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万年最下位だった聖女候補、5年目にして採点システムそのものが壊れていたと気づく  作者: 雨宮 彩月


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23/25

鎖

調査委員会がドレの証言を元に管理局上層部の追及を開始。ドレが得点操作の指示系統について供述し、管理局の上に別の力が働いていたことが示唆される。フィアは帳面なしの日常を送り、レオから調査の進展を聞く。

 朝、患者が来た。


 膝の老婆の隣人だった。先週から通い続けている。フィアは治療室の扉を開け、隣人を中に入れた。


 膝に手を当てた。こわばりは前回より軽い。温めて、ほぐして、指先で経路を確かめた。


「先生、今日もいい手ですね」


「ありがとうございます。来週もう一度診せてください。経過を見たいので」


 隣人が帰った後、フィアは机に向かった。


 帳面がない。


 引き出しから紙を一枚出した。管理局の追加通達に使われていた用紙の裏だった。白い面に、隣人の名前と症状と処置を書いた。昨日の老婆の分も書いた。二人分の記録が、一枚の紙の上に並んだ。


 帳面に書くのとは勝手が違った。紙は一枚だから、綴じ目がない。風で飛ぶ。留め金もない。机の端に置いておくしかなかった。


 五年間、帳面を開いて書いて閉じる。その動作の繰り返しが日常だった。帳面がないと、日常の輪郭がぼやける。


 二人目の患者が来た。若い男で、手の甲を切っていた。厨房の見習いだと言った。


「東翼はここでいいんすか。正廊の方で聞いて来たんすけど」


「ここです。手を見せてください」


 傷は浅いが、刃物の切り口が汚れていた。水で洗い、布で拭いてから治癒をかけた。若い男の手の甲に乳白色の光が集まり、傷口がゆっくりと閉じていった。


「すげえ。痛くない」


「明日も来てください。化膿していないか確認します」


 若い男が帰った後、紙にもう一人分の記録を書いた。名前。症状。処置。紙の端が足りなくなりかけて、文字を小さく詰めた。帳面なら、次の頁をめくればよかった。


---


 昼過ぎ、レオが来た。


 いつもより足が速かった。治療室の扉を叩く音も、いつもより強い。


「フィアさん。調査委員会から報告が出ました」


「報告」


「ドレの供述です。昨日の午後、委員会がドレに対して改めて聴取を行いました。職務停止中ですが、証言の義務はありますので」


 レオは椅子に座らずに立ったまま話した。


「ドレは、得点記録の書き直しについて、自分一人の判断ではなかったと供述しました」


「一人の判断ではなかった」


「管理局の上席——ドレの上にあたる者から、特定の候補生の得点を調整するよう指示を受けていた、と。時期は三年前からです」


 三年前。姉の得点に書き直しが見つかった期間の年数と一致する。


「指示を出した者の名前は」


「ドレは名前を出しました。管理局の前任の局長、ジャン=ポール・メゼールという人物です。局長はドレの管理官就任以前に退任しています。現在は教会の中央聖務院に在籍していると」


「中央聖務院」


「教会の行政を統括する部署です。管理局はその下部組織にあたります。つまり、管理局の上の判断であったという供述です」


 フィアは紙の上に書いた記録に目を落とした。帳面ではない、一枚の紙。


「その人が、姉の得点を上げるよう指示したということですか」


「ドレの供述ではそうなっています。ただし、メゼール自身がどこからの意向で動いていたかは、まだわかっていません。委員会はメゼールへの聴取を要請する方針です」


「どこからの意向」


「ドレは、メゼールが個人の判断で動いていたとは思えないとも言っています。メゼールは実務家で、管理局の帳簿を自分の判断で書き直すような立場ではなかったと」


 フィアは治療室の壁に目をやった。管理局の上に中央聖務院があり、その上には——教会の政治がある。


「管理局は聖秤の管理と得点の記録を担う部署です。得点を操作する権限は、本来誰にもない。聖秤は自動で計測し、人の手が加わらないのが前提ですから。それを破ったのがドレであり、ドレに指示を出したのがメゼールだとすれば——メゼールに指示を出した者がさらに上にいる」


「鎖のように繋がっている」


「そうです。委員会はその鎖を辿ろうとしています」


「レオ。メゼールという人のことを、わたしは知りません」


「フィアさんが知らないのは当然です。管理局の内部人事は候補生には開示されません。メゼールがドレに具体的にどう指示したか——どの候補生の得点をどう操作したかの詳細は、これから委員会が詰めていくことになります」


