった。
「少しお時間をいただきたい」
帳面の留め金が、掌の中でつめたく光っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話を書いている間ずっと、「見てもらう」ことの手触りについて考えていました。窓口の神官の態度が変わる。渡り廊下で祭祀官の目がこちらに留まる。視察の報告が求められる。どれも小さな変化なのに、フィアにとっては東翼の空気そのものが変わってしまう体験です。同じ廊下を同じ速さで歩いているのに、周りとの距離だけが違う。
帳面を閉じたまま留め金から手を離さない場面が、書いていて一番手が止まりました。五年間ずっとあの帳面は「自分だけのもの」だった。それが「報告に記載する」と言われた瞬間の手の動きに、言葉にできないものが全部入ったと思います。
最後の声の主が何者か、次話で明かされます。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




