報告
ルカの異常報告が管理官に退けられる場面をフィアが目撃し、帳面に書けなかった言葉が胸の底に残る。
声が二つ、石壁に跳ね返っていた。
一つは聞き覚えのある声だった。砕けた敬語の残る、少年の声。
フィアは記録管理室のある棟の角で足を止めた。朝の薬草の補充を取りに来たのだと、自分に言い聞かせた。
管理官ドレの執務室の扉が半分開いている。
その前に、麻の上衣の背中が見えた。ルカだった。
目の縁がうっすらと赤い。眠れなかったのだろう。
夜番の点検のあと、朝まで待って報告に来たのかもしれない。昨夜の回廊で交わした約束を、少年は一晩で果たしに来ていた。
「底板がまだ熱いんです。昨夜は三枚、素手では触れませんでした」
ルカの声が扉の向こうへ向かっていた。包帯を巻いた右手を身体の前に掲げている。
「聞いた」
低く平らな声が返った。羽根ペンが紙を走る音が混じっている。書き物を止めずに応じている。
「光もです。板が勝手に光るんす。夜だけ——白い冷たい光で、不規則に」
「残光だろう。審査の後はしばらく続く」
「残光じゃないっす。拍が揃わなくて、板ごとに点いたり消えたりして——」
「音もか」
「はいっす。金属が引っ張られるみたいな軋みが、ここ数日」
「古い装置は鳴るものだ」
「でも前はしなかった音っす。おれが見習いに入って二年、こんな音は——」
「二年か。私は八年だ。長く見ている者の判断を信じなさい」
管理官の声は穏やかだった。反論を許さない種類の穏やかさだった。
この棟の廊下は正廊より天井が低い。
書類を運ぶ下級神官が一人、フィアの背後を通り過ぎた。扉の前の少年に目を向ける者はいなかった。
「軋みは昼も出ているのか」
「夜が多いっす。昼は——わからないっす。昼は親方が見てるんで」
「親方からは何も上がっていない。昼間は異常なしだ」
椅子が軋んだ。扉の隙間から、机に向かった男の横顔がかすかに見えた。
白髪の混じったこめかみ。目は手元の書類から上がっていなかった。
「聖秤は二百年前に据えられた装置だ。底板が季節で温度を変えることは珍しくない。報告は受け取った。記録には残しておく」
「ですが——」
「今は戴聖の儀の準備が先だ。祭器の点検と清めだけで手が足りていない。異常の判断は管理官の仕事だよ。見習いの仕事は何だ」
「……点検と清掃っす」
「そうだ」
ルカの右手が太腿のそばで握られた。開いて、閉じて、また開いた。
「板の一枚一枚に候補生の記録が入ってるんすよね。もし壊れたら——」
「壊れない。先ほど言ったとおりだ」
「管理官様。底板に触ってみてもらえませんか」
声は小さく、けれどまっすぐだった。
扉の向こうで沈黙が落ちた。羽根ペンの音が止まった。
「見習い。私がこの席に八年いる間に、底板の異常で装置が止まったことは一度もない」
羽根ペンの音が再び始まった。
「ご苦労だった」
壁に添えていた指先が、知らず強く石を押していた。
ルカの肩から力が抜けるのが見えた。
「……失礼しましたっす」
扉が閉まった。
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ルカが振り返った。
目が合った。
フィアは角を曲がったところに立っていた。薬草を抱えたまま、壁に半分隠れるように。
隠れていたのではない。ただ足が動かなかった。
「先生」
ルカが近づいてきた。走らなかった。昨夜の軽い足取りはなかった。
「おはよう。火傷を見せてください」
ルカが右手を差し出した。包帯の下、指の動きは昨夜より滑らかだった。赤みは落ち着いている。
「軟膏をもう一日塗ってください。明日の朝には布を外して大丈夫です」
「ありがとうございますっす」
ルカは手を引いた。視線が一度、閉ざされた扉に戻った。
「古い装置はこういうもんだって言われたっす。触りもしないで」
フィアは黙っていた。候補生が管理官の判断に口を挟む立場ではなかった。
「報告書も書いたんす。字はあんまり得意じゃないっすけど、口で言うだけだと伝わらないと思って」
「清書したんですか」
「三回書き直したっす。温度と、光の回数と、軋みの時間帯を分けて——自分で読み返して間違いないか確かめたっす」
ルカが上衣の内側から折り畳んだ紙を取り出しかけて、また戻した。受け取ってはもらえたらしい。読まれたかどうかは、わからない。
「先生。あの板、壊れると思うっすか」
少年の目がまっすぐだった。底板の熱を最初に手で受け止めた少年の目だった。
「わたしにはわかりません」
嘘ではなかった。壊れるかどうかは、まだ誰にもわからない。
「でも、報告したことは正しかったと思います」
自分の声に驚いた。候補生が口を挟むことではなかった。なのに言葉が先に出ていた。
「手が熱くなったら無理に磨かないで。東翼に来てくれれば診ますから」
「はいっす」
ルカが頭を下げた。走り去る足音は昨夜よりわずかに重かった。
角を曲がって消えた。
廊下に、薬草の匂いとフィアの呼吸だけが残った。
閉ざされた扉の向こうから、羽根ペンが紙を走る音が続いている。報告の前も後も、変わらない速さで。
