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聴取の日。フィアは五年間の治療について証言し、壇上に呼ばれなかった理由を初めて問われる。聴取後、正廊で名前を呼ばれ始め、帳面の最後の余白が埋まる。五年間の帳面が完結し、東翼の夜に静かな困惑だけが残る。
水曜日の朝、フィアは帳面を腕に抱えて東翼を出た。
聴取は午前の鐘の後。評議の間。レオが扉の前で待っていた。
「おはようございます。先に入って、席の場所を確認しておきました。証人席は奥に向かって右手です」
「証人席」
「椅子が一脚と、小さな机があります。帳面を置けるようになっています」
フィアは頷いた。帳面の留め金に指が触れた。使い込んだ革の手触りが指先に馴染む。五年分の重さが、いつもより腕にかかった。
「フィアさん」
「はい」
「聞かれたことに、そのまま答えてください。飾る必要はありません」
「わかっています」
レオが少しだけ笑った。いつも通り淡々としたその顔に、今日だけわずかな力みがあった。
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評議の間に入った。
前回の臨時招集のときは候補生が横一列に並んでいたが、今日は違った。部屋の中央に椅子が一脚と小さな木の机。その向かいに、評議員が三人座っている。中央はマティアス。両隣に年配の評議員が一人ずつ。
壁際に書記官が二人控えていた。羽根ペンと紙を構えている。証言を記録する者たちだった。
フィアは証人席に座った。帳面を机の上に置いた。
「フィア・ヴェルネイユ殿。本日は調査委員会の聴取に応じていただき感謝する」
マティアスの声は穏やかだった。
「いくつか確認をしたい。まず、あなたの治療実習の場所について。五年間、東翼の治療室を使い続けていたということでよいか」
「はい」
「東翼を選んだ理由は」
「割り当てられました。候補生は入室の際に実習室を指定されます。わたしは東翼でした」
「他の候補生は正廊の実習室を使っている。東翼は正廊から最も遠い。配置の変更を申し出たことは」
「ありません」
「なぜ」
フィアは少し考えた。
「患者さんが来てくれましたから。場所が遠くても、治療に支障はありませんでした」
マティアスが頷いた。書記官の羽根ペンが紙の上を走る音が聞こえた。
「次に、壇上の件について。五年間、正廊の壇上に一度も呼ばれなかったと聞いている」
「はい」
「壇上に呼ばれる基準は何か。あなたはどう理解していたか」
「得点の高い者から順に呼ばれると聞いていました。わたしは最下位でしたので、順番が回ってこないのは当然だと思っていました」
「壇上に立ちたいと思ったことは」
「……ありませんでした」
嘘ではない。壇上に立ちたいとは思わなかった。ただ、自分の治療を誰かに見てほしいとは思った。それは壇上とは別のことだった。
年配の評議員の一人が口を開いた。
「候補生が東翼に配置された経緯について、管理局の記録は残っているか」
マティアスが首を横に振った。
「現時点では確認できていない。管理局の配置記録は、焼却された書類に含まれていた可能性がある」
評議員が眉を寄せた。フィアは椅子の背に手を置いたまま、その言葉を聞いていた。配置を決めた記録すら、もうないのだ。
「帳面について伺いたい。この記録はあなたが自発的に始めたものか」
「はい。一年目の最初の患者を診たときから書き始めました」
「記録をつけるよう指導されたことは」
「ありません。他の候補生が記録をつけているかどうかも知りません」
「では、なぜ記録をつけ始めたのか」
フィアの指が帳面の表紙を撫でた。
「診た患者さんのことを覚えていたかったからです。名前と、症状と、どう治したかを」
マティアスが帳面を見た。五年分の厚みを持った、角の擦り切れた革装丁の帳面。
「最後に一つ。あなたの得点が五年間三一二で不動であったことについて。この事実を、いつ知ったか」
「今年の結果が掲示されたときです。五年分の数字が並んで初めて、動いていないことに気づきました」
「それまでは気づかなかった」
「毎年の数字は覚えていました。でも並べて比べたことがなかったので」
「得点が操作されていた可能性については」
「考えたことがありませんでした」
マティアスが沈黙した。書記官のペンが止まった。しばらくして、マティアスが口を開いた。
「フィア殿。もう一点だけ。聖秤の得点が正しく反映されていたならば、あなたの五年間は違うものになっていたと思うか」
フィアは答えなかった。しばらく黙っていた。
「……わかりません。得点が違っていたら壇上に呼ばれていたかもしれません。でも、わたしが診た患者さんは変わりません。帳面に書いたことも変わりません」
マティアスが静かに頷いた。
「聴取は以上です。ありがとうございました」
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評議の間を出た。
