空棚
記録保管室の棚に空きができていることにレオが気づく。管理局が帳簿の原本を動かし始めている。写しがあるからこそ分かる欠落。
朝の患者は肩の古傷を抱えた女だった。
三日前に初めて来た患者で、二度目の治療になる。光を通すと、前回よりも筋の深いところまで届いた。
「楽になります。腕が上がるようになりました」
「もう一度だけ来てください。それで引くと思います」
女が頭を下げて出ていった。帳面に経過を書き足す。肩の古傷。三度通院。次回で完了の見込み。
インクの蓋を閉めようとしたとき、廊下から足音がした。
レオの足音だった。革底が石を叩く間隔が、いつもより狭い。急いでいる。
「フィアさん」
戸口に立ったレオの顔は蒼かった。
「少し、お時間をいただけますか」
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治療室の扉を閉めた。
レオは椅子に座らず、棚の横に立っていた。声が低い。
「記録保管室の帳簿が動いています」
「動いている」
「昨日の昼、保管室に入ったときに気づきました。以前、わたしが内部帳簿を見つけた棚——三段目の左から四冊目のあたりに空きができている」
フィアの手が膝の上で止まった。
「空き、というのは」
「帳簿がなくなっています。十年分以上あった内部帳簿のうち、少なくとも三冊が棚から消えている。直近の五年分にあたる位置です」
直近五年。フィアたちの代の候補生の記録が綴じられた帳簿。
「わたしが写しを取ったのは、そのうちの一冊です」
レオの声が一段落ちた。
「写しがなければ、気づかなかった。棚の位置を覚えていたから、空きが目に入った」
レオは写しを取っていた。あの夜、記録管理室から持ち帰った候補生七人の五年分の得点一覧。フィアと共に読み解いた紙。姉の欄だけに書き直しの痕跡があった、あの写し。
その元になった原本が、棚から消えている。
「誰かが持ち出したということですか」
「管理局の者以外、保管室の鍵は持っていません。棚の位置も通常は記録管理の人間しか知りません」
「レオさんは知っていた」
「ええ。記録管理の下級神官として、棚の配置は頭に入っています。だからこそ空きが分かった」
フィアは帳面の角に指を当てた。革が指先に沿う。
「他にも動いている帳簿はありますか」
「今朝もう一度確かめました。五年分の三冊に加えて、その前の五年——つまり先代の候補生の記録も一冊抜けています」
「先代も」
「はい。合わせて四冊です」
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ふたりとも、しばらく黙った。
棚に並んでいた白い瓶が、蝋燭の灯りを受けて光っている。白樺の葉の匂いが治療室に薄く広がっていた。
「管理局が評議会の動きを知ったのだと思います」
レオの声は落ち着いていたが、指先が法衣の袖口を押さえていた。
「評議員が東翼を訪れたこと。独自の検証が始まること。それを察知して、帳簿を動かし始めた」
「隠すために」
「あるいは整理すると称して。ですが——」
レオの目が細くなった。
「わたしの手元に写しがあります。原本がなくなっても、写しに記されている数字は消えない」
フィアの指が帳面から離れた。
「写しには、姉の欄の書き直しの痕跡まで記録されていますか」
「重ね書きの跡は筆圧で残しました。元の数字が何であったかも、読み取れる範囲で書き写してあります」
レオが一つ息を吐いた。
「正直に言います。この写しを取ったとき、こういう事態を想定していたわけではありません。ただ、帳簿の数字がおかしいと思ったから、手元に残しておきたかっただけです」
「それで十分です」
フィアの声が静かに落ちた。
「数字がおかしいと思って書き写した。それは、わたしが患者の名前と症状を帳面に書き続けたのと同じです」
レオの手が袖口から離れた。
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昼前に、ルカが東翼の前を通りかかった。
「先生、聞いたっすか」
「何を」
「管理棟のほう、昨晩だけじゃなくて今朝も人が出入りしてるっす。荷車が裏口に停まってて、箱を運び出してたっす」
「箱」
「木の箱。帳面とか書類とか入れるような大きさの。二つ見たっす」
ルカの目が治療室の奥を覗いた。
「先生の帳面、ちゃんとここにあるっすか」
「ありますよ」
「よかった。管理棟のやつら、何か片づけてるっすよ。底板の夜間記録だってまだ管理棟にあるはずなのに」
「底板の記録」
「俺が点検のとき書いてた夜間報告書。あれも管理棟に提出してあったっす。異常なし、異常なし、って八年分ぐらい」
フィアは一つ息を止めた。
「その中にルカが異常を報告した分も」
「あるはずっす。ドレ管理官が『記録には残しておく』って言った回の報告書。あれは管理棟の控えに綴じてあるはずなのに」
