香
聖教会評議員マティアスが東翼を訪れ、フィアと初めて対面する。曖昧な善意の裏で評議会の独自検証が始まろうとしていた。去った後、管理棟の窓に不自然な灯りが灯る。
焚きしめた香の匂いが、治療室の空気を染めていた。
入口に立つ人物の法衣から漂っている。
覚えのある香だった。あの夜——審査の間の窓から聖秤の明滅を覗いた帰り道に、暗い回廊を漂っていた匂い。あれからも、渡り廊下の角や東翼の石段の近くで何度かこの香の気配を拾った。振り返ったときには、いつも誰もいなかった。
今、その匂いの主が東翼の入口に立っている。
フィアは帳面の留め金から指を離した。
「どうぞ、お入りください」
人物が敷居を跨いだ。法衣の裾が石畳を引き、焚きしめた香がいっそう濃くなる。
「わたくしは聖教会評議会の評議員を務めるマティアス・リュバンと申す」
評議員。候補生の選抜を統べる教会の最高機関に席を持つ者が、東翼の治療室の敷居を越えている。
フィアは椅子から腰を浮かせかけた。
「そのままで構わない」
背筋を伸ばして座り直した。
「フィア・ヴェルネイユと申します」
「存じている。百四件の治療実績を持つ候補生だと聞いている」
マティアスは治療室のなかをゆっくりと見回した。
棚に並ぶ薬草の瓶。壁際の簡素な寝台。磨き減った机の角。天井は低く、窓はない。蝋燭のほかに灯りはなかった。
「思っていたより狭いな。ここで五年」
「患者様お一人を診るぶんには足りております」
フィアは治療用の椅子を示した。
「おかけになりますか」
「では失礼する」
マティアスが腰を下ろした。背は高かったが、椅子に座ると目の高さがフィアと揃った。棚の薬草の瓶がちょうどふたりの視線の間に並ぶ。
手は膝の上に置かれている。右手の中指にインクの染みがあった。書き物をする人の手だった。
「お忙しいところ恐縮だ。百四件の候補生にぜひ話を聞きたいと思っていた」
「何をお聞きになりたいのですか」
「まず、どのような患者を診ておられる」
「膝の痛みや咳の長引く方、火傷、捻挫が多いです。正廊の演示に立つような重い症例ではありませんが、治療を必要としている方がいらっしゃいます」
「治療はどのように行っている」
「患部に手を当てて、光を細く通します」
「細く。光量ではなく集束で、ということか」
治療の方法を知っている問い方だった。聖職貴族には治癒魔法の素養を持つ家が多い。
「はい。光を広く散らすと経路への負担が大きいので、患部に絞ったほうが戻りの早い方が多いです」
「正廊の壇上には」
「呼ばれたことはありません」
マティアスの視線が一瞬止まった。驚きなのか確認なのか、表情からは読めなかった。
「率直な方だ」
率直なつもりはなかった。聞かれたことに答えただけだった。
「五年のあいだ東翼で、正廊に立つこともなく。それでも治療を続けた理由は何だ」
答えに迷うような問いではなかった。
「目の前に患者がいたからです」
言ってから、あまりにも素朴な答えだと思った。だがそれ以外の言い方を知らなかった。
マティアスの顎がわずかに上がった。
「患者はどのようにして東翼を知る」
「以前は口づてでした。膝の方がお隣の方を連れてきてくださったり」
「今は」
「掲示のあとからは、数字を見て来られる方が増えています」
「その違いはあるか。口づてと掲示の」
フィアは少し考えた。
「口づてで来る方は治してほしいところが決まっています。掲示を見て来る方は、わたしのことを確かめに来る方が多いように思います」
「確かめに」
マティアスが顎を引いた。深く、ゆっくりとした頷き方だった。
「ヴェルネイユの名は評議の席でもよく聞く。お姉上は第一席でいらっしゃるね」
胸の底で何かが軋んだ。
顔には出さなかった。
「お姉様は立派な方です」
「九三七紋は見事だ。しかし件数との差に、議場でも声が出始めている」
レオからすでに聞いていたことだった。だが評議員の口から出ると、言葉の厚みが違う。
「お姉様と比べられることには慣れております」
マティアスの手がわずかに動いた。膝に置いた指が法衣の布を軽く押さえた。
「フィア殿。ひとつ伝えておきたいことがある」
声が低くなった。壁の向こうの気配を確かめるような一拍があった。
「評議会では聖秤の停止を受けて、候補生全員の実績を改めて見直す議論が始まっている。得点の記録だけでなく、治療の実態を含めた総合的な再評価だ」
「再評価、ですか」
「管理局の内部とは別に、評議会が独自に検証を行う方向だ。まだ正式な決定ではないが、流れはそちらに傾きつつある」
管理局とは別に。
聖秤を管理し、得点を記録し、集計を掲示してきた管理局。その外側から、別の目が入るということだった。
フィアの帳面にある名前と症状が、管理局の外の目に晒されるかもしれない。そのことが何を意味するのか、まだ掴みきれなかった。
「再評価の際、治療の記録は重要な参考になる」
マティアスの視線が、机の上に移った。
