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万年最下位だった聖女候補、5年目にして採点システムそのものが壊れていたと気づく  作者: 雨宮 彩月


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24/26

糸

姉が東翼を訪れ、フィアに初めて慇懃さの崩れた言葉をぶつける。得点操作を知っていたのか、ヴェルネイユの名が調査で出ることへの恐れ、そしてフィアへの複雑な感情が滲む。フィアは姉の言葉を受け止め切れず、帳面のない治療室に一人残される。

 朝の治療を終えた。


 今日の患者は一人だけだった。昨日来た厨房の見習いの経過確認。傷は閉じていた。化膿もない。紙切れに経過を書いて、引き出しに入れた。


 午前の鐘が鳴った。治療室を出ようとしたとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 硬い靴底の音。でもマティアスの足音とは違う。もっと軽く、もっと速い。聞き覚えのある足音だった。


 角を曲がって姿が見えた。


 銀糸の刺繍が入った儀礼服。亜麻色の髪はフィアより二段明るい。肩は張られ、歩幅は崩れない。五年間、何度も正廊で見てきた姿だった。


「フィア」


 姉が立っていた。東翼の廊下に。


「お姉様」


「入ってもいい」


「……どうぞ」


 姉は治療室に入った。扉を閉めた。椅子には座らなかった。部屋の中を見回した。壁の棚に並んだ薬草の瓶。蝋燭立て。古びた木の机。窓のない壁。


「変わらないのね」


「ええ」


「五年前と同じ部屋」


「同じです」


 姉が机の上に目をやった。紙切れが一枚、端を折って置いてあった。


「帳面は」


「もう余白がありません。新しいものを買えるまで、紙に書いています」


 姉の目がわずかに動いた。何かを言いかけて、口を引き結んだ。それから、フィアを真っ直ぐに見た。


「何か用ですか」


 姉は少し笑った。壇上の微笑みではなかった。もっと小さな、自嘲に近い笑みだった。


「用がなければ来てはいけないの」


「いけなくはありません。でも、お姉様が東翼に来るのは二度目です」


「そうね。五年間で二度目」


 姉が薬草の瓶のひとつを手に取った。ラベルを読み、静かに戻した。


「調査のことで来たの」


「……知っているわ。メゼールという名前が出たことも。委員会がその上を辿ろうとしていることも」


 フィアは黙った。姉の情報の速さに驚いたが、顔には出さなかった。


「お姉様は、メゼールという人を知っていたの」


「名前は知っていた。会ったこともある。管理局にいた頃に、父の名代として正廊に来ていたわ」


「父の名代」


 姉の目がわずかに揺れた。ほんの一瞬だった。すぐにいつもの表情に戻ったが、フィアは見逃さなかった。


「フィア。あなたに聞きたいことがあるの」


「何」


「あなたは、得点が操作されていたと知って——わたくしを恨んでいるの」


 空気が止まった。治療室の蝋燭の炎だけが微かに揺れた。


「恨む」


「五年間、最下位に据え置かれた。壇上に呼ばれなかった。帳面を書き続けても誰にも見てもらえなかった。それが誰かの操作のせいだったと知って、あなたは——」


 姉の声が途切れた。回廊で声を震わせたあの日以来の、慇懃さの崩れだった。ただし今回は、震えではなく、苛立ちに近かった。


「わたくしは書き直しを頼んでいない。それはあの日言った。信じてくれたかどうかはわからないけれど。でもメゼールの上を辿れば、いずれヴェルネイユの名前が出るわ。父の名が。母の名が。家の名前が」


「お姉様——」


「あなたは知らないでしょう。父と母がどれだけの人に頭を下げて、わたくしを第一席に推してきたか。聖女になるのはヴェルネイユ家の義務だと、三代続いた血筋だと。わたくしが壇上で笑っていたのは、笑わなければ家が傾くからよ」


 姉の指先が白くなっていた。握りしめた手。回廊で見たのと同じ手。


「フィア。あなたが帳面を出したとき——わたくしは安堵したの。ようやく終わると思った」


「終わる」


「この芝居が。壇上に立って、微笑んで、得点を誇って——全部。でも同時に怖かった。終わった後に何が残るのか」


 フィアは椅子の背に手をかけた。立っているのが難しかった。


「お姉様は、安堵したの」


「馬鹿みたいでしょう。妹が不正を暴いてくれたことに安堵するなんて。でも自分では止められなかったの。父に逆らえなかった。メゼールに何も言えなかった。壇上から降りることもできなかった」


 姉の声はもう慇懃ではなかった。素の声だった。幼い頃に聞いた、三つ編みの結い方を教えてくれたときの声に近かった。


「わたくしは——あなたのことを、ずっと」


 言葉が途切れた。姉が目を逸らした。蝋燭の灯りが姉の横顔を照らしていた。壇上ではいつも正面から見ていた顔を、横から見るのは久しぶりだった。頬の線が記憶より細い。


「何も知らないまま、東翼で記録を書き続けているあなたを——守っているつもりだったのかもしれない。壇上に出なければ、誰にも目をつけられない。聖職貴族の争いに巻き込まれない。東翼にいれば安全だと」


