帳面
最終審査から数日後。東翼の治療室で咳の患者を診ながら帳面を書き足すフィアのもとへ、レオが薬草を届けに来る。回廊での姉の短い一言が、襟元に残った。
咳が、石壁に弾けた。
低い天井に反響し、薬棚の硝子瓶をかすかに揺らす。
フィアは指先の光を絞ったまま、男の背が静まるのを待った。
「……すみません先生、また出ちまって」
「大丈夫です。ゆっくり吸って」
男の肩が三度上下し、やがて呼吸が戻った。
光を少しだけ広げ、肺の奥を探る。
炎症の芯が前回より浅い。根を張った咳はまだ残っているが、枝先がわずかに細くなっていた。
「前回より良くなっていますよ」
「ほんとですかい。自分じゃまるでわからなくて」
「光の通りが違うのでわかります。もうしばらく通ってください」
男が居ずまいを正した。
「先生にそう言ってもらえると安心だ」
「先生ではないですよ」
「いやいや。東翼に来りゃ先生でしょう。正廊は敷居が高くていけねぇ」
フィアは答えず、指先の光を静かに閉じた。
「女房もここに来たがっていましてね。先生の治療を見たいって」
「見るようなものではないですよ」
「いや、治りゃいいんです」
「次は三日後に。朝がつらければ午後でも構いません」
「ありがとうございます。伝えときます」
男は何度も頭を下げ、廊下に消えていった。
扉が閉まった。咳の名残だけが石壁にうっすらと残っている。
台を拭き、使った布を畳んでいると、廊下から杖の音が近づいてきた。
「やあ、今日もお世話になるよ」
膝の老婆だった。片手で扉を押さえ、もう片手の杖で石畳を探りながら入ってくる。
「どうぞ。座ってください」
老婆が寝台の端に腰を下ろした。杖を壁に立てかけるとき、節くれだった指がかすかに震えていた。
フィアは膝に手を当てる。厚い裾越しに、こわばった関節の輪郭が掌に伝わった。
乳白色の光が掌からゆっくりと広がった。
指先が温もりを帯び、老婆の膝に合わせて光の厚さを変えていく。
腫れは前回より引いていた。関節のこわばりも柔らかくなっている。
「良くなっていますよ。湿布は朝だけで大丈夫です」
「そうかい。あんたの手は温かいねぇ」
「湿布がよく効いているだけです」
「またそうやって。正廊の先生方の光はきれいだけど、わたしゃあんたのほうがいいよ」
フィアは小さく首を振り、掌の灯りを収めた。
「ところでね、隣の婆さんが腰が痛いって言ってるんだよ。ここに来れるかって聞かれたんだけどね」
「来られるなら診ますよ。午後なら空いています」
「言っとくよ。喜ぶだろうねぇ」
「次は五日後に。間隔を空けても大丈夫になってきましたから」
「はいはい。じゃあ少し楽させてもらうよ」
老婆を廊下まで見送った。杖の足音がゆっくりと遠ざかり、角を曲がったところで聞こえなくなった。
硝子瓶の蓋を確かめ、薬棚の並びを整え直す。
窓のない治療室に、薬草の匂いが戻ってきた。
石壁に染みついた匂い。この部屋だけはいつも変わらない。
それから机の引き出しを開けた。
帳面を取り出す。
角の丸くなった革表紙を開き、今日の日付の下にペンを走らせた。
「……炎症の深さ、三指分まで。枝先に後退あり」
唇だけが動いた。
症状、処置の内容、次回の予定。書き慣れた手つきで数行が紙の上に並ぶ。
続けて老婆の分も書いた。「腫れ後退。湿布頻度、朝のみに変更」。
ペンが止まり、数頁を遡った。
数日前の記録——「咳の男。初診。肺奥に根を張った古い炎症。一度では治せない」。
その隣に「膝の老婆。経過良好。階段がだいぶ楽になった」。
さらに遡ると、頁の端が手垢で薄く変色していた。
最初のほうは文字が大きく、余白も広い。
一番はじめの頁には「はじめての患者。手がふるえた」とだけ書いてあった。
いまの頁に近づくほど文字は詰まり、紙の端まで使い切っている。
帳面の背が、使い込んだぶんだけ柔らかく撓んでいた。綴じ糸がほつれかけている箇所を指で押さえた。
残りの白紙はもう数枚しかない。
フィアは帳面を閉じずに置いた。インクが乾くのを待つ。
扉が二度叩かれた。
「フィアさん、いますか」
レオの声だった。帳面をそっと閉じ、机の端に寄せる。
「どうぞ」
栗色の癖毛が覗き、小さな木箱を抱えたレオが入ってきた。
「薬草の補充です。東翼の分は後回しにされがちなので、管理室から直接持ってきました」
「わざわざありがとうございます」
「ついでですから」
ついでではないことは互いに知っている。管理室は渡り廊下の反対側にあった。
レオが薬棚に瓶を並べていく。琥珀色の瓶と透明な瓶を交互に、棚の並びに合わせて置いていった。
硝子の触れ合う小さな音が治療室に響いた。
「さっきの咳の方は来ましたか」
「帰ったところです。少し良くなっています」
「毎回ちゃんと通いますね」
「根が深いですから。通わないと戻ります」
「正廊を勧めても東翼がいいって言うんですよ」
フィアは瓶の並びを直しながら黙った。
「……東翼の先生がいいって」
また、その呼び方だった。