「わたしの得点を押さえたのも、同じ指示ですか」


 レオが黙った。少しだけ、目を逸らした。


「ドレの供述では、『第一席の得点を上方修正する』指示があったとだけ述べています。第七席の得点を押さえる指示があったかどうかは、まだ明言されていません」


「……そうですか」


 いつもの相槌が出た。動揺を飲み込む、五年間の癖だった。


 レオが机の上の紙に目を留めた。


「フィアさん、それは」


「今日の患者さんの記録です。帳面がないので、紙に書いています」


 レオが紙の上の小さな文字をしばらく見ていた。


「帳面屋には」


「まだ足りません。銅貨が三枚」


 レオが何か言いかけて、口を閉じた。フィアはその視線を受け流した。施しを受けるつもりはなかった。銅貨は自分で貯める。帳面は自分で買う。五年間ずっとそうしてきた。


---


 夕方、ルカが来た。


「先生、俺の聴取終わったっす」


「お疲れさま。どうだった」


「底板のこと話しました。管理棟の裏で箱見たことも。あと、報告書を三回書き直して出せなかったことも」


「全部話せた?」


「全部っす。書記官の人が全部書いてくれました。……先生の言ったとおりだったっす。見たまま話したら、ちゃんと聞いてくれた」


 ルカの顔が少しだけ明るかった。フィアは頷いた。


「ルカ。一つ聞いてもいい」


「はいっす」


「ドレ管理官に報告書を出そうとしたとき、ドレの上の人——管理局の前の局長のことを聞いたことはある?」


 ルカが首を傾げた。


「局長っすか。俺は見習いなんで、管理官より上の人は知らないっす。でも、管理棟の奥に使われてない部屋があって、前の局長の荷物がまだ残ってるって夜番の先輩が言ってたことあるっす」


「荷物」


「書類とか、箱とか。退任したのに片づけてないって」


 フィアは紙に書いた記録の横に、小さくメモを書き足した。前任局長。管理棟奥の部屋。残された荷物。


「ルカ、その部屋は今も入れるの」


「鍵はかかってないっすよ。でも管理棟自体が今は評議会の管理下だから、勝手に入ったらまずいかもしれないっす」


「そうね。委員会に伝えた方がいいかもしれない」


「レオさんに言えばいいっすか」


「お願いします」


 ルカが頷いて帰っていった。扉が閉まった後、フィアは紙の上のメモを見た。メゼールという名前を、初めて書いた。知らない人の名前だった。五年間、自分の得点を決めていたかもしれない人の名前を、今日まで知らなかった。


---


 夜、自室に戻った。


 机の上に、一枚の紙がある。今日の患者二人分の記録。帳面の代わりの紙切れ。


 レオの話を整理した。ドレの供述。指示を出した前任局長メゼール。中央聖務院。その上に何があるのか。


 三年前から、姉の得点を上方修正する指示があった。姉が書き直しを頼んでいないと言ったのは、本当だったのだ。姉の上で誰かが動いていた。


 では、フィアの得点は。五年間、三一二で不動だったのは。上方修正の裏返しで、下方に押さえられていたのか。それとも、そもそも聖秤の値がそのままだったのか。


 聖秤は止まっている。元の値を確認する手段はない。帳簿は焼かれた。残っているのはレオの写しと、フィアの帳面だけ。


 帳面に手を伸ばしかけて、止まった。帳面はもう閉じている。余白のない、完結した一冊。開いたところで、もう書く場所はない。


 代わりに、今日の紙切れを丁寧に四つに折って、引き出しの中に入れた。帳面がなくても、記録は続ける。紙切れの上でも。


 今日の患者は三人。膝の隣人と、厨房の見習いと、午後に来たもう一人。帳面なら一頁に三人分を並べて書けた。紙切れでは端が足りなくなった。明日からは最初から紙を二枚用意しておこう。


 メゼールという名前が頭に残っていた。管理局の前任局長。ドレに指示を出した者。その上にさらに誰かがいる。鎖のように繋がっている、とフィアは言った。自分の言葉だった。


 鎖の先に何があるのか。誰が、何のために、姉の得点を上げ続け、フィアの五年間を最下位に据え置いたのか。


 窓のない壁に目をやった。東翼には窓がない。五年間ずっとそうだった。でも今は、壁の向こうに何があるのかが少しだけ見え始めていた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


第3アーク「姉妹編」のスタートです。


ドレの供述は、不正の根が管理局の一人の判断ではなかったことを示しています。前任局長メゼール、中央聖務院——鎖を辿るように、操作の指示系統が上へと伸びていきます。


一方フィアは、帳面のない日常を過ごしています。紙切れに書く記録は帳面とは違います。でも、書くことは止めない。帳面がなくなっても記録を続けるフィアの姿が、このアークの静かな軸になっていきます。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!

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