壇上の光
最終審査当日。壇上で華やかな治癒を披露する姉への喝采と、最後に呼ばれたフィアの地味な実演が対比される。聖秤がわずかな軋みを漏らす。
儀礼服の襟が、首筋にひやりと触れた。
秋の大聖堂は冷える。石壁が夜の冷気を手放さぬまま朝を迎えていた。
七人の候補生が回廊に並び、銀糸の刺繍だけが朝日を撥ねている。
フィアは列の端にいた。白糸の襟は何も撥ねない。
五年間ずっとそうだった。
列の外から小走りの足音が近づいた。レオが管理官の腕章を揺らしながら候補生の前を通り過ぎていく。
名簿をめくりながらフィアの横で足を止め、声を落とした。
「東翼の鍵は持っていますか」
「持っています」
「……終わったら患者さんが待ってますから」
それだけ言って管理官の列に戻った。栗色の癖毛が朝風に乱れている。
鐘が短く鳴った。
審査の間の石扉が左右にゆっくりと開いていく。
薄暗い回廊から踏み出した瞬間、光の温度が変わった。
天井まで続く石柱に魔法灯が連なり、正面の壇上には白い布が敷かれている。
壇の奥で聖秤が鈍い光を帯びていた。人の背丈を超える金属の骨組みに透明な板が嵌まり、紋様が静かに明滅している。
五年間フィアの名をその最下段に刻み続けてきた装置だ。
石柱の両側に聖職者と貴族が並んでいる。黒い法衣と色とりどりの衣装が石畳を埋め、囁きが天井の高さまで響いていた。
「第一席——ヴェルネイユ家ご長女」
名が呼ばれた。
列の先頭から候補生がひとり壇へ歩み出る。銀糸の儀礼服が魔法灯の光を受け、裾を引くたびに波紋のような輝きが走った。
背筋がまっすぐに伸び、顎が軽く上がっている。亜麻色の髪はフィアより二段明るく金糸に近い。
肩の上で揺れるたびに光を含んだ。
姉だった。
壇上に用意された患者は車椅子の老人だった。姉は一歩近づき、両手をかざす。
金色の光が十指の先から咲いた。
ざわめきが消えた。石柱の間を金色の粒子が昇っていく。
壇の下にいるフィアの頬にまでほんのりと暖気が届いた。
「あの光量……去年の倍はある」
隣の候補生が息を呑んだ。後方で聖職者の囁きが重なる。
「五年であれほど伸びるとは」
「聖女の座はもう揺るぐまい」
老人の膝に姉の手が触れた。金色の光が患部を包む。
一度光が揺らぎ、姉の指先が微かに位置を変えた。探るように、角度を直すように。
老人の顔から苦痛がゆっくりと引いていく。
やがて老人が自分の足で立ち上がった。杖を離し、石の床を一歩踏みしめる。
拍手が弾けた。正面の貴族席から起こり石柱の間を満たしていく。
白い花弁——聖花が壇上に舞い落ちた。
姉は深く一礼する。銀糸の裾が石の床を掃いた。
「お見事でした」
「五年間の研鑽があの光に凝縮されていますな」
「ありがとうございます。皆様のお導きのおかげですわ」
壇を降りた姉を聖職者たちが取り囲んだ。
「患部への集束が見事でした。あの距離で光が散らぬとは」
「恐れ入ります。まだ粗さが残っておりますので」
姉の声は澄んでいた。高すぎず低すぎず、大聖堂の石壁によく通る。
正しい言葉が迷いなく口に乗る話し方だった。
「次代の聖女に最もふさわしい光でした」
「皆それぞれに努力しておりますわ。わたくしだけが特別ではありません」
上手いな、とフィアは思った。謙遜でありながら自分が基準にいることを自然に受け入れている。
五年かけて磨かれた言葉の滑らかさだった。
列に戻ってくる途中で姉の足が止まった。フィアの前だった。
「襟が少し曲がっているわ」
白い指がフィアの襟元に伸びた。触れた指先が冷たい。
金色の光を放ったばかりの手とは思えなかった。
「……ありがとうございます、お姉様」
「今日は何を見せるの」
「いつも通りです」
「そう」
姉は微笑んだ。正廊で聖職者たちに向けるのと同じ、完成された微笑みだった。
銀糸の裾が石畳に線を引きながら列の先頭へ戻っていく。
あの指先は、たしかにフィアの襟を直していた。
幼い頃はもっと不器用な手だった。互いの三つ編みを結ぼうとしてうまくいかず二人で笑い合ったことがある。
あのくしゃりとした笑い方をもう何年も見ていない。
嫌いになれたら楽だろう。でもあの指には昔と同じ力加減が残っていた。
フィアは袖の中で東翼の鍵を握った。金属の冷たさが手のひらに馴染んでいく。
午後にはまた患者が来る。咳の男の肺はまだ深い。
第二席から第六席まで候補生が次々と壇に上がった。治癒光がそのたびに審査の間を照らし拍手が起こる。
「第四席は昨年より伸びましたな」
「それでも長女には遠い。今年は決まりでしょう」
聖職者の声が石柱の間を抜けてきた。
隣の候補生——第六席の少女が居心地悪そうにフィアを見た。
「お姉様の光は本当にすごかったですね」
「ええ」
「フィア様は……どのような治癒を」
「いつも通りです」
少女は曖昧に笑って前を向いた。
「第七席——ヴェルネイユ家次女」
最後にフィアの名が呼ばれた。
隣の少女がそっとフィアの袖を引いた。
「……頑張って」
フィアは小さく頷いて列を離れた。
壇へ向かう足音が自分のものだけだった。
他の候補生の番では廊下にまで人が溢れていたのに、石柱の陰にちらほらと人影が残っているだけだ。
