↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
万年最下位だった聖女候補、5年目にして採点システムそのものが壊れていたと気づく  作者: 雨宮 彩月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/23

明滅

技師見習いの少年が夜の東翼に駆け込む。少年の言葉に導かれ、フィアは初めて自分の足で聖秤の異変を確かめに行く。

 走る音が、東翼の廊下の奥から近づいてきた。


 軽い。重さの足りない、子供の靴底だった。


 姉が東翼を訪れた夕刻から数日が経っていた。夜ごとに石壁は冷えを深めている。


 フィアは帳面を閉じかけた手を止めた。


「すみません、誰かいますかっ」


 扉が勢いよく開いた。息を切らした少年が立っている。


 十二、三の背丈。大聖堂の下働きが着る麻の上衣から、片腕だけ袖を捲り上げていた。


 右手を胸の前に抱えている。手の甲に四角い赤みが浮いていた。底板の角に沿って焼けた形だった。


「火傷ですね。座ってください」


 少年は椅子に腰を下ろした。差し出した右手が小刻みに震えている。


「名前を教えてもらえますか」


「ルカっす。大聖堂の技師見習いです」


「ルカ。何に触りましたか」


「聖秤の底板っす。夜の点検で板を磨く仕事をしてて——今夜は素手じゃ触れないくらい熱くて」


 フィアの手が一瞬止まった。


 聖秤。治癒行為を計り、候補生の得点を透明な板に刻む装置。


 あの底板が、少年の手を焼くほどの熱を持っている。得点を刻む装置が熱を発するなど、聞いたことがなかった。


 水差しから布に水を含ませ、少年の手の甲にそっと当てた。皮膚の熱が布越しに指へ伝わる。


 指先からかすかに光を通した。乳白色の淡い光が赤みの縁をなぞる。


 火傷は浅い。底板の形どおりに焼けた痕は、装置に直に触れた証だった。


「いつ頃からですか」


「五、六日前からっす。最初はほんのり温かいくらいだったんすけど」


「今夜が初めてではないのですね」


「おとといも赤くなったっす。でも今夜はもっとひどくて——板に手を置いた瞬間、がりって熱が跳ねたみたいに」


 フィアは布を替えた。冷たい水が少年の指の間を流れ、赤みの縁をなぞっていく。


 初日は温かいだけだったのが、日を追うごとに熱を増している。装置の異常は、まだ止まっていない。


「音は前からしていましたか」


「ここ数日っす。がりって——金属が引っ張られるみたいな。前はしなかった音です」


 同じ音だった。壁越しに、天井越しに、四度聞いてきた音。この少年も聞いていた。


「親方には伝えましたか」


「言ったっす。でも古い装置はたまに鳴るもんだって」


「管理官には」


「見習いじゃ聞いてもらえないんで。明日の朝に改めて——って思ってるんすけど」


 少年が顔を上げた。


「先生は聖秤のこと知ってるんすか」


「……候補生ですから。名前くらいは」


「あ——っす。すみません。東翼は初めてで」


「ここに来たのはなぜですか」


「管理室が閉まってて。東翼の灯りが見えたんで……正廊には行きにくくて」


「よく来てくれました」


 軟膏を薄く塗り、布で巻いた。水疱にはなっていない。


 ルカの手が震えを止めていた。包帯を巻く間に落ち着いたのだろう。


「大丈夫です。明日もう一度見せに来てください」


「ありがとうございますっす」


 少年が立ち上がった。フィアの肩にようやく届くくらいの背丈だった。


 夜の廊下をちらりと見て、わずかに肩が縮む。


「送ります」


「え、いいんすか」


「夜は暗いので」


 薬棚の鍵を閉め、手燭に火を移した。


 低い天井に炎の影が揺れた。薬草の匂いが籠もった部屋を出ると、廊下の冷気が頬を叩く。


 並んで歩く。少年の歩幅は短く、二歩に一度フィアを見上げる。


 秋の夜気が石壁の隙間から流れ込み、手燭の炎がかすかに痩せた。


 吐く息がうっすらと白い。戴聖の儀まであと二月もないのだと、冷えた空気が肌に告げている。


「ルカ。聖秤の点検はいつも夜に」


「昼は親方がやるんすけど、夜の磨きは見習いの仕事で。底板は埃がつきやすいんです」


「板に光が見えたことはありますか」


「紋のことっすか。昼間は透明な板の中に光の線みたいなのが見えるっす。得点を刻むやつ」


「夜はどうですか」


「普段は暗いっす。灯りがないんで。でもここ数日は板だけ勝手に光るんです。ぱっ、ぱって」


「光の色は」


「白っす。蝋燭みたいじゃなくて——もっと冷たい感じの白」


「他の見習いは知っていますか」


「夜番の奴は気づいてるかも。でも誰も管理官様に直接は……見習いだと、なかなか」


「底板が熱いのは七枚ともですか」


「全部じゃないっす。二枚か三枚で——でもどの板かは夜ごとに違うんです」


 フィアは少しだけ歩みを緩めた。


 熱を持つ板が固定されていない。壊れかけの装置なら、決まった箇所が壊れるはずだった。


 渡り廊下を抜けた。中庭に面した柱の間を夜風が横切っていく。


 大聖堂の外廊に出ると、石の冷たさが靴底から這い上がってきた。


「ここで大丈夫っす。技師の部屋はこの先なんで」


 少年が手燭の光に顔を上げた。治療を受ける前より、声がどこかほぐれている。


「ルカ。管理官に報告するとき、底板の熱のことも忘れずに」


「はいっす。ちゃんと伝えます」


「お大事に」


