灰
評議会の調査決定の翌朝、管理棟の裏手で焼却の痕跡が見つかる。管理局の証拠隠滅が露見し、フィアの帳面が消された記録の代わりとなる唯一の完全な証拠として位置づけられる。
翌朝、東翼に焦げた匂いが流れてきた。
窓のない治療室でも、扉の隙間から入り込んでくる。紙を焼いた匂い。薬草の乾いた香とも、蝋燭の燃え残りとも違う。
フィアは治療台の布を替える手を止めた。昨日の評議のことが頭を離れない朝だった。帳面は机の上にある。昨夜、寝台に持ち帰って枕元に置いて寝た。五年間で初めてのことだった。
扉を開けた。渡り廊下の向こう、管理棟の方角に薄い煙の筋が見えた。朝靄とは違う。灰色が濃く、低い位置を這っている。秋の冷えた空気の中で、煙の匂いだけが妙に温かかった。
ルカが走ってきた。麻の上衣の裾が乱れている。底板の見回りから来たのだろう。
「先生、管理棟の裏っす。裏口のそばに石の焼却台があって——夜のうちに誰かが書類を燃やしてます」
「書類を」
「灰になりかけてる紙の束が残ってたっす。全部は燃え切ってなくて、端のほうに帳簿の装丁みたいな革の切れ端が見えたっす」
「いつ気づいたの」
「底板の見回りの帰りっす。管理棟の横を通ったら匂いがして。見回りの時間が早くなかったら気づかなかったかも」
フィアの手が帳面に伸びた。机の上の帳面を腕の中に引き寄せた。
「レオさんは」
「朝の報告に管理棟へ行ってます。まだ戻ってないっす」
「ルカ、ありがとう。行ってみます」
「俺も行くっす」
---
渡り廊下を歩いた。ルカが半歩後ろについてくる。管理棟の方へ近づくにつれて、焦げた匂いが濃くなった。
管理棟の裏手に回ると、石造りの小さな焼却台が壁際にあった。普段は枯れ葉や使い終わった蝋燭の屑を処分するためのもの。冬支度に落ち葉を掃いた後、ここで燃やす。それだけの用途のはずだった。
焼却台の中に灰が山になっていた。
灰の端から、焼け残った紙の切れ端が覗いている。文字の断片が読めた。候補生の名前の一部。数字。年号。インクの色が黒と茶の二種類あった。書き足された部分と元の記入とで、色が違う。
革の切れ端が二つ落ちていた。帳簿の表紙の断片。焼却台に入りきらなかったのか、地面に転がっている。表紙の角には管理局の刻印の一部が残っていた。
「これ……」
ルカが革の切れ端を拾い上げようとした。
「触らないほうがいいっすか」
「触らないで」
レオの声がした。管理棟の裏口から出てきたところだった。紙の切れ端を三枚、手巾の上に載せて持っている。
「フィアさん、ルカ。ありがとう、見つけてくれて」
「レオさん、中は」
「管理棟の夜番の者に聞きました。昨夜遅く、管理局の上席の者が二人来て、裏口から何かを運び出したと。夜番は止める立場にないので見ていただけだったと」
「止める立場にない、って——」
ルカの声が上がった。レオが首を振った。
「夜番の見習いには、上席の者の行動を制止する権限がない。それは事実です」
レオの声は低かった。怒りを押し殺しているのか、諦めに似ているのか、区別がつかなかった。
「保管室から消えていた帳簿だと思います。革装丁の切れ端と紙の書式が、わたしが写しを取ったときの帳簿と一致しています」
フィアは灰を見た。五年分の記録。患者の名前と得点と日付が、灰の中に崩れている。
「写しを取っておいてよかった」
レオの声が少し震えた。
---
レオが評議会への報告に走った。ルカは底板の見回りの続きに戻った。フィアは焼却台の前に残った。
灰を見ていた。風が吹くと、紙片の端がめくれた。数字が見えた。四桁の数字の上三桁だけが残っている。下一桁は焼けて消えていた。
焼け残りの紙片の一枚に、罫線が見えた。帳簿の書式。候補生の名前を記す欄の横線が、途中で途切れている。この線の上に、誰かの名前が書かれていたのだろう。自分の名前かもしれない。姉の名前かもしれない。もう読めない。
この数字を書いた手が、この数字を消した。
マティアスが来たのは昼前だった。
二人の祭祀官を伴って管理棟の裏手に現れた。金糸の法衣が秋の日差しの中で重く見えた。
焼却台の前で足を止めた。灰を見下ろし、しゃがみ込んだ。長い指で焼け残りの紙片を一枚つまみ上げた。
「帳簿の紙だ」
祭祀官のひとりが頷いた。
「革装丁の断片が二つ、焼け残った紙片が十数枚。昨夜遅くに焼却されたものと見られます。管理棟の夜番の証言も取れています」
マティアスが立ち上がった。灰のかけらが法衣の袖に付いていた。払わなかった。
