灯
委員会の調査で、配置局の下級神官が五年間にわたり意図的に患者を東翼に送っていた記録が見つかる。さらにレオは、自分がフィアの写しを残すより前から帳面の存在を上層部に報告していた人物がいたことを明かす。フィアの五年間は、見えないところで複数の人に支えられていた。
朝の治療室に、膝の痛みを訴える老人が来た。
「東翼は遠いんだがね。でもここが一番いいと聞いたもんで」
「どなたに聞いたんですか」
「正廊の受付の神官さんだよ。膝が痛いなら東翼へ行きなさいって。名前は覚えてないがね、若い男の神官だった」
フィアは老人の膝に手を当てた。皮膚の下に水の感触がある。関節に水が溜まっていた。指先で範囲を確かめると、膝の裏側まで広がっている。
「歩くときに引っかかりませんか」
「引っかかるよ。階段がつらくてね。市場の石段をひとつ上がるのに、杖で体を持ち上げないといけない」
「水を抜いて、炎症を鎮める処置をします。一度では全部は引きませんが、三回通っていただければ楽になるはずです」
治癒術を流し始めた。膝の関節を包むように手を添え、腫れた組織に向かって力を通す。老人が小さく息を吐いた。
「ああ。ここは静かでいい。他の翼は待ち人が多くてね。待ってるだけで疲れちまう」
「来週と再来週、同じ時間に来てください」
「わかったよ。——先生、あんた若いのに上手だね。受付の神官さんが薦めるわけだ」
老人が帰った後、フィアは帳面に記録を書いた。膝。水腫。三回通院。処置内容。
正廊の受付。若い男の神官。東翼を薦めてくれる人がいる。これまでも、そういう患者はいたのだろうか。気にしたことがなかった。
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午前中にもう一人、咳の若い女性が来た。
「受付で東翼がいいって言われました。咳がもう二週間止まらなくて」
「東翼がいいと言われた?」
「はい。受付の方が、東翼の先生は丁寧だからって」
フィアは女性の背中に手を当てた。「深く息を吸ってください」。女性が吸い込むと、肺の奥で細い音がした。気管の粘膜が荒れている。
「煎じ茶を出します。朝と晩に一杯ずつ、一週間続けてください」
薬草棚から乾燥させた白い花の束を取り出し、一回分ずつ紙に包んだ。五年間で何度も作った処方だった。
「改善しなければまた来てください。無理に我慢しないで」
「ありがとうございます。——東翼の先生って、ほんとうに話しやすいんですね。他の翼だと、症状を伝える前に薬を渡されて終わりなんです」
女性が帰った後、フィアは帳面に書いた。咳。気管粘膜炎症。煎じ茶七日分。
二人目。受付で東翼を薦められた。偶然とは思えなくなっていた。
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午後、レオが書類の束を抱えて来た。
「フィアさん。委員会の調査で、配置局の記録が出てきました」
「配置局」
「患者の割り振りを管轄する部署です。どの翼にどれだけの患者を配置するかを決めている。管理局とは別の部署ですが、委員会の調査権限で記録が開示されました」
レオが書類を机の上に広げた。
「この五年間の患者配置記録です。通常、東翼への配置は月に数人——候補生の実習用として最低限の数が割り振られます。でも、フィアさんの配置記録は違っていました」
「違っていた」
「三年目から、東翼への配置数が徐々に増えています。月に十人、十五人と増えていって、五年目には月に二十人を超えている月もある。他の翼の配置数と比較すると、明らかに意図的な偏りです」
「わたしの翼に、意図的に患者を送っていた人がいる」
「はい。配置記録には担当者の印が押されています。同じ印です。五年間ずっと同じ人が、東翼への配置を増やし続けていた」
「その人は——」
「配置局の下級神官です。名前はジルベール。三年前に配置局を退いて、今は門前通りの救護院で働いているそうです」
「ジルベール」
フィアは聞いたことのない名前だった。五年間、配置局の窓口に行ったことはない。患者はただ来るものだと思っていた。誰かが送ってくれていたとは考えたこともなかった。
「なぜ、その人はわたしに患者を送ってくれたんでしょう」
「それはわかりません。委員会がジルベールに聞き取りを行う予定です。ただ——」
レオが言葉を区切った。
「配置記録を調べていて、もう一つわかったことがあります」
「もう一つ」
「わたしがフィアさんの帳面の写しを残すようになったのは、三年前からです。帳面が正確で、記録管理の参考になると判断したからです。でも——わたしが写しを取り始めるより前に、フィアさんの帳面の存在を管理局に報告していた人がいました」
「……誰ですか」
