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万年最下位だった聖女候補、5年目にして採点システムそのものが壊れていたと気づく  作者: 雨宮 彩月


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5/25

指先

掲示から数日後の夕刻、姉が供も連れず東翼の治療室を訪れる。差し出された右手の冷たさに、フィアは言葉にならないものを掴みかける。

 足音が、違った。


 患者の足ではない。杖をつく老婆でもなく、咳の男の靴底でもなかった。


 東翼の廊下は石壁が厚い。正廊の賑わいは壁越しにも届かず、この奥まで来る者は患者か、レオか——それだけだった。


 フィアは薬棚の硝子瓶を拭く手を止めた。


 夕刻だった。最後の患者を送り出し、蝋燭を一本足したところだった。


 足音が扉の前で止まり、一拍おいて——叩かれもせずに開いた。


「——あら。まだいたのね」


 銀糸の儀礼服が、薬草の匂いの中に踏み入ってきた。


 姉だった。供の姿がない。


 なぜ今、ひとりで——。


「お姉様」


「急に来てごめんなさいね」


「……いえ。どうされましたか」


「少し見てもらえないかしら。右手の調子がよくなくて」


 通りかかる場所ではなかった。東翼は正廊から最も遠い棟だった。


「どうぞ、座ってください」


 フィアは患者用の椅子を手で示した。


 姉が腰を下ろす。天井の低い部屋を見回した。


「窓がないのね」


「ええ。でも治療には差し支えません」


「暗いとは思わないの」


「慣れました」


「そう」


「身体には気をつけなさいね」


 姉の視線が壁に並ぶ硝子瓶を辿った。


「ここはいつも薬草の匂いがするのね」


「壁に染みついてしまっていますから」


「あなたの袖にも。回廊で会うたびに思っていたわ」


「……すみません」


「謝ることではないの。嫌いな匂いではないわ」


「……ありがとうございます」


「五年、ずっとこの部屋だったの」


「はい。午前に治療が入ることが多くて」


「わたくしは、この棟に一度も来たことがなかったわ」


 姉の声が静かだった。


「……普通は来ませんから」


「どんな方がいらっしゃるの」


「膝の悪いおばあさんと咳の治りきらない方が、いまは通ってくださっています」


「繰り返し来る方が多いのね」


「治るまでは。それが東翼のやり方ですから」


「正廊には来られない方たちね」


「はい。でも、治りたい気持ちは同じです」


 姉が小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。


「この方たちには、あなたがいてよかったのね」


「……ここしかありませんから」


「それでは、右手を」


「ただの疲れよ。光の通りが少し悪くて」


 姉が右手を差し出した。


 金色の治癒の光を放つ手。壇上で大聖堂の天井まで照らした手だった。


「失礼します」


 フィアはその手を受け取った。


 冷たかった。


 指先に温度がない。審査の間で襟を直してくれたときと同じ冷たさだった。


 あのとき不思議に思った冷えの正体が、掌の下でゆっくりと形になっていく。


 乳白色の光をゆっくりと通した。


 枯れていた。


 魔力の経路が細り、末端まで届いていない。搾り続けた痕だった。


 フィアの指先が強張った。息が止まる。


 九三七紋——大聖堂の天井まで届く光量を搾り出した手が、ここまで冷えている。


 経路がただ細いのではなかった。使い尽くされている。光量で押し通す治癒を重ねれば、こうなる。閉じかけた末端は、一度失えば戻らない。


 毎日、膝の老婆の関節を、咳の男の肺奥を、同じ光で辿ってきた指が——それを知っていた。


 喉が締まった。


 口には出さなかった。膝の老婆にも咳の男にも、経路の異常ならその場で伝える。そうしてきた。


 けれどここで告げたら、姉は席を立つ。一度立ったら、もうこの部屋には来ない。


「少しほぐしますね」


「お願いするわ」


 指先から光を送り、詰まりをゆっくりと開いていく。光を細く絞り、詰まった箇所にそっと押し当てる。


 焦らず、ほどくように。膝の老婆の関節で何度も繰り返した手つきだった。


 細い指だった。光に透ける爪の形が、自分のものとよく似ていた。


 ——あのころ、この指でお互いの三つ編みを結ぼうとした。


 記憶が不意に上ってきた。どちらも下手で、結び目がほどけるたびに笑い合った。


 互いの指が毛束のなかで絡まって、引き抜くたびにくすぐったかった。


 姉の髪はまだフィアに近い色で、区別がつかなくなった朝もあった。絡まった毛先を梳くときの、指から抜ける柔らかさ。顔を寄せ合って転がした笑い声。あの頃は髪の色も、笑う声の高さも、まだ同じだった。