「わたしを壇上に呼ばなかったのは——」


「わたくしの判断ではないわ。でも、止めなかった」


 フィアの息が止まった。


 壇上に呼ばれなかったのは、得点が最下位だからだと思っていた。レオに聴取で問われたとき、誰の判断かなど考えたこともなかったと答えた。


 姉は知っていた。呼ばれない理由を。そして、止めなかった。


「お姉様は——わたしが壇上に立てないことを知っていたの」


「知っていたわ。知っていて、何もしなかった。あなたが聞かなかったから。あなたが怒らなかったから。帳面を書き続けて、東翼から一歩も出ないで——」


 姉の声がかすれた。


「あなたがそれでいいと言うなら、わたくしはこのまま壇上に立ち続けるしかないと思った。あなたが怒ってくれたら、もっと早く——」


「わたしに怒ってほしかったの」


 姉が黙った。長い沈黙だった。蝋燭の芯が音を立てて弾けた。


「わからないわ。ごめんなさい」


 姉はそれだけ言って、扉を開けた。銀糸の儀礼服の背中が廊下に消えていった。足音が遠ざかった。軽くて速い、聞き覚えのある足音。


---


 フィアは治療室の椅子に座った。


 しばらく動けなかった。


 姉の言葉が頭の中を巡っていた。安堵した。止めなかった。あなたが怒ってくれたら。


 五年間、姉に怒ったことはなかった。羨んだことはある。壇上で拍手を浴びる背中を見て、自分もあそこに立ちたいと思ったことは——なかったと言えば嘘になる。でも怒りは持たなかった。姉が悪いとは思わなかった。


 姉は悪くなかったのだろうか。


 書き直しを頼んでいないと言った。それは本当なのだろう。でも、止めなかった。フィアが壇上に呼ばれないことを知っていて、何もしなかった。


 それは共犯なのか。それとも——


 フィアにはわからなかった。


 立ち上がった。治療室を見回した。壁の棚。薬草の瓶。姉が手に取って戻した瓶がひとつ、わずかにずれていた。直そうとして、やめた。


 姉が触ったものを、そのままにしておきたかった。理由はわからない。


 紙切れを引き出しから出した。今日の患者の記録。一人分の記録の下に余白があった。余白に何も書けなかった。


 帳面があれば、次の頁に逃げられた。新しい患者の記録を書いて、姉のことを考えないふりができた。でも帳面はない。紙切れの余白が、白く残っている。


 父の名代としてメゼールが正廊に来ていたと、姉は言った。父が関わっている。ヴェルネイユ家が関わっている。聖女を三代続けて出した家の四代目として、姉は壇上に立たされていた。


 フィアは四代目ではなかった。次女だった。壇上に立たなくていい方の娘。父と母がどれだけの人に頭を下げたか、フィアは知らなかった。姉が一人で引き受けていたことを、今日まで知らなかった。


 蝋燭の炎が揺れた。治療室は狭くて暗い。五年間ずっとそうだった。でもこの部屋が、姉にとっては「ここなら少し息がつける」場所だったのだ。


---


 夕方、レオが来た。


「フィアさん。委員会からメゼールへの聴取要請が正式に出ました。中央聖務院に文書が送られています。回答は数日中に届くと」


「わかりました」


「……何かありましたか」


 レオの目が、フィアの顔を見ていた。


「姉が来ました」


「お姉さまが。東翼に」


「ええ」


「何を」


「——いろいろなことを」


 フィアはそれ以上言わなかった。レオも、それ以上聞かなかった。窓のない治療室に、二人の間の沈黙だけが満ちた。


「レオ」


「はい」


「メゼールの上を辿ると、誰が出てくるんですか」


 レオの表情が変わった。言いにくいことを飲み込むときの顔だった。


「委員会の調査次第です。ですが、管理局の上に中央聖務院があり、中央聖務院に対して影響力を持つのは——教会の高位聖職者と、それを支える聖職貴族の家々です」


「聖職貴族の家」


「はい」


 レオはそこで言葉を止めた。ヴェルネイユという名前を口にしなかった。フィアも聞かなかった。


「わかりました。ありがとう、レオ」


「フィアさん。無理はしないでください」


「無理ではありません。……ただ、今日は少し疲れました」


 レオが頭を下げて帰っていった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


姉がフィアに本音をぶつけた回です。慇懃な仮面を脱いだ姉の声は、壇上の優等生のものではなく、三つ編みを結ってくれていた頃のお姉さんの声でした。


「あなたが怒ってくれたら」——この言葉は、姉自身も答えが出ていない問いです。フィアに怒ってほしかったのか、それとも怒らないでいてくれたからこそ五年間持ちこたえられたのか。姉妹の感情は、善と悪では割り切れない糸のように絡み合っています。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!

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