傷
姉の来訪から数日。フィアは治療を続けながら、姉への感情を整理できずにいる。ルカが管理棟奥の部屋の情報を委員会に伝え、メゼールの書斎から書類が発見される。その中にフィアの名前が——「第七席の得点は調整不要」という一行が見つかる。
姉が東翼を訪ねてから、三日が経った。
三日間、姉は来なかった。正廊ですれ違うこともなかった。フィアは東翼で患者を診て、紙切れに記録を書いた。一日に二枚の紙を使う日もあった。引き出しの中に、折り畳んだ紙が少しずつ溜まっていった。
姉の言葉が消えなかった。
「あなたが怒ってくれたら」
あの声が、治療の合間に浮かんだ。薬草を棚から出すとき。蝋燭を替えるとき。患者の名前を紙に書くとき。ふいに浮かんで、消えた。
怒りが湧かないことが、自分でも不思議だった。五年間最下位に据え置かれたのは、ヴェルネイユ家の意図だった。姉はそれを知っていて止めなかった。怒るべき状況だと、頭ではわかる。
でも、怒れなかった。
姉の声を思い出すと、怒りではなく、胸の奥が重くなった。姉が壇上で微笑んでいたのは家のためだった。フィアが壇上に立てなかったのも、家のためだった。姉もフィアも、同じ糸に縛られていた。
ただし、糸の端を握っていたのは姉ではなかった。父と、メゼールと、その上にいる誰かだった。
嫌いになりきれない。
五年間ずっとそうだった。壇上で拍手を浴びる姉を見ても、回廊で完璧な微笑みを向けられても、嫌いにはなれなかった。三つ編みを結んでくれた手を覚えているから。東翼に来て「ここなら少し息がつける」と言った声を覚えているから。
でも今は、嫌いになれないことが自分を苦しめていた。嫌いになれたなら、怒れたなら——姉が望んだように——もっと早く何かが変わっていたのかもしれない。
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朝、患者が来た。
若い女だった。先週足首の捻挫で来た人ではなく、別の女性。肩の痛みを訴えている。
「正廊の掃除をしていて、石柱に肩をぶつけてしまったんです」
「見せてください」
肩に手を当てた。打撲だが、骨には異常がない。腫れが引くまで冷やしてから、患部に乳白色の光を集めた。
「先生の手、あったかいですね」
「治癒の光が集まると温かくなります。痛みが取れるまで少し待ってください」
女性がじっとしていた。フィアの指先から広がる乳白色の光を、目を丸くして見つめていた。
「先生は、いつもこうやって一人で治療しているんですか」
「ええ」
「お一人で大変じゃないですか」
「大変ではありません。慣れています」
嘘ではなかった。五年間、一人で治療してきた。大変だと思ったことはない。ただ、「慣れています」という言葉が、今日は少しだけ違う響きを持った。
慣れたのではなく、慣れなければならなかったのかもしれない。壇上に立てず、他の候補生と一緒に実習することもなく、東翼の奥で一人ずつ診てきた。それが当たり前だと思い込んでいた。
女性の肩の腫れが引いた。紙切れに記録を書いた。
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昼前、レオが駆け込んできた。
いつもより顔色が違った。目が光っている。
「フィアさん。管理棟奥の部屋から書類が見つかりました」
「メゼールの部屋?」
「はい。ルカが委員会に情報を伝えてくれて、今朝、委員会の評議員が管理棟に入りました。メゼールが退任した後も残されていた私物の中に、書類の束が二つ。一つは管理局の内部通達の控え。もう一つは——」
レオの声が低くなった。
「得点調整に関する覚書です」
「覚書」
「日付と候補生の席次が書かれた紙が数枚。第一席に関する記述が大半です。『第一席の得点を上方に修正する。基準値からの上方幅は年次により指定する』という内容が繰り返されています」
フィアは椅子の背を握った。
「第七席については」
レオがフィアを見た。まっすぐに。
「一枚だけ、第七席に関する記述がありました」
「何と書いてあったの」
「『第七席の得点は調整不要。現状の値を維持する』」
フィアの指が白くなった。
「調整不要」
「はい。フィアさんの得点は——操作されていなかった可能性があります。三一二という数字が、聖秤の計測値そのままだったのかもしれない」
フィアは黙った。しばらく何も言えなかった。
五年間、三一二。最下位。操作されたから低いのだと——どこかで思い始めていた。調査が進めば、本来の得点が明らかになると。押さえ込まれていた数字が戻ると。
でも、調整不要。現状の値を維持する。
三一二は、フィアの本当の得点だったのかもしれない。
「……そうですか」
いつもの相槌だった。動揺を飲み込む癖だった。でも今回は、飲み込みきれなかった。声がかすかに震えた。