正廊の広間を横切ろうとしたとき、声をかけられた。
「フィア・ヴェルネイユさん」
振り向いた。知らない顔の聖職者だった。中年の男で、管理局の法衣とは違う仕立てを着ている。
「今日の聴取、お疲れさまでした。お体に障りがなければよいのですが」
「……ありがとうございます」
男が去った後、また別の声がした。
「ヴェルネイユ殿」
今度は若い神官だった。頭を下げて通り過ぎていった。
フィアは足を止めた。
五年間、正廊を歩いて声をかけられたことはなかった。東翼に向かう渡り廊下で誰かとすれ違うことはあっても、名前を呼ばれることはなかった。第七席。最下位の候補生。それだけだった。
今は、名前を呼ばれる。
望んだことだったのかどうか、自分でもわからなかった。
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東翼に戻ると、治療室の前にルカがいた。
「先生、聴取どうだったっすか」
「聞かれたことに答えてきました」
「俺のは明後日っす。底板のことと管理棟のことを話してくれって」
「そのまま話せばいい。ルカが見たことと触ったことを」
ルカが頷いた。それから、治療室の扉の横に目をやった。
「先生、患者さん待ってるっすよ」
扉の前に、一人の老婆が座っていた。膝を押さえている。先週も来た隣人ではない。初めて見る顔だった。
「東翼の先生を探してきたんだよ。正廊の方に聞いたら、こっちだって教えてくれて」
フィアは扉を開けた。
「どうぞ。お入りください」
老婆の膝を診た。関節のこわばりだった。温めながら、ゆっくりほぐした。
帳面を開いた。最後の頁。残っていた半行の余白。
老婆の名前と、症状と、処置を書いた。文字は小さかった。最後の一文字が頁の端にぎりぎり収まった。
帳面の余白が、なくなった。
一年目の最初の患者から始めて、五年目の今日まで。一冊の帳面が、埋まった。
老婆が頭を下げて帰っていった。フィアは帳面を閉じた。留め金を止めた。いつもと同じ手つきで、いつもと同じ音がした。
ただ、もう次の頁はなかった。
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夜、自室の机に帳面を置いた。
引き出しの中の布袋を開けた。銅貨を数えた。あと三枚。足りない額は変わっていない。
帳面に手を置いた。重かった。紙の重さではなく、五年分の名前の重さだった。
聴取でマティアスに聞かれた。得点が正しければ、五年間は違っていたかと。
わからない、と答えた。今もわからない。壇上に呼ばれていたら、正廊で演示をしていたら、東翼にいなかったかもしれない。この帳面を書いていなかったかもしれない。
けれど帳面を書かなかった五年間を、想像できなかった。
窓の外、大聖堂の方角は暗かった。聖秤は止まったままだった。調査委員会が動き始めている。管理局は解体されかけている。姉は——
姉のことを考えると、息が浅くなった。
書き直しを頼んでいない、と姉は言った。あの声の震えは本当だった。では、誰が。なぜ。姉を担ぎ上げて、フィアの数字を押し込めて、五年間も気づかせなかった者がいる。
その答えは、まだ見えない。
帳面の留め金に触れた。これは終わった帳面だ。五年分の記録。百四人の患者と、無数の症状と、毎日の手仕事。この一冊に収まった。
明日から、帳面がない。
患者は来る。正廊から回されてくる人も、東翼を探して来る人も。診ることはできる。けれど書く場所がない。
布袋の銅貨を握った。冷たかった。あと三枚。
名前を呼ばれるようになった。帳面は証拠になった。聴取では五年間のすべてを語った。それなのに、達成感も安堵も湧いてこなかった。ただ、困惑だけがあった。
五年間、東翼で帳面を書き続けていた頃は、こんな気持ちにはならなかった。誰にも知られていない方が楽だったとは言わない。けれど、知られた今が楽だとも思えなかった。
蝋燭を消した。暗闇の中で、帳面の輪郭だけがぼんやり見えた。
明日は、新しい一日だ。帳面のない、初めての朝。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2アーク「機能停止編」はこの話で完結となります。聖秤の停止から始まった15話の物語は、フィアを東翼の奥から正廊の広間へと引き出しました。
聴取の最後の問い——「得点が正しければ、五年間は違っていたか」。フィアの答えは「わからない」でした。見返してやった、という勝利宣言ではなく、静かな困惑のまま、この章は閉じます。
帳面が一冊、埋まりました。でも新しい帳面はまだ手に入っていません。次のアーク「姉妹編」では、帳面の向こう側にあるもの——数字を歪めた者の正体と、姉妹の本当の関係に踏み込んでいきます。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