ルカの声が小さくなった。
「もしあれが箱の中だったら——」
「まだわかりません」
「でも先生」
「まだわかりません。ただ——」
フィアは帳面の留め金に指をかけた。真鍮が冷たかった。
「レオさんが気づいてくれました。棚に空きができていることに」
「空き」
「記録保管室の帳簿が、四冊なくなっています」
ルカの顔が強張った。
「それ——消す気っすか。あいつら」
「わかりません。でも、写しがあります」
「写し」
「レオさんが取っていた帳簿の写し。原本が動いても、写しに書かれた数字は残っています」
ルカが口を閉じた。しばらくして、息を吐いた。
「先生の帳面と、レオさんの写し。紙に書いたものは消えないっすね」
「ええ」
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午後の患者を二人診た。足首の男の二度目と、新しく来た老人の膝の治療。
足首の男は腫れが引き始めていた。光を当てると靭帯の裂けが浅くなっている。あと一度で包帯も外せる。帳面に「快方。次回で完了」と書いた。
老人の膝は関節の奥に古い硬直があった。長年のものだった。無理に緩めず、三度に分けて光を通す方針を伝えた。
帳面に記録を書きながら、ペンの先が止まった。
記録保管室の帳簿が消えている。管理棟から箱が運び出されている。ルカの報告書も——あるべき場所にあるかどうか、まだ確かめられていない。
管理局は動き始めている。
マティアスの訪問が引き金だったのか。それとも評議会の再評価の噂が、管理局の中にまで届いたのか。
どちらにしても、帳簿が棚から消えたということは、誰かがそこに残しておけない理由があるということだった。
ペンを置いた。インクの蓋を閉めた。
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夕方、薬草の補充を取りに管理棟へ向かった。
窓口の前に立ったとき、奥の廊下を管理局の者が二人、足早に通り過ぎた。腕に書類の束を抱えている。
窓口の神官がフィアに薬草の包みを渡しながら、小さな声で言った。
「今日はお急ぎになったほうがよろしいかと。奥が少し立て込んでおりますので」
以前ならば、窓口の神官がフィアに声をかけること自体がなかった。今はこうして言葉をかけてくる。
「ありがとうございます」
管理棟を出た。渡り廊下を歩きながら、管理棟の窓に目をやった。昨晩と同じ位置に燭台の灯りがある。人影がふたつ、棚の前で動いていた。ひとりが帳簿の束を腕に抱え、もうひとりが棚の奥に手を差し入れている。
棚のものを出しているのか、入れ替えているのか。この距離では判別できなかった。
渡り廊下の途中で足を止めた。中庭の蔦が風に揺れて、窓の灯りを一瞬遮った。
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東翼に戻ると、戸口にレオが立っていた。
手に紙を一枚持っている。
「フィアさん」
「何かありましたか」
「今、記録管理室に回ってきた通達です。評議会から管理局宛。明後日の午前に、評議会の臨時招集が行われます」
臨時招集。
「議題は、聖秤停止にかかる候補生の実績再評価について」
マティアスが言っていた再評価の議論が、正式に席に上がる。
「候補生全員の記録の提出が求められています。管理局が保管している得点の控えと、治療実績の集計。それと——」
レオの声がわずかに詰まった。
「候補生自身が保持する記録がある場合、その自主的な提出も歓迎する、と」
フィアの手が、帳面を包むように動いた。
あの帳面。五年間、一人ずつ名前を書いてきた帳面。
マティアスの声が耳の底に残っている。「記録は力になり得る」。あのとき、この展開が見えていたのだろうか。
「フィアさん」
レオの目がまっすぐにこちらを見ていた。
「管理局の帳簿が棚から消えている今、原本の代わりになり得るものは二つです。わたしの写しと——フィアの帳面です」
風が渡り廊下を抜けた。
乾いた秋の空気が、東翼の入口から治療室の奥まで真っ直ぐに流れ込んだ。帳面の頁が一枚だけ、かすかに持ち上がって落ちた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
タイトルの「空棚」は、帳簿がなくなった棚の空白のことです。あるべきものがない、という静かな異変。レオが写しを取っていなければ、この空白に気づく人はいなかった。「おかしいと思ったから手元に残した」というレオの行動と、「忘れないために書いた」というフィアの帳面が、同じ場所に辿り着きつつあります。
管理局の箱、ルカの報告書、そして評議会の臨時招集。次話でいよいよ動きます。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




