前夜
聖女選抜の最終審査前夜。五年連続最下位のフィアは東翼の治療室で平民患者を淡々と診つつ、壁越しに姉の華やかな演示への喝采を聞く。
指先に淡い光が灯り、老婆の膝に触れた。
壁の向こうで歓声が弾ける。拍手と歓呼が石壁を震わせ、手元の魔法灯がかすかに揺れた。薬棚の硝子瓶がかちりと触れ合う。
窓のない治療室は天井が低く、古い薬草の匂いが石壁に染みついていた。
フィア・ヴェルネイユは顔を上げなかった。
「痛みますか」
「いいや……さっきよりずっと楽だよ」
老婆の声に芯が戻っている。右膝の腫れはまだ残っていたが、炎症の芯は鎮まりつつあった。フィアは指先の光を少しだけ絞り、残りの魔力を関節の裏側へ回す。一度に治しきるより段階を踏むほうが、齢を重ねた身体には負担が少ない。
壁一枚を隔てた世界が、この治療室には届かない。治癒の光はここでは天井を照らすことなく、フィアの指先から老婆の膝へ静かに流れるだけだ。
正廊の歓声が一段と膨れた。
「向こうは賑やかだねぇ。ヴェルネイユのお嬢さんの演示だろう? あの金色の光は遠くからでもわかるもの」
「ええ。お姉様だと思います」
それ以上は言わなかった。指先の光を静かに閉じ、老婆の膝からそっと手を離す。
「三日後にまた来てください。湿布は朝に替えれば大丈夫です」
「この膝ももう何年になるかしらねぇ」
「経過は良くなっていますから。焦らなくて大丈夫ですよ」
「あんたに診てもらうようになってから、階段がずいぶん楽になったよ」
「それは湿布がよく効いているんです」
「ふうん。湿布ねぇ」
老婆が笑った。歯が何本か欠けている。信じていない顔だった。
台から降りるのを支え、扉の外まで見送った。杖をつく足音が廊下の暗がりに遠ざかっていく。
扉の外で、別の患者が待っていた。背中を丸めた男が壁に手をついて咳き込んでいる。
「正廊の先生方に診てもらおうと思ったんですが、お忙しいようで」
「どうぞ。中へ」
男の咳は肺の奥に根を張った古いものだった。一度の処置では治せない。炎症を押さえるだけの処置を施し、明後日にまた来るよう伝えると、男は何度も頭を下げた。
二人目の患者を見送った後も、正廊の歓声は続いていた。候補生が順に壇上へ立つ演示——フィアは一度も壇に呼ばれたことがない。最下位の候補生に、人前で光を見せる場は与えられなかった。
治療室に一人になると、壁向こうの喝采がいっそう鮮明に聞こえた。患者の声がなくなったぶん、部屋が静かになっただけのことだ。壁に掛けた板には明日の予約が二件書いてある。最終審査の日だが、目の前の膝や咳に審査は関係ない。
フィアは使った布を畳み、台を拭いた。薬瓶の蓋を確かめ、魔法灯の火を落とす。扉に鍵をかけるとき、指先の火傷痕——治癒魔法の使いすぎでできた薄い痕——が、廊下の灯りに白く浮いた。
消そうと思えば消せる。けれどこの痛みを消したら、何かもっと大事なものまで消える気がした。
自分の手に魔力を使うことを、フィアはしない。
この痕だけは、自分がつけたものだった。
東翼を出る前に振り返った。治療室の扉はもう暗い。明日もここに患者が来る。最終審査が終わった午後にも、たぶん。
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東翼の廊下は魔法灯がまばらで、壁の石は湿り気を帯びていた。候補生の治療実習室がいくつか並んでいるが、どの扉も暗い。
明日の聖女選抜の儀——その最終審査を控えて、ほかの候補生たちは身支度か、正廊の演示に出ているのだろう。
渡り廊下へ向かうと空気の温度が変わった。灯りが明るくなり、人の気配が増える。
柱の影で、下級侍女が二人立ち話をしていた。
「——明日もフィア様は最下位でしょうね」
「五年連続。もはや記録ですわ」
「ご本人は気にしていないのかしら。毎日あの治療室にこもって平民の患者ばかり」
「お姉様とは大違い——あ」
フィアの姿に気づいて、二人が口をつぐんだ。深く頭を下げる。
フィアは歩調を変えなかった。背中に視線を感じたが、足を速めはしなかった。
「……そうですか」
呟きは自分に向けたものだったのか、侍女たちに向けたものだったのか。フィア自身にもわからなかった。
「……でも、あの膝はよくなっている」
五年連続最下位。候補生は七人。フィアの上に六人。
聖秤が記録する治癒得点は、毎年変わらず最下段を指してきた。
魔力量は平均的で、目を瞠るような光は出せない。正廊を埋める聖職者や貴族の前で治癒を披露したことは一度もなかった。
試験のたびに順位が読み上げられるとき、隣の候補生が同情の目を向けてくるのにも慣れた。最初の年は胸が詰まったが、今はもうその感覚がない。ないと思うことにしている。
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回廊を抜けると、中庭に面した石畳の上に白い花弁が散っていた。聖花。姉が演示の場を清めるために撒く花だ。踏まれて潰れたものもあれば、夜露に濡れてまだ形を保っているものもある。
柱の向こうから聖職者たちの声が漏れてきた。
「素晴らしかった。さすがはヴェルネイユ家のご長女」
「聖秤の記録もあの方が圧倒的でしょうな。明日の審査は形式的なものだ」
「妹君はどうされているのです。今日の演示にはお見かけしなかったが」
「ああ、東翼の……お気の毒だが順位は動くまい」
