家
新しい帳面を買い、最初の一行を書く。メゼールの聴取が決まり、書斎の書類からヴェルネイユ家だけでなく複数の聖職貴族の名が浮かぶ。得点操作は家督争いの一環であり、聖女の座を巡る政治の構図が明らかになり始める。
朝、東翼を出た。
帳面屋は大聖堂の門前通りにあった。石畳の道を歩くのは久しぶりだった。正廊の喧騒を避けて裏手の通用口から出たが、それでも何人かの聖職者とすれ違った。
一人がフィアに頭を下げた。知らない顔だった。名前を知られているのだろうか。委員会の通達が出てから、そういうことが増えた。
門前通りは朝市の匂いがしていた。焼きたてのパンと、干し草と、馬の蹄の音。大聖堂の壁の中にいると忘れてしまう匂いだった。
帳面屋は通りの角にあった。間口の狭い店で、看板の文字がかすれている。五年前、最初の帳面を買ったのもこの店だった。
「いらっしゃい」
店主は白髪の老人だった。五年前と同じ顔だった。
「革装丁の帳面を一冊ください。一番安いもので」
「ああ、あんたか。東翼の候補生さんだろう。五年前にも買いに来たね」
「覚えていてくれたんですか」
「そりゃ覚えてるよ。あの帳面を買った候補生は、あんた一人だったからね。他の候補生は買いに来ない。帳面をつけるのは下級神官の仕事だと思ってるんだろう」
店主が棚から帳面を取り出した。革装丁。留め金つき。五年前に買ったものと同じ造りだった。新品だから革が硬く、色が明るい。
「銅貨を」
布袋から銅貨を数えて渡した。五年間少しずつ貯めた分と、ルカの三枚。店主が一枚ずつ数え、頷いた。
「ちょうどだね。——五年前も、ちょうどの額を持ってきたっけな。余分な銅貨は一枚もなかった」
「ええ」
あのときも、貯めた銅貨をすべて使って帳面を買った。余裕のある買い物をしたことは一度もない。
「大事に使いなよ」
「はい」
帳面を受け取った。軽かった。前の帳面の重さに慣れた腕には、中身のない帳面はほとんど重さがなかった。門前通りの風が吹いて、パンの匂いがまた届いた。
---
東翼に戻ると、患者が一人待っていた。
先週来た肩の女性だった。経過確認。肩を動かしてもらうと、先週引っかかっていた角度がなめらかに通った。腫れも引いていた。
「もう痛くありません。ありがとうございます、先生」
「よかったです。無理をしないでください」
女性が帰った後、新しい帳面を机の上に置いた。留め金を開けた。革が硬くてきしんだ。最初の頁。白い紙。
筆を取った。
紙切れに書いていた数日分の記録を、一行ずつ書き写した。名前。症状。処置。日付。折り畳んだ紙六枚分の記録が、新しい帳面の最初の数頁に並んだ。
今日の女性の経過も書いた。
文字が帳面の上に並んでいくのを見ていた。前の帳面と同じ手つきで、同じように書いている。でも帳面は新しい。頁は白い。これが二冊目の帳面の最初の記録だった。
---
午後、レオが来た。
「フィアさん。二つ報告があります」
「どうぞ」
「一つ目は、メゼールの聴取が確定しました。来週、中央聖務院からこちらに出向いて委員会の聴取を受けると回答がありました」
「メゼール本人が来る」
「はい。中央聖務院としては、調査への協力を拒否する立場にはないと判断したようです。委員会の権限が評議会直属ですから」
「もう一つは」
レオの表情が変わった。慎重な顔になった。
「メゼールの書斎から見つかった書類の中に、覚書以外の文書がありました。書簡です」
「書簡」
「宛名が複数あります。差出人はメゼール。宛先は——聖職貴族の家々です。ヴェルネイユ家だけではありません」
フィアの手が帳面の上で止まった。
「他の家」
「はい。委員会が書簡の内容を精査しています。まだ全容は明らかになっていませんが、レオが書記官から聞いた範囲では——得点操作に関連する内容を含む書簡が、少なくとも三つの家に宛てて書かれていました」
「三つの家」
「ヴェルネイユ家。それから、ボーモン家とガレット家。いずれも聖職貴族の名家です」
フィアはその名前を知らなかった。候補生として五年間過ごしてきたが、聖職貴族の家名を意識したことはほとんどなかった。
「ボーモン家とガレット家は、聖女選抜に関わりがあるんですか」
「直接的には関わっていません。でも——」
レオが言葉を選んだ。
「聖女の座は、教会の中で大きな影響力を持っています。聖女を輩出した家は教会の中枢に近づける。聖務院の人事にも発言権が生まれる。聖女の座を巡って、聖職貴族の間で水面下の駆け引きが続いてきた——そういう話は以前から噂としてありました」
「噂」
