委
教会評議会が不正調査委員会の設置を正式に発表。管理局の関与者が名指しされ、ドレが管理官の職を解かれる。フィアは調査の証人として名が挙がり、東翼の日常が変わり始める。
正廊の広間に通達が張り出された。
聖秤管理局における得点記録の不正操作の疑いについて、教会評議会は不正調査委員会を設置し、候補生七名の五年分の得点記録を全面的に再検証する。委員会は評議員三名を中核とし、外部の記録鑑定士を招聘する。調査期間中、管理局の帳簿および関連書類は評議会の管理下に置かれる。
通達を読む人だかりが、朝からできていた。聖職者が数人、管理局の者が数人、そして候補生の姿もあった。第六席の少女が通達を読み終えて、振り向いた。フィアと目が合った。何か言おうとして口を開き、けれど人混みに紛れて出ていった。
フィアは人だかりの後ろに立って、文字を読んだ。隣にレオがいた。
「正式に出ましたね」
「……ええ」
「管理局の関与者として、管理官ドレと上席二名の名前が挙がっています」
「ドレ管理官は」
「調査期間中、管理官の職務を停止。事実上の解任です。後任は評議会の指名する代行者が務めると」
レオの声は低く、抑えられていた。ドレに報告を退けられた日のことを、フィアは覚えている。ルカの三回書き直した報告書を受け取らなかった管理官。
通達の最後の段落に、小さな文字で書かれていた。
調査にあたり、証人として以下の者の協力を求める。記録管理担当下級神官レオ。第七席候補生フィア・ヴェルネイユ。大聖堂技師見習いルカ。
自分の名前が、通達の中にあった。正廊の広間に、自分の名前が。
五年間、正廊の壇上に名前が呼ばれたことは一度もなかった。演示の順番が回ってくることもなかった。正廊で自分の名前を見るのは、これが初めてだった。
けれど、壇上に呼ばれたのではない。証人として呼ばれたのだ。
レオがフィアの横顔を見た。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。……慣れないだけです」
---
東翼に戻ると、治療室の前に患者が三人待っていた。
一人は膝の老婆の隣人。二人目は背中の痛みを訴える中年の男。三人目は、顔に見覚えのない若い女。
「先生、今日もよろしくお願いします」
老婆の隣人が頭を下げた。背中の男も、若い女も、同じように頭を下げた。
フィアは治療室の扉を開けた。
「どうぞ。順番にお入りください」
一人目の隣人を治療し、帳面に記録した。二人目の背中の男を治療し、帳面に記録した。三人目の若い女は足首の捻挫で、正廊の石段で転んだのだと言った。
「最近、石段で怪我をされる方が多いです。朝露で滑りやすくなっていますから、気をつけてください」
「はい。……先生は、あの通達に名前が出ていた方ですか」
フィアの手が止まった。
「ええ」
「すごいですね」
「すごくはありません。聞かれたことに答えるだけです」
「でも、五年間ずっと記録を書き続けていたんですよね。門前の井戸番のおじさんに聞きました。東翼の先生は丁寧に診てくれるって」
「……そうですか」
若い女は足首の包帯を巻き直して立ち上がった。扉の前で振り向いて、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。また来てもいいですか」
「いつでも」
扉が閉まった。
帳面を閉じた。最後の頁。余白はあと半行。三人分の記録を詰めて書いたから、文字が普段より小さい。
---
午後、レオが来た。
「フィアさん。調査委員会から、来週の聴取の日程が届きました」
「聴取」
「証人としての聞き取りです。帳面の内容と、五年間の治療の実態について」
「帳面はもう照合が終わっているのでは」
「照合は記録の正確さの確認です。聴取は別の目的です。得点の操作がいつ・誰の手で行われたかを特定するために、候補生の治療の実態を証言として記録に残す。帳面に書かれていることだけでなく、書かれていないことも含めて」
フィアは椅子の背にもたれた。
「書かれていないこと」
「たとえば、正廊の実習室から回されてきた患者が、なぜ東翼に来たのか。誰の判断で回されたのか。フィアさん自身は壇上に一度も呼ばれなかったが、それは誰の判断だったのか」
五年間、一度も考えたことのない問いだった。壇上に呼ばれないのは、得点が最下位だからだと思っていた。それ以上のことは考えなかった。考える必要がないと思っていた。
「わかりました。聴取に応じます」
「日程は来週の水曜日です。場所はまた評議の間になると思います。帳面を持参してください。補助資料として」
「帳面の余白が、もうほとんどないのですが」