「管理官ドレを呼びなさい」
---
ドレは管理棟の執務室にいた。
祭祀官に伴われて裏手に出てきたとき、白髪混じりの髪が乱れていた。
「評議員殿。これは通常の書類整理の一環として——」
「通常の書類整理は、評議会が調査開始を決定した翌夜に行うものか」
マティアスの声に抑揚がなかった。それがかえって、言葉の重さを際立たせた。
「保管室から消えた帳簿の所在を問うたのは昨日のことだ。管理官殿は『速やかに手配する』と答えた。それが一晩で灰になった」
ドレの肩が下がった。
「わたしは指示しておりません。管理局の者が、独自の判断で——」
「管理官殿。昨夜この焼却台を使ったのは管理局の上席の者二人だと、夜番が証言している」
ドレの顔から色が引いた。
「上席の……どの者が」
「それは管理官殿のほうがご存じではないか」
ドレが口を開きかけた。閉じた。もう一度開いた。
「確認いたします」
「独自の判断で帳簿を焼却する者がいるなら、管理局の統制そのものが問題だ。指示があったなら、なおさら」
ドレの唇が薄く開いたまま閉じなかった。額に汗が浮いていた。
マティアスが背を向けた。フィアの前を通り過ぎるとき、一瞬だけ目が合った。何も言わなかった。焚きしめた香の匂いが風に乗って届いた。
「焼却台の残存物は評議会が回収する。管理官殿には、本日中に管理局内で焼却に関与した者を特定し、報告するよう求める。応じない場合は評議会の権限で管理棟に立ち入る」
---
東翼に戻ったのは午後だった。
治療室の扉を閉め、椅子に座った。帳面を机の上に置いた。
保管室の帳簿は灰になった。管理局の集計記録も、どこまで残っているかわからない。焼却台の灰の中に、どれだけの名前と数字が消えたのだろう。
残っているのは、レオが評議会に預けた写しと、この帳面だけ。
ルカが戸口に顔を出した。
「先生、大丈夫っすか」
「大丈夫です」
「あの灰、管理棟の連中が燃やしたんすよね。評議員の前で『手配する』って言ったのに。俺、あの管理官殿のこと前から信用してなかったっす。あのとき報告書も——」
「ルカ」
「……はいっす」
「怒ってくれてありがとう」
ルカが口を閉じた。何か言いたそうに唇が動いたが、最後に小さく頭を下げて出ていった。
しばらくして、レオが治療室の戸口に立った。
「評議員が帳面の詳細な照合を前倒しにしたいと伝言がありました。明日の午前中に、評議の間で」
「わかりました」
「フィアさん」
レオの目が帳面に落ちた。
「あの帳簿が燃やされたということは——写しを取っていなければ、書き直しの痕跡も消えていたということです。元の数字がどうだったかを示せるのは、もう写しだけになりました」
「……ええ」
「そしてフィアさんの帳面は、五年分の治療記録として残る唯一の個人記録です。管理局の集計は信用できない。聖秤の板は停止している。帳面だけが、百四件の中身を一人ずつ証明できる」
フィアは帳面の革表紙を指でなぞった。真鍮の留め金が指先に冷たかった。
見せるために書いたのではない。
けれど、もう「自分のための記録」とだけ言い続けることはできなくなっていた。管理棟の裏手で灰になった紙片の代わりに、この帳面が立たなければならない。
扉が軽く叩かれた。
開けると、患者だった。右膝を押さえた若い女が、壁に手をついて立っている。顔に見覚えはない。
「百件以上治した先生がいると聞いて。……すみません、今日は診ていただけますか」
「どうぞ、お入りください」
椅子に座らせた。膝を診た。内側の筋を違えている。腫れはまだ浅い。正廊の石段で滑ったのだという。朝露で足を取られたと、恥ずかしそうに笑った。
帳面を開いた。新しい頁の一行目に、名前を書いた。症状を書いた。日付を書いた。
灰になった記録の代わりにはなれない。けれど、今日この瞬間に目の前にいるこの人の膝のことは、この帳面に残る。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
管理局が帳簿を灰にしたこと——それは不正を隠すための行動ですが、同時に「記録を持っていた者だけが真実を証明できる」という構図を決定的にした行動でもあります。皮肉なことに、管理局が記録を消すほど、フィアが一人で書き続けてきた帳面の重みが増していく。
最後に患者が来る場面は、フィアがどれだけ大きなことに巻き込まれても「書く」という行為に戻っていくことを示しています。ブックマーク、評価、感想をいただけると続きを書く大きな力になります!