「おやすみなさいっす」


 少年が小走りに角を曲がった。軽い足音が遠ざかり、夜に溶けていく。


 ルカの包帯を巻いた右手が、暗がりに白く揺れて消えた。


 角の向こうで足音が途切れた。石の廊下に、手燭の炎が揺れる音だけが残った。


---


 ひとりになった。


 廊下の暗がりが、少年の足音があった場所をすぐに埋めた。


 帰ればいい。東翼に戻って、鍵を閉めて、眠ればいい。明日も患者が来る。


 足が、そちらに向かなかった。


 ——聖秤の。


 姉が飲み込んだ言葉。言いかけて止めたあの声が、まだ耳の底にある。あの夕刻、続きを訊かなかった。


 少年の手の甲の熱。底板が素手で触れないほど焼けていた。


 四度の軋み音。壁越しに聞いて、数えて、それでもどこかで別のものだと思おうとしていた。


 冷えた石畳を踏む足裏の感覚が、靴の薄さごしに冬の近さを伝えている。


 足が動いていた。東翼とは反対の方角。審査の間のある回廊へ。


 回廊の窓は高い位置にあった。石壁に嵌め込まれた細い採光窓。


 手燭を足元に置いた。炎が石畳の上で小さく揺れている。


 窓枠に指をかけ、爪先を立てた。


 冷えた石の縁が、指の腹に食い込む。目が暗がりに慣れるのを待った。


 見えた。


 審査の間。灯りのない暗がりの中央に、聖秤が据えられている。


 広い部屋だった。正廊の礼拝堂に並ぶほどの奥行きがある。


 天井は闇に溶けて見えない。窓の高さからして、三階分は優にあった。


 その石床のちょうど中央に、透明な板が七枚、弧を描いて立ち並んでいた。


 一枚はフィアの背丈ほどもあり、掌ふたつ分の幅で候補生ひとりにつき一枚。弧の中心に立てば七枚すべてが一望できる。五年分の得点を刻み続けた装置が、暗がりの中に冷たく佇んでいた。


 ——光っていた。


 板の一枚がうっすらと白い光を帯びた。揺らいで消え、間を置かず別の板が短く灯る。


 明滅。不規則だった。


 蝋燭の反射ではない。灯りのない部屋で、板そのものが光を放っている。


 昼は見えないはずの紋が、闇の中でひとりでに動いている。


 灯り、消え、灯る。三拍で消えた。


 次の板が灯る。一拍、二拍、三——四拍。消えた。


 また。一拍。消える。


 数えていた。意識するより先に、指が窓枠の上で拍を刻んでいた。


 五年間、患者の脈を数え、症例の日数を書き留め、薬草の配分を量ってきた指が。


 三。四。一。二。三。一。


「三……四」


 声が漏れていた。数える癖が唇を動かしたのだと、遅れて気づいた。


 次の板。また三。別の板が一度だけ閃き、すぐ消えた。


 間隔が揃わない。規則があるようで、ない。壊れた脈のように、明滅は繰り返すたびに揺らぎ、崩れていく。


 ——五年前、この装置は公正だと聞かされた。人の手は加わらない、と。


 その装置が夜ごと光り、底板が触れないほどの熱を発し、軋みを上げている。


 三一二。五年。帳面の中で動き続けた患者の数と、掲示の上で一桁も動かなかった得点。


 動く光を数える指が、あの動かない数字を引き寄せた。


 窓枠を握る指の関節が白い。息が、止まっていた。


 指が止まった。窓枠の上で、最後の拍を刻み損ねたまま。


 ——まだ、何もわからない。


 明滅が途切れた。


 七枚の板が一斉に暗くなる。


 静寂が回廊の石壁を満たした。冷たく、密に、フィアの吐く息さえ吸い込むような重さだった。


 ふくらはぎが震えていた。いつから爪先立ちを続けていたか、わからなかった。


---


 背後で、靴底が石畳を擦った。


 息を詰めた。空気が動いた。焚きしめた香の冷えた残り香だった。


 足音ではなかった。立ち止まっていた者が、身を引く音。


 振り返った。


 心臓が喉の奥で一度だけ強く打った。


 回廊の奥に影があった。暗がりに溶けかけた法衣の裾が、一度だけ揺れた。


 影は柱の向こうに消えた。足音はしなかった。消えるのが慣れた者の動きだった。


 追わなかった。追う根拠が、まだ言葉にならなかった。


 けれど背中を向けたとき、首筋がまだざわついていた。


 立っていた場所はわかる。窓の前——フィアが聖秤を覗いていた位置の、真後ろだった。


 覗いていたのはフィアだけではない。あの影は、フィアが何を見ていたか知っている。


 手燭を拾い上げた。


 芯が指の幅ほどに縮んでいた。ルカを送り出したときよりずいぶん短い。残った灯がかろうじて足元を照らしていた。


 回廊の窓の向こう。聖秤の板は暗いまま、何ひとつ映さずに沈んでいた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


フィアがようやく自分の足で動いた夜です。四度の軋み音を聞きながらずっと知らないふりをしてきた子が、見習いの少年の火傷した手を見て——帰ればいいと思いながら帰れなかった。これがこの子の動き方だと思います。


少年ルカの名前は「光」を語源に持つ名から取りました。聖秤の底板の熱を身体で最初に受け止めた子が、フィアに異変を伝える。この偶然の配置が書いていて不思議でした。


明滅の拍を数える場面を書いているとき、フィアの指が勝手に動き始めて驚きました。この子は数えることをやめられないんですね。患者の脈も、帳面の日数も、壊れかけた装置の鼓動も。


次話、朝の大聖堂。

ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。