フィアは花弁をよけて歩いた。理由は特にない。踏みたくなかっただけだ。聖職者たちの靴が花弁を無頓着に踏んでいく。明日の朝には掃き清められて、最終審査にふさわしい石畳に戻っているはずだった。
渡り廊下の先に、見慣れた姿があった。壁にもたれていた下級神官が、フィアを見て姿勢を正す。癖のある栗色の前髪が額に垂れていた。
「フィアさん。今日も遅くまでだったんですね」
「膝の患者と、咳の患者が一人」
下級神官レオ。候補生の実習記録を管理する役目を担っている。五年前、フィアが初めて東翼の治療室を使い始めたときから彼はそこにいた。正廊ではなく東翼を選んだ候補生が珍しかったのか、最初は不思議そうな顔をしていたが、今はもう何も言わない。
「正廊の演示が終わったので、そちらの先生方に回してもよかったのでは」
「待ってくれていた方を、回すわけにはいきません」
レオは頷いた。小さな布包みを差し出す。
「食堂はもう閉まっています。パンしかないですが」
「ありがとうございます」
受け取ると、まだほのかに温かい。焼きたてではないが、冷え切ってもいなかった。フィアの分を取り分けておいた人間が一人いる。それだけのことなのに、手の中の温度がやけにはっきりとわかった。
レオがフィアの手元にちらりと視線を落とし、すぐ逸らした。火傷の痕。いつもそうだ。見て、逸らして、何も言わない。
「明日の最終審査——」
「ええ。いつも通りですよ」
言い終える前に返した。何を続けようとしていたかは察しがつく。頑張ってくださいか、今年こそか。どちらであっても返す言葉は同じだった。
「それでも、わたしが診た方たちが良くなったことは変わりませんから」
レオは口を閉じた。渡り廊下を夜風が吹き抜け、足元の石畳が冷たかった。遠くで大聖堂の鐘が一つ、夜の刻を告げた。
「明日は朝の鐘の直後に整列です。早めに来てください」
「わかっています」
「……東翼の鍵はどうしますか。預かりましょうか」
「持っていきます。午後にも使うかもしれませんから」
「……午後にも、ですか」
「審査が終われば患者を待たせている理由がなくなります」
「今日の咳の方はどのくらいかかりそうですか」
「根が深いので……ひと月は見てください」
フィアは布包みを抱え直し、小さく頭を下げて歩き出した。背後でレオが何か言いかけた気配があったが、振り返らなかった。
渡り廊下の先で、レオの足音が遠ざかった。東翼とは反対の方角——記録管理室のある棟へ向かうのだろう。フィアの実習記録も彼の手で管理されている。毎年、最下段に綴じられる薄い記録が。
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自室の蝋燭に火を入れた。
候補生に割り当てられた部屋の中でも最も狭い。寝台と机と衣装箱だけ。壁に飾りはなく、衣装箱の蓋の上には明日の儀礼服が畳まれていた。候補生の中でも最も簡素なもので、襟の刺繍は銀糸ではなく白糸だ。
鎧戸の隙間から秋の夜風が忍び込み、蝋燭の炎を傾けた。
レオからもらったパンをひとくちかじる。固くなりかけた生地に麦の香りが残っていた。
食べ終えると、机の上の帳面を引き寄せた。革の表紙はすり減って角が丸く、綴じ糸は一度ほどけて結び直した跡がある。
羽根ペンを取り、今日の日付の下に数行を書き加えた。ペンを置くまでの時間は短い。書き慣れた手つきだった。
「……今日は二人」
帳面の紙はもう残り少ない。新しいものを用意しなければと思いながら、もう半月になる。明日の審査が終わったら買いに行こう。そんなことを考えている自分が、少しだけおかしかった。
書き終えた頁をなぞった。インクが乾くまでのわずかな間、窓の外の闇をぼんやりと見つめる。
帳面を閉じ、蝋燭を吹き消そうと息を吸ったとき——
遠くで、何かが軋んだ。
帳面に伸ばしかけた指先が、宙で止まった。
吸いかけた息が喉の奥で止まった。
金属を引き絞るような軋み。あるいは、細い鈴の緒がぷつりと切れるときの一瞬の震え。
大聖堂の方角だった。審査の間がある方角。
鎧戸を少し開けて覗いた。尖塔の影が夜空に黒く聳えているだけで、何も見えない。灯りも動きもなかった。
——気のせいだろう。
鎧戸を閉じ直し、蝋燭を吹き消した。
蝋の残り香が暗い部屋をゆっくりと満たしていく。
机の上の帳面は、閉じられたまま静かにそこにある。明日の最終審査が終わっても、ここに数行が書き足されるだろう。何番目であっても。何年目であっても。
フィアは寝台に横たわり、目を閉じた。
帳面の表紙が、秋の夜気のなかでゆっくりと冷えていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
聖女ものを書こうと決めたとき、最初に浮かんだのは「テストの点数がずっと間違っていたら」というワンアイデアでした。学生時代に成績表を見るたびに胃が重くなったあの感覚を、聖女の選抜に持ち込んだらどうなるだろう——そこがこの物語の出発点です。
フィアの治療室を大聖堂の東翼に置いたのは、書いているうちに自然とそうなりました。正廊から一番遠くて、歓声が壁越しにしか届かない場所。でもそこに毎日通い続ける子がいて、帳面に何かを書き続けている。あの帳面の中身は、もう少し先のお楽しみということで。
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