「フィアさん」
「大丈夫です」
「まだ確定ではありません。覚書は一枚だけです。聖秤が停止している以上、計測値を直接確認する手段がない。覚書が全ての指示を網羅しているとは限らない」
「わかっています」
わかっている。確定ではない。でも、可能性として——フィアの五年間の得点が、操作されていなかったという可能性が、紙の上に記されていた。
百四人の患者を治療した。帳面に記録した。紹介元が増え、症例の複雑さも年々上がった。それでも得点は三一二のままだった。操作されていないのなら——聖秤はフィアの治療を正当に評価して、三一二と計測していたことになる。
しばらく沈黙が続いた。紙切れの上の文字がにじんで見えた。
「レオ。聖秤の採点基準を知っていますか」
「公開されていません。聖秤は自動で計測し、人の手が加わらないとだけ説明されています。基準は候補生にも管理局にも開示されていない」
「では、三一二という数字が何を意味しているのかも、誰にもわからない」
「……はい。今はまだ」
フィアは紙切れに目を落とした。今日の患者の記録。一人分の名前と症状。帳面なら、この横に得点を書くことはなかった。得点はフィアが書くものではなかった。聖秤が刻むものだった。
その聖秤は止まっている。
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夕方、ルカが来た。
「先生、管理棟の部屋のこと聞いたっすか」
「レオから聞きました。ルカのおかげで書類が見つかったそうですね」
「俺は委員会に場所を教えただけっす。先生が言ってくれなかったら、言わなかったっすよ」
ルカは入口に立ったまま、フィアの顔を覗き込んだ。
「先生、大丈夫っすか。目が赤いっす」
「蝋燭の煙です」
「……そうっすか」
ルカはそれ以上聞かなかった。代わりに、上衣のポケットから何かを取り出した。
「先生、これ」
掌の上に、銅のリュール貨が三枚あった。
「俺の今月の手当てっす。帳面代に足りないって言ってたっすよね」
「ルカ——」
「俺は手当てを使うところなんてないっす。飯は技師棟で出るし、上衣も支給っすから」
フィアは口を開きかけて、閉じた。施しを受けるつもりはなかった。でもルカの手は真っ直ぐに差し出されていた。火傷の跡が薄く残る手の甲。フィアが治した手。
「貸してくれるの」
「あげるっす。先生が書けないと、俺の名前も書く場所がなくなるっすから」
フィアの目が熱くなった。
「……ありがとう、ルカ」
銅貨を受け取った。ルカの手の温度が残る三枚の銅貨は、掌の中で少しだけ温かかった。
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夜、自室の机で銅貨を数えた。
引き出しの中の布袋に、今日のルカの三枚を加えた。帳面屋の一番安い革装丁の帳面の値段に、ちょうど届く。
明日、帳面を買いに行ける。新しい帳面。白い頁。一年目の最初の患者のように、また最初の一行から書き始める。
紙切れの束を引き出しから出した。この数日分の記録。折り畳んだ紙が六枚。新しい帳面を手に入れたら、この紙切れの記録も書き写そう。
「調整不要。現状の値を維持する」
あの一行が、夜の静けさの中で何度も戻ってきた。
三一二は、本当の得点だったのかもしれない。姉の得点は操作されて上がった。フィアの得点は、操作されなかった。ただそれだけのことなのかもしれない。
でも、百四人を治して三一二。帳面を五年間書き続けて三一二。毎年欠かさず東翼で患者を診て、一人ずつ手を当てて、記録を書いて。それでも三一二。聖秤は何を見ていたのか。何を測っていたのか。壇上の光の量か。治した人数か。それとも——
わからなかった。聖秤の基準は、二百年前から誰にも開示されていない。
帳面の表紙に触れた。完結した一冊。五年分の記録。三一二が本当の値であろうと操作された値であろうと、この帳面に書いた百四人の名前は変わらない。
明日、新しい帳面を買いに行く。そして書き続ける。得点がいくつであっても。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「調整不要」——この三文字がフィアに与えた衝撃は、得点が低く操作されていたという事実以上に深いものでした。操作されていたなら、本当の自分はもっと高かったと信じられた。でも操作されていなかったなら——五年間の得点は、そのまま自分の評価だったことになります。
ルカの銅貨三枚は、この物語の中で最も素朴な善意です。帳面を買う金を「あげる」と言い切るルカの手は、聖職貴族の政治とは無縁の場所にあります。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