「先生ではないです」
「患者さんがそう呼んでいるんですから」
レオは最後の瓶を棚に収め、振り返った。
「最終審査の結果、明後日の朝に掲示だそうです」
「……そうですか」
「見に行きますか」
「見なくても変わりません」
レオは一拍黙った。
視線がかすかに机の端をなぞった。閉じられた帳面の革表紙が、薬草の匂いのなかでそこにある。
何を見ていたのかはわからなかった。すぐにレオは目を戻した。
「……残りの薬草は明日持ってきます」
「ありがとう、レオ」
レオは木箱を抱え直し、扉の前で足を止めた。
「聖秤の記録、やっぱり確認しなくていいですか」
「いいです」
短く答えた。前にも同じことを訊かれ、同じように断っている。
「……わかりました」
扉が閉まった。足音が渡り廊下のほうへ遠ざかっていく。
治療室に静けさが戻った。薬棚に並んだ新しい瓶が、魔法灯の光をかすかに映していた。
フィアは帳面を引き出しに戻した。
薬湯の材料が足りないことを思い出し、治療室の鍵を閉めて廊下に出た。
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回廊に出ると、石畳の上に聖花の花弁がまだ数枚残っていた。
最終審査のときに撒かれたものだろう。乾いて端が丸まり、白かったはずの色がくすんでいる。
フィアはそれをよけて歩いた。
正廊の方角から、聖職者たちの声がかすかに漂っている。
審査が終わってもこの回廊の空気は変わらない。石柱に午後の陽が傾き、長い影が石畳を横切っていた。
角を曲がったところで、足が止まった。
回廊の先に銀糸の儀礼服が見えた。
「——ありがとうございます。結果がどうであれ精進いたしますわ」
「ご謙遜を。第一席はもはや揺るぎませんな」
姉だった。聖職者の一人と言葉を交わしている。
澄んだ声が石壁によく通った。正しい言葉がためらいもなく揃う声だった。
聖職者が去り、姉がこちらを向いた。
「あら」
「……お姉様」
「こんなところで。東翼にいるものと思っていたわ」
「薬の材料をいただきに」
「そう」
姉の目がフィアの袖口へ落ちた。
「あなたはいつも薬草の匂いがするわね」
責めているのか、ただの感想か。声の温度では判じられなかった。
「……いつも使っていますから」
「そう。変わらないのね」
姉が一歩近づいた。視線がフィアの襟元に触れる。
「今日は曲がっていないわ」
それだけ言って、銀糸の裾を翻した。
背中が正廊の方角へ遠ざかっていく。衣擦れの音がかすかに残り、やがてそれも消えた。
フィアはその場に立ったまま動けなかった。
足裏から石畳の冷たさがせり上がってくる。呼吸が浅くなっていた。
手が、無意識に襟へ伸びていた。
曲がっていないことを、指先で確かめるように。
管理室の脇で薬草を量った。乾燥した葉が掌の上でかさりと鳴る。
布に包んで治療室へ戻った。回廊に姉の姿はもうなかった。
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蝋燭に火を入れた。
自室の机に帳面を広げる。朝の記録を読み返し、経過の見通しを書き足した。
「……咳の芯、次回もう一段浅くなれば峠を越える」
ペンを置く。
帳面の頁を繰った。
膝の老婆の名前は何度も出てくる。最初の記録には「階段を下りられない」と書いてあった。
いまは「楽になった」。その間に何枚もの紙が使われている。
頁の端を指で撫でた。紙の手触りが最初の頃とは違う。
フィアは帳面を閉じた。残りの頁を指で数えた。あと四枚。
鎧戸の隙間から秋の夜気が流れ込み、蝋燭の炎がゆっくりと傾いた。
大聖堂の方角から、かすかな震えが届いた気がした。金属を引き絞るような音。
——三度目だった。寝台の闇で聞いた夜と、壇上で指先が強張ったあの瞬間が、まぶたの裏をよぎった。
耳を澄ませた。もう聞こえない。
考えても答えは出ない。鎧戸を閉じ直した。
蝋燭を吹き消す。
暗い部屋のなかで、帳面の隣に小銭が並んでいる。
新しい帳面を買うための銅のリュール貨だった。少しずつ取り分けておいたもの。
鎧戸の隙間から差す月の光が、銅貨の縁だけをうっすらと照らしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
膝の老婆の「わたしゃあんたのほうがいいよ」が、書いていていちばん胸に刺さった台詞でした。フィアが自分では絶対に言わない言葉を、患者さんに言わせてしまう——これがこの物語のずるいところだと思います。
姉の「今日は曲がっていないわ」は、最初もっと長い台詞でした。消して消して最後にこれだけ残ったとき、ああこれが姉だなと思いました。短いほうが刺さる人っていますよね。
新しい帳面のための銅貨のくだりを書いたとき、ちょっと手が止まりました。何冊目になるのかは、いずれ本文のどこかで。
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