貴族の何人かはもう席を立ち、出口へ向かう衣擦れの音がフィアの背中に届いた。
壇上の患者は若い女だった。右肘の関節が腫れている。
フィアは膝をつき手を当てた。
光は淡かった。金色ではなく乳白色に近い。
指先が患部に触れた瞬間、姉の金色とは違う——冷たい井戸水のような静かな温もりが掌を伝った。
天井を照らすほどの広がりはない。フィアの指先から患部へ直接流れるだけだ。
腫れの奥を探る。炎症の芯を辿り組織の深さに合わせて魔力の密度を変えた。
昨日の老婆の膝と同じだ。急がず段階を踏む。
石柱の間に自分の呼吸だけが反響していた。壇の石が膝越しに冷たい。
拍手はなかった。遠くで扉が閉まる音がした。
フィアは気にしなかった。患者の肘に意識を集中する。
「あの……あなたが最後の方ですか」
「はい」
「痛みますか」
「少し……でも温かいです」
女の声がかすかに揺れていた。
腫れが引き始め、女が小さく息をついた。
「……動かしても痛くないです」
「もう少しだけ」
残りの炎症を丁寧に鎮めてから手を離した。
女は肘を曲げ伸ばしし、驚いた顔でフィアを見た。
「ありがとうございます。昨日まで曲がらなかったのに」
「しばらくは重いものを持たないでください」
「不思議です。光はあまり見えなかったのに」
壇の奥で聖秤がかすかに唸った。
透明な板に新しい紋様が浮かび上がっていく。フィアの得点が刻まれる。
——そのとき、唸りが一瞬だけ変わった。
金属を引き絞るような軋み。昨夜、寝台の上で聞いたあの音に似ていた。
指先がわずかに強張り、吐きかけた息が喉の奥で詰まった。
フィアは聖秤を見た。透明な板は変わらず淡い光を帯びている。
紋様は静かに並んでいた。
——気のせいだろう。
昨夜もそう思った。
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審査の間を出ると回廊は閑散としていた。
候補生たちの姿はなく、正廊の方角から姉を称える声がかすかに届いている。
渡り廊下の石畳に聖花の花弁が一枚、踏まれずに残っていた。
フィアはそれをよけて歩いた。昨日と同じように。
「フィアさん」
渡り廊下の柱に背を預けていたレオが姿勢を正した。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
「……どうでしたか」
「変わりません」
レオは一拍の間を置いて手元の名簿に視線を落とした。
「咳の患者さん、明日の予定だったんですが今朝も痛みがひどいそうで。午後に来ると伝えてあります」
「助かります」
「あの人、今朝も来ていたんですよ。正廊の先生を勧めたんですけど東翼がいいって」
レオはフィアを見た。
「東翼の先生って呼んでいましたよ」
「……先生じゃないです」
「患者さんがそう呼んでいるんですから」
フィアは答えなかった。袖から東翼の鍵を取り出し歩き出す。
背後からレオの声が追いかけてきた。
「聖秤の記録は夕方に届きます。確認しますか」
「いえ。見なくても変わりませんから」
足音が止まった。やがて反対方向——記録管理室のある棟へと遠ざかっていく。
東翼の扉の鍵を回した。
治療室は昨夜のまま薄暗い。薬棚の硝子瓶が並び、台の上には清潔な布が畳まれている。
壁に染みついた薬草の匂いがフィアを迎えた。審査の日でもここだけは変わらない。
机の引き出しから帳面を取り出した。
「……右肘、関節炎。二十代」
壇上の患者の症状を呟きながら、羽根ペンを取る。名前は聞きそびれた。
「午後にもう一度聞こう」
日付の下に数行を記す。書き慣れた文字が紙の上に並んでいく。
「肘の可動域は……八割まで戻っていた」
ペン先が止まった。壇上での感触を反芻する。
「深層の炎症はあと二回で取り切れる」
遠い正廊から拍手がまだ聞こえていた。聖花の甘い残り香が扉の隙間からかすかに届く。
書き終えてペンを置いた。
指先に壇上で聞いた軋みの感触がまだ残っている気がした。
昨夜の音と同じだったのか。気のせいだったのか。
——考えても答えは出ない。
帳面を閉じた。聖秤がどんな数字を刻もうとこの頁は今日も一枚増えた。
革表紙が、薬草の匂いのなかでゆっくりと冷えていく。
——あの軋みだけが、指先から抜けなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
姉をどう登場させるか、書き始める前からずっと迷っていました。冷たい姉にするか、無関心な姉にするか——でも「襟を直す」という所作が降りてきた瞬間にこれだと思いました。嫌いになれない相手の一番やっかいなところって、ちゃんと優しい瞬間があるところだと思うんです。
フィアの光の色を決めるのに時間がかかりました。金色じゃないということだけは最初から決めていて、候補をいくつか書いては消した末に乳白色に落ち着きました。地味な色ですが書いてみるとフィアらしくて。壇上で拍手のない場面を書いたとき、自分でも少し手が止まりました。でもフィアなら大丈夫だと思えたのは不思議な感覚でした。
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