足元から、かすかに冷えた残り香が立ちのぼった。
焚きしめた香。あの夜、回廊の暗がりで背後に立っていた何者かと同じ種類の匂いだった。
うなじの産毛がひとりでに逆立った。
振り返った。朝の光が石壁を白く照らしている。
廊下に人の姿はなかった。匂いだけが、石畳の冷たさに混じって漂っていた。
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渡り廊下を東翼へ歩いた。
中庭を渡る秋の朝風が頬に冷たかった。白い息がかすかに漂って、すぐ消えた。
「おはようございます」
レオの声だった。管理室のほうから歩いてきたらしい。栗色の前髪が額に垂れている。
「もう薬草を取りに行かれたんですか。午後にお持ちするつもりでしたが」
「朝のうちにと思いまして」
「少し顔色がよくないですが——お加減は」
「平気です。朝風に当たっただけ」
「そうでしたか。咳の方は今日もいらっしゃいますか」
「午前に見える予定です」
「何かあればいつでも」
「レオ。この棟に用事ですか」
「書類を一つ届けるだけです。すぐ戻ります」
レオが頷き、管理棟のほうへ歩いていった。
フィアは一歩踏み出しかけて止まった。
その棟の方角——レオがあの扉の前を通ることを、一瞬だけ考えた。
考えただけで、声にはしなかった。
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東翼の治療室に入った。
天井の低い部屋に、通気口から冷たい空気が流れている。窓のない部屋。五年間変わらない薬草の匂いが壁に染みついていた。
薬棚に補充分を並べ直した。瓶の蓋を一つずつ確かめ、古い束を手前に出す。
包帯の替えを机に出した。ルカの分だった。来なくていい。来てくれたほうが安心できた。
軟膏の壺を開けて残りを確かめた。明日の分は足りる。
帳面を開いた。
最後の記録の下に、今日の日付を書き入れた。
ルカ。火傷(右手甲、経過良好。軟膏継続)。
筆が止まった。
記録には残しておく——管理官の声が耳の底に残っている。
記録に残す。底板の熱は季節のものだ。二百年の装置に問題はない。管理官がそう言えば、そうなる。
あの羽根ペンは、報告の間もほとんど止まらなかった。ルカが「触ってみてほしい」と言った一瞬だけだった。
少年は素手で底板に触った。管理官は触っていない。
触れた者と触れない者のどちらの言葉が正しいのか。正しいという言い方が合うのかどうかさえ、わからなかった。
ペン先が紙の上に留まっていた。インクがじわりと広がっている。
帳面の頁を、指で遡った。
一年目の余白に自分が書き留めた数字がある。三一二。
患者の名前と症状と経過だけを、五年間書き続けてきた帳面だった。
革の角が丸く擦り減っている。一年目には角が立っていた表紙が、五年分の手垢を吸って柔らかくなっていた。
一度もそれ以外のことを書いたことはなかった。
ペン先がかすかに動いた。
——書きたかった。患者の記録ではないものを。
底板の熱。明滅。管理官の返答。聞いてもらえなかった少年の声と、五年間動かなかった三一二。
ばらばらの欠片だった。帳面に並べたからといって何かが見えるとは限らない。けれど並べなければ、見えないままだ。
それでも——。
——書かなかった。
候補生が書くことではなかった。管理官の判断に異を唱える権限も、装置の異常を証明する手段も、フィアにはなかった。
ペン先を布で拭った。
帳面を閉じた。いつもと同じ手つきだった。
ただ、手の中で革表紙の重さがほんのわずかに変わった気がした。
中身が増えたのではない。書かなかった言葉の分だけ、表紙が硬く感じた。
——このままで、いいのだろうか。
声にならなかった。問いの形にさえなっていなかった。
胸の底で、ずっと同じ場所に沈んでいた何かが、かすかに向きを変えた気配だけがあった。
通気口から風が入った。もうすぐ咳の男が来る。
帳面は机の上で閉じられたまま、残りの白い頁を内側に抱えていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
管理官の「記録には残しておく」が、書いていていちばん怖い台詞でした。受け取って、しまい込んで、忘れる。嘘ではないけれど誰の手にも届かない場所に沈む言葉です。
フィアがルカの報告を聞きながら動けなかった理由をずっと考えていました。隠れていたのではない、ただ動けなかった。この子は自分にとって大切なのだと身体のどこかで知っていたのだと思います。五年間、壁越しに聞こえるものを聞き流す側にいた子が、初めて「聞きたくて」足を止めた朝でした。
帳面に患者以外のことを書きかけて止めた場面は、フィアにとって小さいけれど初めてのことです。書かなかった。でも書きたかった。その差がこのアークの着地点でした。
アーク1「最下位編」はこの第七話で幕を閉じます。次アーク「機能停止編」で、帳面の記録と聖秤の記録が交差するとき——。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




