指先
掲示から数日後の夕刻、姉が供も連れず東翼の治療室を訪れる。差し出された右手の冷たさに、フィアは言葉にならないものを掴みかける。
足音が、違った。
患者の足ではない。杖をつく老婆でもなく、咳の男の靴底でもなかった。
東翼の廊下は石壁が厚い。正廊の賑わいは壁越しにも届かず、この奥まで来る者は患者か、レオか——それだけだった。
フィアは薬棚の硝子瓶を拭く手を止めた。
夕刻だった。最後の患者を送り出し、蝋燭を一本足したところだった。
足音が扉の前で止まり、一拍おいて——叩かれもせずに開いた。
「——あら。まだいたのね」
銀糸の儀礼服が、薬草の匂いの中に踏み入ってきた。
姉だった。供の姿がない。
なぜ今、ひとりで——。
「お姉様」
「急に来てごめんなさいね」
「……いえ。どうされましたか」
「少し見てもらえないかしら。右手の調子がよくなくて」
通りかかる場所ではなかった。東翼は正廊から最も遠い棟だった。
「どうぞ、座ってください」
フィアは患者用の椅子を手で示した。
姉が腰を下ろす。天井の低い部屋を見回した。
「窓がないのね」
「ええ。でも治療には差し支えません」
「暗いとは思わないの」
「慣れました」
「そう」
「身体には気をつけなさいね」
姉の視線が壁に並ぶ硝子瓶を辿った。
「ここはいつも薬草の匂いがするのね」
「壁に染みついてしまっていますから」
「あなたの袖にも。回廊で会うたびに思っていたわ」
「……すみません」
「謝ることではないの。嫌いな匂いではないわ」
「……ありがとうございます」
「五年、ずっとこの部屋だったの」
「はい。午前に治療が入ることが多くて」
「わたくしは、この棟に一度も来たことがなかったわ」
姉の声が静かだった。
「……普通は来ませんから」
「どんな方がいらっしゃるの」
「膝の悪いおばあさんと咳の治りきらない方が、いまは通ってくださっています」
「繰り返し来る方が多いのね」
「治るまでは。それが東翼のやり方ですから」
「正廊には来られない方たちね」
「はい。でも、治りたい気持ちは同じです」
姉が小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。
「この方たちには、あなたがいてよかったのね」
「……ここしかありませんから」
「それでは、右手を」
「ただの疲れよ。光の通りが少し悪くて」
姉が右手を差し出した。
金色の治癒の光を放つ手。壇上で大聖堂の天井まで照らした手だった。
「失礼します」
フィアはその手を受け取った。
冷たかった。
指先に温度がない。審査の間で襟を直してくれたときと同じ冷たさだった。
あのとき不思議に思った冷えの正体が、掌の下でゆっくりと形になっていく。
乳白色の光をゆっくりと通した。
枯れていた。
魔力の経路が細り、末端まで届いていない。搾り続けた痕だった。
フィアの指先が強張った。息が止まる。
九三七紋——大聖堂の天井まで届く光量を搾り出した手が、ここまで冷えている。
経路がただ細いのではなかった。使い尽くされている。光量で押し通す治癒を重ねれば、こうなる。閉じかけた末端は、一度失えば戻らない。
毎日、膝の老婆の関節を、咳の男の肺奥を、同じ光で辿ってきた指が——それを知っていた。
喉が締まった。
口には出さなかった。膝の老婆にも咳の男にも、経路の異常ならその場で伝える。そうしてきた。
けれどここで告げたら、姉は席を立つ。一度立ったら、もうこの部屋には来ない。
「少しほぐしますね」
「お願いするわ」
指先から光を送り、詰まりをゆっくりと開いていく。光を細く絞り、詰まった箇所にそっと押し当てる。
焦らず、ほどくように。膝の老婆の関節で何度も繰り返した手つきだった。
細い指だった。光に透ける爪の形が、自分のものとよく似ていた。
——あのころ、この指でお互いの三つ編みを結ぼうとした。
記憶が不意に上ってきた。どちらも下手で、結び目がほどけるたびに笑い合った。
互いの指が毛束のなかで絡まって、引き抜くたびにくすぐったかった。
姉の髪はまだフィアに近い色で、区別がつかなくなった朝もあった。絡まった毛先を梳くときの、指から抜ける柔らかさ。顔を寄せ合って転がした笑い声。あの頃は髪の色も、笑う声の高さも、まだ同じだった。
指先に伝わる脈が、自分と同じ速さだった。
同じ家に生まれ、同じ候補に選ばれた。けれど辿った場所はこんなにも違う。
嫌いになれたら楽だった。あの数字を見ても、微笑みを見ても、嫌いになりきれない自分がいちばん厄介だった。
「……丁寧ね。集束がきれいだわ」
「同じことの繰り返しです」
「繰り返すだけでは、こうはならないわ」
姉がフィアの指先を見つめていた。
「わたくしは光量はあるけれど集束が粗いの。あなたの手は逆ね」
「光量がないだけです」
「そう受け取るの。いつも」
フィアは答えず、光の手を動かし続けた。
