罅(ひび)
帳面の詳細照合の日。姉が評議の間でフィアに声をかけ、二人きりの場面で初めて余裕の仮面が剥がれる。五年間崩れなかった姉の声が震えた、一度きりの瞬間。
帳面の詳細照合は、評議の間で行われた。
昨日と同じ樫の扉を開けた。評議の間はがらんとしていた。候補生の列も、管理局の者たちもいない。石の柱と長い机と椅子だけが残っている。部屋が広く感じた。
マティアスと二人の評議員が長い机に座り、フィアは向かいの椅子に座った。帳面を机の上に開いて置いた。
マティアスが頁をめくりながら、患者の名前と症状を一件ずつ読み上げた。フィアは、問われるたびに答えた。
「この膝の老婆、初診は一年目の秋か」
「はい。聖堂区の北にお住まいの方です。月に一度通ってこられていました」
「治癒回数は合計で——」
「十四回です。四年目の春に杖なしで歩けるようになられて、それ以降はいらしていません」
マティアスの指が頁の上を走った。書式の正確さ、日付の連続性、筆跡の一貫性を確認しているのだろう。
「三年目以降、症例の複雑さが上がっている。この二年目の冬の記録、咳の症状の男。治療回数が八回に及んでいる」
「気道の奥に炎症が残り続けていた方です。薬草だけでは届かず、治癒を併用しました」
「治癒の所見が記録されている。『光の到達範囲、気管の分岐部まで確認。前回より奥まで届いた』。これは通常、候補生が記録する内容ではない」
「……自分が次に同じ症状を診たとき、参考になると思ったので」
隣の評議員が身を乗り出した。
「この記録は自己研鑽のためか、それとも誰かに教えられたのか」
「誰にも教わっていません。最初の年から一人で書いてきました」
評議員が黙った。マティアスが次の頁をめくった。
「四年目。この頁に『紹介元:第三席の実習室、午後の混雑時』とある。回されてきた患者の記録に、紹介元が記載されている」
「誰から回されたかを書き留めておくと、次に同じ方が来たときに説明が要りませんから」
「実務的な判断だ」
マティアスの声に感情はなかった。評価でも批判でもない、ただの確認。
照合は午前いっぱい続いた。五年分の帳面、すべての頁を一枚ずつめくった。フィアは問われるたびに答えた。患者の名前を覚えているか、と問われれば答えた。症状の経過に矛盾はないか、と問われれば帳面を開いて示した。
最後の頁——昨日書き足したばかりの、右膝の筋違いの女の記録——まで確認し終えると、マティアスが帳面を閉じた。
「内容に矛盾はない。記録として完全だと判断する」
帳面をフィアに返した。
「ありがとうございました」
受け取った帳面は、自分の手の温度とは違う体温が移っていた。マティアスの手のものか、テーブルのものか。
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評議の間を出た。レオが廊下で待っていた。
「終わりましたか」
「ええ。矛盾はないと」
「そうだろうと思っていました」
レオが小さく笑った。この数日で初めて見る笑顔だった。
「東翼に戻りますか」
「少し歩いてから戻ります」
レオは頷いて、渡り廊下のほうへ去った。
正廊は午後の光に包まれていた。石柱の影が長く伸びている。壇は幕が下ろされたまま。聖秤が止まってから、一度も開かれていない。
渡り廊下に向かおうとしたとき、声がした。
「フィア」
姉だった。
石柱の陰に立っていた。銀糸の儀礼服が、柱の影に半分溶けている。
「姉さま」
「待っていたの」
姉の声はいつも通りだった。低く、落ち着いていて、どこにも隙がない。
「話があるの。少しだけ」
フィアは頷いた。姉が歩き出した。正廊の奥ではなく、横の回廊へ入っていった。中庭に面した回廊。蔦の葉はすべて落ちて、石壁と枯れた蔓だけが残っていた。
人の気配がなかった。中庭の向こうに枯れた薬草の畑が見えた。東翼で使う薬草の一部は、あの畑から採っている。
姉が足を止めた。振り向いた。
「帳面の照合、終わったのね」
「はい」
「矛盾はなかったでしょうね。あなたは嘘が書けない人だもの」
フィアは何も言わなかった。
姉の目がフィアの腕の中の帳面に落ちた。同じ目だった。評議の間の扉の前で、帳面を見たときと同じ目。
「あの書き直しのこと」
フィアの心臓が跳ねた。
「わたくしは頼んでいないわ」
姉の声が、ほんの少し高くなった。いつもの低い声ではない。
「得点を書き直してほしいと頼んだことは一度もない。誰かがやったのだとしても、わたくしの知らないところで」
「……姉さまが頼んでいないことは、わかっています」
「わかっている?」
姉の目が細くなった。
「何がわかるの。あなたに」