「前々任の配置局長です。四年前に退任しています。退任前の引き継ぎ書類に、こう書かれていました——『東翼の候補生が独自に治療記録をつけている。正式な記録ではないが、内容は正確であり、注視に値する』」
フィアの手が止まった。
「四年前」
「はい。フィアさんが帳面をつけ始めて一年目の終わり頃です。配置局長は帳面の存在に気づいていた。そしてジルベールに東翼への配置を増やすよう指示した可能性がある」
「その配置局長も——わたしのことを知っていた」
「知っていたと思います。直接会ったことはなくても、配置局は各翼の状況を把握しています。東翼にいる最下位の候補生が、一人で治療記録をつけている——それを見て、患者を送る判断をした人がいた」
フィアは帳面を見下ろした。新しい帳面。今朝の二人の記録が書かれている。
「レオは、そのことを知っていたんですか。配置局長の引き継ぎ書類のこと」
「いいえ。今回の調査で初めて知りました。わたしが写しを取り始めたのは、フィアさんの帳面が記録管理の視点から優れていると感じたからです。配置局長の報告を読んだからではありません。別々の人間が、別々の理由で、同じ帳面に注目していた」
「別々の理由で」
「配置局長はおそらく東翼の実態を把握するため。ジルベールは上司の指示に従って。わたしは記録管理の参考として。理由も目的も違う三人が、それぞれフィアさんの帳面を通じて動いていた。申し合わせたわけではないのに」
フィアは窓の外に目を向けた。東翼の窓から見える中庭。五年間、同じ景色だった。
五年間、自分は一人で帳面をつけていると思っていた。誰にも求められていないのに、自分のためだけに書いていると思っていた。
でも、見ていた人がいた。配置局長が帳面に気づき、ジルベールが患者を送り、レオが写しを残した。フィアが知らないところで、帳面は読まれ、帳面のために人が動いていた。
「——ありがとうございます。教えてくれて」
「事実をお伝えしただけです」
レオはいつもそう言う。でもその事実を、フィアに伝えることを選んでいるのはレオだった。
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夕方、ルカが来た。
「先生。今日は患者さん多かったっすか」
「二人です。二人とも、正廊の受付で東翼を薦められたそうです」
「受付で薦められた? すごいっすね、先生の腕が知られてるってことっすよ」
「そうかもしれません。でも——知られていたのは、ずっと前からだったみたいです」
フィアはレオから聞いた話をルカに伝えた。配置局の記録のこと。五年間、患者を送り続けてくれた人がいたこと。
ルカは腕組みをして聞いていた。
「俺も——先生に火傷を治してもらわなかったら、聖秤のこと誰にも言えなかったっす」
「うん」
「先生がいたから、俺は話せた。でも先生が東翼にいたのは、その人たちが患者を送ってくれたからっすよね。患者がいなかったら、先生は帳面もつけてなかったかもしれないし、俺が来たときに治療室が開いてなかったかもしれないし」
「……そうかもしれない」
「なんか、繋がってるっすね。鎖みたいに」
ルカが言った言葉に、フィアは少し驚いた。それはフィア自身がかつて使った言葉だった。鎖のように繋がっている。ドレの供述からメゼールへ、メゼールから聖職貴族へ。でもルカの言う鎖は、それとは向きが違っていた。配置局長からジルベールへ、ジルベールから患者へ、患者からフィアへ、フィアからルカへ。フィアを支えるために繋がっていた鎖だった。
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夜、帳面を開いた。
二冊目の帳面。今日で十人分の記録が並んでいる。
一冊目の帳面。百四人の名前。あの百四人のうち、何人がジルベールによって東翼に送られてきた人だったのだろう。患者の名前は覚えている。でも、彼らがなぜ東翼に来たのかは知らなかった。
遠い翼。待ち人が少ない。でもそれは、候補生が最下位だから誰も来ないのではなかった。誰かが「ここに送ろう」と判断して、送り続けてくれていた。
知らなかった。五年間、知らなかった。
帳面の白い頁に、今日のことは書けなかった。患者の記録ではないから。でも覚えておこうと思った。見えなかった灯が、ずっと灯っていたこと。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
フィアの五年間は「一人」だったのではありませんでした。配置局の下級神官ジルベールが患者を送り、前々任の配置局長が帳面に気づき、レオが写しを残した。フィアの知らない場所で、小さな灯が幾つも灯っていた。
孤独な五年間が「実は一人ではなかった」と反転する——この物語の大きな転換点です。ブックマーク、評価、感想をいただけると嬉しいです!