姉の指先に温もりが戻り始めている。
「ここは静かね」
「正廊の音は届きませんから」
「それがいいの」
姉の声から、澄んだ通りのよさがほんのわずか溶けた。
間が落ちた。
「正廊はいつも誰かが見ているでしょう。ここなら——少し、息がつける」
フィアの手が止まりかけた。
息がつける。正廊の第一席が、東翼で。
窓のない、薬草の匂いが染みついた、天井の低いこの部屋で。
「もう大丈夫です。しばらくは光を使いすぎないでください」
「ありがとう」
「指が温かいのね」
「お姉様の手が冷えすぎていただけです」
姉が手を引き、右手を開いたり閉じたりした。
「楽になったわ。ここに来てよかった」
「無理をなさらないでください。戴聖の儀の前は練習もおありでしょう」
「あら、知っていたの」
「冬至に行われると伺いました」
「ええ。結果が掲示されたあと、冬至の日に。もう二月もないわね」
聖女として正式に認められる儀式。掲示された数字が、そこに立つ者を示していた。
「お姉様がお立ちになるのでしょう」
「……それは、わたくしが決めることではないわ」
謙遜とも本音とも取れる声だった。
姉が自分の右手を撫でた。楽になった指先を確かめるように。その仕草に、正廊では見たことのない柔らかさがあった。
「聖秤の——」
姉が口を開きかけた。
フィアの心臓が跳ねた。
聖秤。あの装置の名が姉の口から出かけている。
けれど姉は続けなかった。視線がかすかに揺れ、唇が閉じ直された。
「……ごめんなさいね。なんでもないの」
フィアも訊かなかった。
訊いてしまえば何かが動き出す。知りたいのか知りたくないのか、自分でもわからなかった。
姉が椅子から立ち上がった。
「急に押しかけてしまったわね」
「いえ」
「また来てもいいかしら。ここは……落ち着くの」
「……いつでも」
自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。返事ではなく、願いに近かった。
姉が扉のほうへ歩いた。把手に手をかけたところで、振り返った。
「——三つ編み、上手になった?」
フィアの視界が滲んだ。
姉の口元が崩れた。くしゃりと。あの笑い方だった。
編み目がほどけるたびに顔を見合わせた、幼いころの——もう何年も見ていなかった顔。
フィアの目が止まった。瞬きを堪えた。この顔を、覚えていたい。
何か言わなければ。言葉を探した。
けれど姉の頬にはもう、いつもの微笑みが戻っている。銀糸の裾が翻った。
「お姉——」
呼びかけは扉が閉まる音に飲まれた。
足音が遠ざかる。迷いのない歩みで、正廊のほうへ。
来たときと同じ速さだった。迷いは足音には出ない人だった。
---
治療室に沈黙が降りた。重く、ゆっくりと。
フィアは自分の右手を見つめた。掌にまだ姉の指の冷たさが残っている。
あの冷たさの奥にあったもの。細く痩せた経路。使い尽くされた末端。
——知っているのだろうか。この手の持ち主は。
椅子に手を触れた。座面にかすかな温もり。姉がここにいた証だった。
指先で温もりの輪郭を辿った。掌ごと覆ってしまいたかった。
けれど強く触れるほど薄れていく。近づきたいのに、近づくと消える。五年間、ずっとそうだった。
そっと指を離した。
さっきまでこの椅子にいた人は、もう正廊の光の中にいるのだろう。
何を言いかけたのだろう。聖秤の——。
あの人の微笑みの下に何があるのか。五年かけても、分からなかった。
三つ編み、上手になった。
——なっていない。いまでも不器用だった。姉の前では、ずっと。
薬棚の硝子瓶に、金色の粒子がわずかに留まっていた。姉の光が落としていったもの。
大聖堂の方角から、かすかな震えが耳の底を掠めた。金属を引き絞るような音。
前の夜。壇上。数日前の暗い部屋。三度、あの震えを聞いた。
四度目の、聖秤の音だった。
硝子瓶の金色が、ひと粒、またひと粒と暗がりに溶けていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
姉の右手の冷たさを書くとき、ずっと迷っていました。九三七紋の光を放つ手がなぜこんなに冷えているのか——フィアは診た瞬間にわかってしまう。毎日患者の経路を辿っている子だから。わかるのに言えない。言ったらもう来てくれないから。このジレンマが、書いていていちばん苦しかったところです。
「三つ編み、上手になった?」は最初の構想にはなかった台詞です。姉が振り返った瞬間にぽろっと出てきて、あのくしゃりとした笑い方を戻すか戻さないか——何度も書き直しましたが、一瞬だけ見せて消すのがこの姉だと思います。
最後の金色の粒子が消えていく描写は、姉の来訪そのものの映し鏡でもあります。来て、一瞬だけ光を落として、消えていく。
次話、夜の大聖堂。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