フィアの唇が動いた。
「全部はわかりません。でも、姉さまが——壇上で笑っているとき、本当に笑っていたかどうかは、わかります」
姉が息を呑んだ。
声が震えた。
五年間、一度も震えなかった声が。壇上で光の治癒を披露するときも、聖職者に称えられるときも、掲示板の前で微笑むときも、一度も揺れなかった声が。
「あなたはずっと東翼にいたでしょう。正廊の壇にも上がらず、誰にも見られず、帳面だけを書いて。わたくしが何を背負っているか、あなたは知らない」
姉の手が自分の右手を握った。あの夜、東翼でフィアに診せた右手。魔力経路が細り、末端まで届かなくなった手。
「ヴェルネイユの名。三代続いた聖女の家系。第一席の重さ。父上が何を望んでいるか。母上がどんな顔をするか。あなたは知らなくていいように、わたくしが引き受けてきたのよ」
フィアの足が一歩退いた。退いて、止まった。
「姉さま」
「何」
「……姉さまの右手は、治りましたか」
姉の目が見開かれた。
声が止まった。唇が震えた。姉の手が、握りしめた右手を背中に隠した。
「——治ったわ」
嘘だった。フィアにはわかった。あの夜、東翼で診た手。搾り続けた痕。一度失った末端の経路は戻らない。
「そう」
フィアはそれ以上言わなかった。
姉の目に涙が浮いていた。こぼれなかった。姉は泣かない。五年間、一度も泣かなかった。涙は浮いても落ちない。それが姉だった。
姉が背を向けた。
「帳面を大事にしなさい。あなたの記録は——正しいのだから」
足音が遠ざかった。速くも遅くもない、いつもと同じ歩調。背筋は真っ直ぐだった。
けれど右手だけが、かすかに震えていた。
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フィアは回廊の石壁にもたれた。枯れた蔓が肩に触れた。
帳面を胸に押し当てた。革の表紙が冷たかった。
姉は頼んでいないと言った。
嘘をつける人ではないことを、フィアは知っている。得点を書き直してほしいと頼んだことはない——それは、たぶん本当だ。
けれど、誰かが書き直した。そしてその書き直しの恩恵を、姉は五年間受けてきた。知らなかったとしても、得点はヴェルネイユ家の長女を第一席に留め続けた。
姉が背負ってきたもの。フィアが知らなかったもの。知らないようにと姉が引き受けてきたもの。
そして、それでも——得点は操作されていた。姉が頼んでいなくても。姉が知らなくても。三一二という数字はフィアの五年間に貼り付き、姉の得点は持ち上げられた。
フィアの目から涙がこぼれた。姉と違って、止められなかった。
壁に背を預けたまま、声を殺して泣いた。帳面の革表紙に顔を押しつけた。五年分のインクの匂いがした。
姉のことが憎いのではない。姉を告発したいのでもない。ただ、五年間の数字が——自分のも姉のも——誰かの手で歪められていたことが、胸の底に冷たく溜まった。
泣き終わるまで、誰も通らなかった。中庭の向こうで、鐘が午後の時を告げた。
目を袖で拭った。帳面の表紙を確かめた。涙の痕はついていなかった。
立ち上がって、渡り廊下を歩いた。東翼の入口が見えた。
ルカが石段に座って待っていた。
「先生、おかえりなさいっす。照合、終わったんすか」
「終わりました。矛盾はなかったそうです」
「当たり前っすよ。先生が嘘書くわけないっす」
ルカが勢いよく立ち上がった。治療室の扉を開けてくれた。
机の上に薬草の束が置かれていた。レオが届けてくれたのだろう。いつもの紐で束ねてある。
帳面を机に戻した。椅子に座った。
治療室は静かだった。蝋燭の火が揺れている。ここは何も変わっていない。窓のない、天井の低い、正廊から一番遠い部屋。
五年間ずっとここにいた。
帳面の留め金に指をかけた。開いた。最後の頁。昨日の膝の女の記録の下に、まだ余白がある。
余白は、あと一行分だった。新しい帳面のために貯めていた銅貨のことを思い出した。
【あとがき最後まで読んでいただきありがとうございました。
この場面はアーク2を書き始めたときからずっと頭にありました。姉の仮面が剥がれるのは一度きり。そしてフィアが泣くのも、ここが初めてです。
「あなたは知らなくていいように、わたくしが引き受けてきたのよ」——この言葉が嘘か本当か、姉自身にもわからないのだと思います。家の期待を背負って壇上に立ち続けた五年間は確かに重かった。でもその重さの中で、誰かが自分の得点を書き直していたことを、本当に知らなかったのか。それは次のアークまで明かされません。
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