レオが目を丸くした。
「もう? 五年分の帳面が?」
「最後の頁に半行だけ残っています」
「……新しい帳面は」
「まだ買えていません」
レオは少し黙った。それから、かすかに頷いた。
---
ルカが夕方に来た。
「先生、通達見たっす。俺の名前もあったっす」
「ルカも証人として呼ばれるの」
「はいっす。底板の異変のことと、管理棟で見たことを聞かれるんだと思います。……先生、俺、ちゃんと話せるっすかね」
「話せますよ。ルカは見たことをそのまま言えばいい」
「そのまま」
「そう。底板が熱かったこと。管理官に報告したこと。管理棟の裏で箱を見たこと。見たまま、感じたまま」
ルカが口を引き結んだ。しばらく黙っていた。
「俺、あのとき管理官に報告書出そうとしたんすよ。三回書き直して。でも受け取ってもらえなかったっす」
「覚えています」
「あの報告書、管理棟にあるはずだったのに——もう焼かれたかもしれないっすよね」
「かもしれない。でもルカの言葉は残っている。証人として話せば、紙がなくても記録になります」
ルカの目が少し広がった。
「……そうっすか。紙がなくても」
「ええ。帳面も紙です。でも帳面がなくなっても、わたしが診た患者さんは実際にいた。ルカが焼けた底板を触ったのも、本当のことです。本当のことは、紙がなくなっても消えません」
自分で言いながら、この言葉がどこから来たのかわからなかった。帳面がなくなっても——そんなことを言えるようになったのは、いつからだろう。管理棟の裏手で灰を見たときか。姉の声が震えたときか。
ルカが口を結んだまま、しばらくフィアを見ていた。
「先生」
「はい」
「俺、管理官に報告したとき、『記録には残しておく』って言われたんす。でも記録に残したかどうかもわからないし、報告書も受け取ってもらえなかった」
「ええ」
「でも俺が底板で火傷したのは本当だし、先生に治してもらったのも本当っす。そのことが先生の帳面に残ってる」
「残っています」
「だったら——やっぱり帳面はすごいっすよ。俺みたいなのの名前も、ちゃんと書いてくれてるんすから」
フィアの喉が詰まった。
「ルカの名前は、ちゃんと書いてあります」
ルカが頭を下げた。
「がんばるっす」
「がんばらなくていい。本当のことを言えばいいだけです」
---
夜、治療室の鍵を閉めて自室に戻った。
帳面を机の上に置いた。
通達に自分の名前があった。証人として。五年間、東翼の奥で帳面を書き続けてきた候補生の名前が、正廊の広間に張り出された通達に載っている。
望んだことではない。帳面は見せるために書いたのではない。けれど帳面を開いて見せたのは自分の判断だった。誰にも強いられていない。
帳面の留め金を開けた。最後の頁。余白の半行が目に入った。
明日、新しい患者が来たら——この帳面には、もう書けない。
机の引き出しを開けた。布の袋。中に銅のリュール貨が入っている。新しい帳面を買うために、少しずつ貯めてきた。
一枚、二枚と数えた。帳面屋の店先で売っている一番安い革装丁の帳面の値段に、あと銅貨三枚分足りない。
五年間、少しずつ貯めてきた。候補生の手当てから、薬草の補充や蝋燭の買い足しを引いて、残った分を入れてきた。新しい帳面を買うことだけが、この銅貨の使い道だった。
銅貨を袋に戻した。引き出しを閉めた。
窓の外は暗かった。大聖堂の方角に、聖秤の明滅はもう見えない。停止してから、ずっと暗いままだった。
聴取は来週の水曜日。レオの言葉が戻ってきた。書かれていないこと。壇上に呼ばれなかったのは、誰の判断だったのか。五年間、考えもしなかった問いが、今は重い。
蝋燭の灯を消す前に、帳面の表紙に手を置いた。革の角が擦り減って白くなっている。五年分の手の温度が染みた表紙。
明日のことは、明日考える。今日の患者三人は診た。帳面に書いた。それだけでいい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
調査委員会の設置は、不正が「疑い」から「調査対象」に格上げされたことを意味します。フィアにとっては、五年間の日常がもう元には戻らないという現実が、通達の文字として突きつけられた瞬間でもあります。
ルカとの会話で出てきた「本当のことは、紙がなくなっても消えません」——フィアがこの言葉を言えるようになったこと自体が、この物語の静かな変化です。帳面は記録です。でも記録の裏にある事実は、記録がなくても在り続ける。そのことを信じられるようになった。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




