席
評議会の臨時招集の朝。フィアは帳面を持って評議の間へ向かう決意をする。候補生全員が呼び出され、フィアは初めて正廊の奥、評議の間に足を踏み入れる。
明後日、と言われた朝が来た。
帳面は机の上にあった。留め金が蝋燭の残り火を受けて、鈍く光っている。
フィアは着替えを終えて椅子に座った。帳面に手を伸ばし、そのまま止まった。
評議会の臨時招集。候補生全員の出席が求められている。管理局が保管する得点の控えと治療実績の集計の提出。候補生自身が保持する記録があれば、自主的な提出を歓迎する。
レオの言葉が耳の底にある。「原本の代わりになり得るものは二つです。わたしの写しと——フィアさんの帳面です」。
マティアスの声も。「記録は力になり得る」。
帳面を持っていくのか。持っていかないのか。
自分のために書いた。見せるために書いたのではない。あの日マティアスにそう言い、今もそれは変わらない。
けれど。
帳簿の原本が棚から消えている。管理棟から箱が運び出されている。ルカの報告書も、ドレの「記録には残す」という言葉の控えも、あるべき場所にあるかどうかわからない。
数字が消されようとしている。五年分の名前と症状と日付が、誰かの手で無かったことにされようとしている。
帳面の留め金に指をかけた。
開いた。最初の頁。一年目の秋。膝の老婆の名前が、まだ慣れない字で記されている。
この名前を、無かったことにはさせない。
帳面を閉じた。両手で持ち上げ、膝の上に載せた。
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東翼の入口にレオが立っていた。
手に薄い紙の束を持っている。帳簿の写し。
「おはようございます、フィアさん」
「おはようございます」
レオの目が帳面に落ちた。何も言わなかった。小さく頷いただけだった。
「写しは」
「持ってきました。評議の場で求められれば提出します。求められなくても、棚が空であることは報告するつもりです」
渡り廊下に出た。秋の朝の空気が肌を刺す。蔦の葉はほとんど落ちて、石壁がむき出しになっていた。
東翼の裏手からルカが駆けてきた。麻の上衣の裾が風を受けている。
「先生、行くんすか」
「ええ」
「帳面、持っていくんすね」
「まだ出すかどうかは決めていません。持っていくだけです」
ルカが唇を引き結んだ。
「俺の名前も入ってるんすよね。あの帳面に」
「もちろん。火傷のところに」
「だったら——先生の帳面は嘘じゃないって、俺が証言できるっす。火傷を治してもらったのは俺なんすから」
フィアの足が止まった。
「ありがとう、ルカ」
「がんばってくださいっす」
ルカが頭を下げた。それから大聖堂のほうへ走っていった。底板の見回りがある時間だった。
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レオと並んで渡り廊下を歩いた。
「評議の間は正廊の奥です。入ったことは」
「ありません」
「わたしも、記録管理の報告で一度だけ。天井が高く、声がよく通ります」
渡り廊下を渡り切ると、正廊の入口が見えた。
石柱の間から朝の光が差し込んでいる。聖花はとうに散っていたが、石畳の隙間に花弁のかけらが残っていた。踏まないように足の置き場を選んだ。五年間の習慣だった。
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正廊を歩いた。
候補生の演示が行われていた壇上を横目に通り過ぎる。壇は空だった。幕が下ろされ、蝋燭台も片づけられている。聖秤が止まって以来、演示は行われていない。
壇の前を通るのは何度目だろう。いつもは薬草を抱えて足早に通り過ぎた。今日は帳面を抱えている。
正廊の奥に、もうひとつ扉があった。大きな樫の扉。鉄の蝶番が黒ずんでいる。
扉の前に候補生が五人並んでいた。
第二席から第六席。顔は知っている。名前を呼び合うような間柄ではなかった。
第六席の少女がこちらに気づいた。小さく会釈をした。フィアも頭を下げた。
姉はまだ来ていなかった。
「フィアさん」
レオが隣に立った。彼は下級神官として記録管理の立場で出席する。候補生の列には入らず、壁際に控える。
「何か言われたら——」
「大丈夫です」
候補生のひとりがこちらを見た。目が合って、逸れた。
廊下の奥から足音がした。
銀糸の儀礼服。亜麻色の髪が朝の光を受けて、金糸に近い色に透けている。
姉が歩いてきた。
背筋が真っ直ぐで、歩調に迷いがない。五年間ずっとそうだった。壇上に立つときも、回廊を歩くときも、姉の足は一度も揺れなかった。
フィアの前を通り過ぎようとして、足が止まった。
視線が一瞬、フィアの腕の中の帳面に落ちた。
革の表紙。真鍮の留め金。
姉の目が帳面からフィアの顔に上がった。何か言いかけたように唇が開きかけた。
けれど何も言わなかった。視線を前に戻して、列の先頭に立った。
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樫の扉が開いた。