 指先に伝わる脈が、自分と同じ速さだった。


 同じ家に生まれ、同じ候補に選ばれた。けれど辿った場所はこんなにも違う。


 嫌いになれたら楽だった。あの数字を見ても、微笑みを見ても、嫌いになりきれない自分がいちばん厄介だった。


「……丁寧ね。集束がきれいだわ」


「同じことの繰り返しです」


「繰り返すだけでは、こうはならないわ」


 姉がフィアの指先を見つめていた。


「わたくしは光量はあるけれど集束が粗いの。あなたの手は逆ね」


「光量がないだけです」


「そう受け取るの。いつも」


 フィアは答えず、光の手を動かし続けた。


 姉の指先に温もりが戻り始めている。


「ここは静かね」


「正廊の音は届きませんから」


「それがいいの」


 姉の声から、澄んだ通りのよさがほんのわずか溶けた。


 間が落ちた。


「正廊はいつも誰かが見ているでしょう。ここなら——少し、息がつける」


 フィアの手が止まりかけた。


 息がつける。正廊の第一席が、東翼で。


 窓のない、薬草の匂いが染みついた、天井の低いこの部屋で。


「もう大丈夫です。しばらくは光を使いすぎないでください」


「ありがとう」


「指が温かいのね」


「お姉様の手が冷えすぎていただけです」


 姉が手を引き、右手を開いたり閉じたりした。


「楽になったわ。ここに来てよかった」


「無理をなさらないでください。戴聖(たいせい)の儀の前は練習もおありでしょう」


「あら、知っていたの」


「冬至に行われると伺いました」


「ええ。結果が掲示されたあと、冬至の日に。もう二月もないわね」


 聖女として正式に認められる儀式。掲示された数字が、そこに立つ者を示していた。


「お姉様がお立ちになるのでしょう」


「……それは、わたくしが決めることではないわ」


 謙遜とも本音とも取れる声だった。


 姉が自分の右手を撫でた。楽になった指先を確かめるように。その仕草に、正廊では見たことのない柔らかさがあった。


「聖秤の——」


 姉が口を開きかけた。


 フィアの心臓が跳ねた。


 聖秤。あの装置の名が姉の口から出かけている。


 けれど姉は続けなかった。視線がかすかに揺れ、唇が閉じ直された。


「……ごめんなさいね。なんでもないの」


 フィアも訊かなかった。


 訊いてしまえば何かが動き出す。知りたいのか知りたくないのか、自分でもわからなかった。


 姉が椅子から立ち上がった。


「急に押しかけてしまったわね」


「いえ」


「また来てもいいかしら。ここは……落ち着くの」


「……いつでも」


 自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。返事ではなく、願いに近かった。


 姉が扉のほうへ歩いた。把手に手をかけたところで、振り返った。


「——三つ編み、上手になった?」


 フィアの視界が滲んだ。


 姉の口元が崩れた。くしゃりと。あの笑い方だった。


 編み目がほどけるたびに顔を見合わせた、幼いころの——もう何年も見ていなかった顔。


 フィアの目が止まった。瞬きを堪えた。この顔を、覚えていたい。


 何か言わなければ。言葉を探した。


 けれど姉の頬にはもう、いつもの微笑みが戻っている。銀糸の裾が翻った。


「お姉——」


 呼びかけは扉が閉まる音に飲まれた。


 足音が遠ざかる。迷いのない歩みで、正廊のほうへ。


 来たときと同じ速さだった。迷いは足音には出ない人だった。


---


 治療室に沈黙が降りた。重く、ゆっくりと。


 フィアは自分の右手を見つめた。掌にまだ姉の指の冷たさが残っている。


 あの冷たさの奥にあったもの。細く痩せた経路。使い尽くされた末端。


 ——知っているのだろうか。この手の持ち主は。


 椅子に手を触れた。座面にかすかな温もり。姉がここにいた証だった。


 指先で温もりの輪郭を辿った。掌ごと覆ってしまいたかった。


 けれど強く触れるほど薄れていく。近づきたいのに、近づくと消える。五年間、ずっとそうだった。


 そっと指を離した。


 さっきまでこの椅子にいた人は、もう正廊の光の中にいるのだろう。


 何を言いかけたのだろう。聖秤の——。


 あの人の微笑みの下に何があるのか。五年かけても、分からなかった。


 三つ編み、上手になった。


 ——なっていない。いまでも不器用だった。姉の前では、ずっと。


 薬棚の硝子瓶に、金色の粒子がわずかに留まっていた。姉の光が落としていったもの。


 大聖堂の方角から、かすかな震えが耳の底を掠めた。金属を引き絞るような音。


 前の夜。壇上。数日前の暗い部屋。三度、あの震えを聞いた。


 四度目の、聖秤の音だった。


 硝子瓶の金色が、ひと粒、またひと粒と暗がりに溶けていった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


姉の右手の冷たさを書くとき、ずっと迷っていました。九三七紋の光を放つ手がなぜこんなに冷えているのか——フィアは診た瞬間にわかってしまう。毎日患者の経路を辿っている子だから。わかるのに言えない。言ったらもう来てくれないから。このジレンマが、書いていていちばん苦しかったところです。


「三つ編み、上手になった?」は最初の構想にはなかった台詞です。姉が振り返った瞬間にぽろっと出てきて、あのくしゃりとした笑い方を戻すか戻さないか——何度も書き直しましたが、一瞬だけ見せて消すのがこの姉だと思います。


最後の金色の粒子が消えていく描写は、姉の来訪そのものの映し鏡でもあります。来て、一瞬だけ光を落として、消えていく。


次話、夜の大聖堂。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!

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