「記録管理の仕事をしていると、過去の選抜の記録も目にします。百年前の選抜でも、特定の家の候補生だけが不自然に高い得点を出している年がありました。聖秤の計測値が操作されていた可能性は、今回が初めてではないのかもしれません」
フィアは椅子の背にもたれた。
百年前から。聖秤が据えられて二百年。その間、得点の操作はずっと行われてきたのかもしれない。聖女の座を巡る聖職貴族の駆け引きの道具として。
「わたしの父は——その駆け引きの中にいたんですね」
「メゼールの書簡がそれを示唆しています。ヴェルネイユ家は三代続けて聖女を出してきた。四代目もヴェルネイユから出すために、メゼールを通じて管理局に得点の操作を依頼した。メゼールはその見返りとして中央聖務院の地位を得た——そういう構図が浮かんでいます」
「見返り」
「書簡の中に、メゼールの聖務院への異動を推薦する旨の記述があったそうです。推薦元はヴェルネイユ家の当主——フィアさんのお父上の名前です」
フィアは黙った。
父の顔を思い出そうとした。五年前、候補生として大聖堂に送り出されたときの父の顔。何を言われたか、もう正確には覚えていない。姉の方を見ていた。姉に何か言っていた。フィアには——何も言わなかったかもしれない。
「フィアさん」
「大丈夫です」
「急がなくて構いません。時間はあります」
「ありがとうございます。ただ——父がそこまでしていたとは知りませんでした」
レオは何も言わなかった。しばらく沈黙があった。
「委員会は、メゼールの聴取でこの構図を確認する方針です。書簡の内容とドレの供述を突き合わせて、得点操作の指示系統を確定させる」
「わかりました」
---
夕方、ルカが来た。
「先生、新しい帳面っすか」
机の上の新しい帳面を見て、ルカの目が広がった。
「ええ。ルカのおかげで買えました」
「やったっす。……書き始めてるっすね。もう何人分書いたっすか」
「紙切れの分を含めて八人です」
「八人。二冊目の帳面の八人目っすね」
ルカがにっと笑った。フィアも少しだけ口の端が上がった。
「ルカ。聞いてもいい?」
「はいっす」
「ルカは技師見習いとして、管理局の人たちと会うことがあった?」
「夜番の引き継ぎで、管理局の当番の人とは顔を合わせるっす。でもあいさつくらいで、話したことはあんまりないっすね。見習いと管理局じゃ、立場が違うんで」
「管理局の人たちが、聖職貴族の家の人と話しているのを見たことは」
「……あるっす。管理棟の入口で、仕立てのいい法衣の人が管理官に何か渡してるのを見たことあるっす。あれが聖職貴族の人だったのかも」
「いつ頃のこと」
「去年の冬っすかね。一回だけっすけど。俺、その人の顔は覚えてないっす」
フィアは新しい帳面の余白にメモを書いた。管理棟入口。仕立てのいい法衣。去年の冬。
---
夜、自室で帳面を閉じた。
新しい帳面は軽い。まだ八人分の記録しかない。前の帳面は百四人の名前で満ちていた。
父のこと。ヴェルネイユ家のこと。三代続いた聖女の家系。四代目を出すために、管理局を動かし、得点を操作し、メゼールに見返りの地位を約束した。
姉はその構図の中で、壇上に立たされていた。フィアはその構図の外に置かれていた。調整不要。現状の値を維持する。フィアの存在は、操作する必要すらないと判断されていた。
怒りだろうか。悲しみだろうか。わからなかった。どちらとも言い切れないものが、呼吸のたびに重くなっていた。
ボーモン家。ガレット家。知らなかった名前。でも、その家々にも候補生がいたのかもしれない。得点を操作され、壇上に立たされ、あるいは壇上から外された候補生が。フィアと同じように。
帳面の留め金を閉じた。新しい革がきしむ音がした。これから何人の名前がこの帳面に書かれるのか。五年後にもう一冊、帳面屋に買いに行くのだろうか。
それは、わからない。でも明日も患者は来る。明日も書く。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
得点操作の黒幕は、一人の管理官でも一つの家でもありませんでした。聖女の座を巡って、聖職貴族の家々が水面下で駆け引きを続けてきた——その構図の中に、ヴェルネイユ家もいた。聖秤という「公正な装置」の裏で、百年前から人の手が加わっていた可能性すらあります。
フィアが新しい帳面の最初の一行を書いたこと。それはこの物語の、静かな再出発です。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