評議の間は石造りの広い部屋だった。天井が高く、柱が四本、部屋の四隅に立っている。奥の壁に長い机があり、その向こうに六つの椅子が並んでいた。評議員の席。
中央の椅子にマティアス・リュバンが座っていた。金糸の法衣が石壁に映えている。右手の中指のインクの染みが、この距離でも見えた。
残りの五つの席にも評議員が座っている。法衣の刺繍が席ごとに異なっていたが、どれも金糸を含んでいた。
候補生は部屋の手前に横一列で立たされた。第一席から第七席の順。フィアは列の一番右端だった。
壁際にはレオのような記録管理の神官と、管理局の者が数人控えている。管理局の列の中に、ドレの白髪混じりの頭が見えた。
マティアスが立ち上がった。
「聖秤の機能停止を受け、教会評議会は候補生全員の治療実績を改めて検証することを決定した。本日は各候補生の記録を確認し、今後の審査方針を議論する」
石の壁に声が反響した。
「管理局には、保管している得点の控えと治療実績の集計の提出を求める」
管理局の列が動いた。ドレが列から身を起こした。
「得点の控えにつきましては、現在整理中でございます。本日の場には、集計のみお持ちしております」
マティアスの目がドレに向いた。
「控えの原本は」
「保管室に保管しておりますが、経年による劣化が進んでおりまして、移動の際に——」
「保管室の棚には空きができていると報告を受けている。直近十年分の帳簿のうち四冊が不在だと」
ドレの肩が一瞬上がった。声が平らに戻った。
「整理の過程で一時的に別の場所へ移しております。戻す予定でございます」
「戻す前にこの場で確認したい。いつ戻せる」
「……速やかに手配いたします」
マティアスは黙って頷いた。その沈黙が、ドレの「速やかに」の曖昧さを際立たせた。
評議員のひとりが口を開いた。
「管理官殿。集計の紙に記された第七席の治療件数、百四件。この数字の裏付けとなる原本が保管室にないとすれば、検証が成り立たない」
「裏付けは管理局の集計記録にもございます」
「その集計記録の元となった帳簿が不在であることを問うている」
ドレが黙った。
マティアスの視線がドレから候補生の列に移った。
「候補生自身が治療の記録を保持している場合、自主的な提出を歓迎する。強制ではない」
六人の候補生が微かに動いた。誰も進み出なかった。
フィアの腕の中で、帳面の重みが変わった気がした。
五年分の名前。五年分の症状と日付と経過。一人ずつ聞いて、一行ずつ書いた記録。
見せるために書いたのではない。
けれど、この記録を見せなければ、消された帳簿の代わりを出す者がいない。棚の空白が空白のまま閉じられる。三一二という数字の意味を問い直す手がかりが、ひとつ消える。
フィアは一歩前に出た。
「あります」
自分の声が、石の壁に跳ね返って耳に届いた。
評議員の目が一斉に動いた。候補生の列が揺れた。姉の横顔が、一瞬だけこちらに傾いた。
「第七席フィア・ヴェルネイユ。五年分の治療記録を持参しております」
帳面を両手で持ち上げた。革の表紙が、評議の間の高い天井から差す朝の光を受けた。
真鍮の留め金が光った。
フィアの手は震えていなかった。
マティアスが立ったまま、帳面を見た。
「五年分の記録、全患者の名前と症状を記したものか」
「はい。一年目から今日まで、診た方すべてを記録しています」
「提出していただけるか」
「お預けはしません。ここで、お読みになってください」
声が、自分でも思ったより落ち着いていた。帳面は渡さない。けれどこの場で読むことは許す。
マティアスの口元がわずかに動いた。頷きともつかない、かすかな変化だった。
「承った。閲覧の形で確認させていただく」
壁際から、レオが一歩前に出た。
「記録管理の下級神官レオと申します。保管室の帳簿について、報告がございます」
紙の束を持ち上げた。レオの手も、震えていなかった。
「保管室から消えた帳簿のうち一冊の写しを持っております。閲覧申請を経て合法的に取得し、個人で複写したものです」
管理局の列が動いた。ドレの目がレオに向いた。
レオはドレを見なかった。評議員の席に目を据えたまま立っていた。
フィアの腕の中で帳面が温まっていた。自分の体温が革に伝わっている。五年間の名前が、この部屋の空気の中に、ようやく息を吸い込もうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「見せるために書いたのではない」。ずっとそう言い続けてきたフィアが、ここで初めて自分から帳面を差し出す瞬間。書いていて手が止まりました。彼女が変わったのではなく、状況が帳面の意味を変えたのだと思います。「忘れないために書いた」記録が、「消されないための証拠」に変わる瞬間。
姉が帳面に一瞬だけ目を落として何も言わなかった場面は、次話で意味を持ちます。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