帳面。革の表紙。真鍮の留め金。五年ぶんの名前が綴じこまれた帳面。
「五年分の帳面があるそうだな。拝見することはできるだろうか」
穏やかな声だった。命令でも強制でもなく、ただ問うている。
フィアは帳面の表紙に掌を載せた。指が革の角を覆うかたちになった。
「これはわたしの記録です。見せるために書いたものではありません」
声が、自分でも思ったより真っ直ぐに出た。
「診た方のお名前と症状と日付を書いています。百四人だけではなく、五年間のすべてを」
「それほどの記録を、五年ものあいだ見る者もなく書き続けておられたのか」
やわらかい声だった。驚きなのか、労いなのか、あるいは値を測っているのか、フィアには分からなかった。
「忘れないために書いていました」
マティアスが黙った。
蝋燭の炎が揺れなかった。棚の奥で白樺の葉が瓶の底に沈んでいる。
「無理強いはしない」
マティアスが立ち上がった。椅子を元の位置に戻す仕草に無駄がなかった。
「だがフィア殿、記録は力になり得る。それだけは覚えておかれるとよい」
助言なのか打算なのか。フィアには見分けがつかなかった。
「近いうちにまた訪ねるかもしれない。治療の話をもう少し聞きたい」
戸口で一度足を止めた。
「東翼は静かだ。正廊の喧噪が嘘のようだな」
硬い靴底が石の廊下を叩いた。足音が遠ざかり、焚きしめた香の残り香だけが治療室に残された。
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帳面の表紙に、掌の温もりがまだ残っていた。
椅子から立とうとして、膝に力が入らないことに気づいた。気づかないうちに、身体がこわばっていた。
しばらくして、廊下の奥から軽い足音が近づいた。
「先生」
ルカが戸口に顔を出した。
「今、金糸の法衣の人が東翼から出ていくの見たっす。前に話した人じゃないっすか」
「ええ。少し話をしていました」
「大丈夫だったっすか」
「評議員の方でした。治療のことを聞きたいと」
ルカが目を丸くした。
「評議員が東翼に来るなんて初めてっすよ。俺がここ来てから一度もなかったっす」
「そうですね」
「帳面見せろとか言われなかったっすか」
フィアは一瞬だけ間を置いた。
「見せませんでした」
「やっぱ言ってきたんすね。先生は見せなかったんすね」
「わたしの記録ですから」
ルカが腕を組んだ。底板を磨く仕事でできた小さな傷が、少年の手の甲に幾筋も走っている。
「先生の帳面は先生のものっす。誰にも渡さなくていいっす」
「……ありがとう」
「偉い人がわざわざ来るときは裏があるって先輩が言ってたっす。気をつけてくださいっす」
「覚えておきます」
ルカが手を上げて廊下に出ていった。
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ひとりになった治療室に、焚きしめた香の匂いがまだ薄く残っている。
帳面を開いた。今日の頁には朝の患者の記録だけが並んでいる。マティアスのことを書く欄はなかった。患者ではないのだから、当然だった。
「記録は力になり得る」
帳面をつけ続けたのは力のためではなかった。忘れないために書いた。それだけだった。
マティアスの声には棘がなかった。だが棘がないことと善意であることは同じではない。
力。その言葉の色が、まだ読めなかった。
帳面を閉じて椅子から立ち、戸口に出た。
渡り廊下の向こうに管理棟の窓がある。
ふだんこの時刻には暗い窓に、灯りが灯っていた。
燭台がふたつ、奥の壁で揺れている。窓のそばを人影が横切った。書類を束ねた腕が見える。もうひとりが棚の奥から帳簿のような束を引き出していた。
この時刻に管理棟が動いているのを見たことはなかった。
渡り廊下の先、記録管理室のそばにレオの細い背が見えた。足を止めて、管理棟の窓を見つめている。
風が止んでいた。
焚きしめた香の最後のひと筋が、石の廊下を這うように薄れていく。管理棟の灯りだけが、秋の暮れのなかで揺れ続けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は「匂いで始まる再会」を書きたかった話です。フィアが聖秤の明滅を覗いた夜から何度も感じていたあの焚きしめた香——ついに持ち主の顔と名前がつきました。マティアスという人物を書いている間ずっと、彼が本当にフィアの味方なのか自分でもわからなくて、その不安がそのまま筆に乗ってしまった気がします。
帳面を見せてほしいと言われたときのフィアの手の動きが、書いていて一番しんどい場面でした。五年間ずっと自分だけのものだった帳面に、初めて誰かの手が伸びた。そのとき「見せるために書いたものではありません」と言い切れたこと自体が、ここまでの十四話のフィアだったから出た言葉だと思います。
管理棟の灯り、次話で少し踏み込みます。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




