鏡
患者のいない午後、フィアは幼少期の記憶を辿る。姉との三つ編み、父の視線、期待されなかった側の日々。母が遺した古い祈祷書にフィアの名前だけが書かれていたことを思い出し、期待の形は一つではなかったと気づき始める。
その日は、朝から患者が来なかった。
雨が降っていた。大聖堂の石壁に雨粒が当たる音が、東翼の治療室にまで届いていた。午前中に帳面を広げて昨日の記録を読み返し、薬草棚の整理をした。乾燥が甘い束を窓辺に並べ直した。棚の奥に去年の秋に摘んだ白い花の残りがあった。まだ使える。
午後も、誰も来なかった。
椅子に座ったまま、雨音を聞いていた。
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雨の音を聞いていると、いつも同じ記憶が浮かぶ。
ヴェルネイユ家の屋敷の、大きな窓がある部屋。雨の日は外に出られないから、フィアと姉は部屋の中で過ごした。二人とも七つか八つの頃だった。
姉がフィアの髪に触れた。
「三つ編みにしてあげるわ」
姉の指は器用ではなかった。細い髪を三本に分けようとして、すぐにほどけてしまう。
「待って、こっちの束が多い」
「同じくらいに分けないと、編めないわ」
フィアも姉の亜麻色の髪でやってみたが、同じだった。左の束が太くなり、右が細くなり、真ん中は行方不明になった。二人で顔を見合わせて笑った。どちらの三つ編みも、歪んだまま夕食の時間まで持たなかった。
雨の日は、いつもそうやって過ごした。三つ編みの他にも、母の裁縫箱から糸を借りてお互いの手首に巻いたり、窓の曇りに指で絵を描いたりした。姉が描くのはいつも大聖堂の塔で、フィアが描くのはいつも花だった。
あの頃の姉の指は、今とは違った。力加減がわからなくて、引っ張りすぎたり、緩すぎたりした。今の姉の手は、銀糸の刺繍の袖口から伸びて、すべてを正確に、迷いなく動かす。あの頃の不器用さは、もうどこにもない。
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父は書斎にいることが多かった。
フィアが書斎の扉を叩いたのは、九つの年の冬だった。学問の課題で質問があった。扉を開けると、父は机に向かっていた。
「何だ」
「課題のことで——」
「姉に聞きなさい」
それだけだった。父はフィアの方を見なかった。机の上の書類に目を戻した。フィアは扉を閉めた。
姉に聞きなさい。父はいつもそう言った。姉は何でもできたから、姉に聞けば済むと思っていたのだろう。あるいは、フィアの質問に答える時間は、父にとって優先順位が低かったのかもしれない。
姉はフィアの質問に答えてくれた。丁寧に、わかるまで。
「ここは、こういう意味よ。聖典の古い言い回しだから、知らなくて当然」
「お姉さまは知ってたの」
「去年、先生に教わったの。覚えておいてよかったわ」
あの頃の姉はまだ、銀糸の法衣ではなく普通の服を着ていた。フィアと同じ布の服を着て、同じ机で課題をした。姉がフィアより少し先を歩いていたのは確かだが、その差は手を伸ばせば届く程度のものだった。
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十二の年に、父がフィアと姉を書斎に呼んだ。
「お前たちは来年、大聖堂の聖女候補生として選抜を受ける。家の名に恥じないように」
姉は頷いた。フィアも頷いた。父は姉の方を見て言った。
「お前は三代目の聖女の娘だ。四代目はお前が継ぐ。そのための五年間になる」
姉に向けられた言葉だった。フィアには何も言われなかった。「お前も」とも、「期待している」とも。フィアはただ、姉の隣に立っていた。
姉がちらりとフィアの方を見た。何か言いかけたように見えたが、父の前では口を開かなかった。
あのとき、フィアは何を感じただろう。悲しかったのか。当然だと思ったのか。覚えていない。たぶん、何も感じなかった。父が姉を見ることは当たり前だった。空が青いのと同じくらい、疑う余地のないことだった。
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もう一つ、思い出した。
母のことだった。
母はフィアが五つのときに亡くなった。記憶はほとんどない。声の感じだけがかすかに残っている。低くて、穏やかな声。
母の遺品の中に、古い祈祷書があった。革装丁の小さな本で、角が丸くなり、頁の端が茶色く変色していた。母が毎日使っていたものだと、姉が教えてくれた。
表紙の裏に、母の筆跡で名前が書かれていた。
フィアの名前だった。
姉の名前はなかった。フィアの名前だけが、丁寧な筆跡で書かれていた。インクの色は褪せていたが、文字の形は読み取れた。母がなぜフィアの名前だけを書いたのか、わからない。フィアに渡すつもりだったのかもしれない。祈りを込めたのかもしれない。あるいは、ただ名前を書きたかっただけかもしれない。
祈祷書は今もヴェルネイユ家の屋敷にあるはずだった。フィアが候補生として大聖堂に来るとき、持ち出すことは許されなかった。候補生の荷物は最小限と決まっていたから。でも、あの筆跡は覚えている。五年経った今でも。
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雨音が変わった。午後の強い雨が、霧のような細かい雨に変わっていた。
治療室の扉を叩く音がした。
「フィアさん」
レオだった。
「来週のメゼールの聴取について、委員会から事前資料が届きました。目を通しておいてほしいと」
「わたしが目を通すんですか」
「フィアさんは当事者です。聴取で何が問われるかを知っておく権利がある、と委員会のマティアスが言っていました」
レオが書類を渡した。三枚の紙。聴取の質問項目と、委員会が把握している事実の要約が書かれていた。フィアは一枚目に目を通した。メゼールの管理局長在任期間。得点調整の対象となった候補生の一覧。第一席と第七席。姉の名前とフィアの名前が並んでいた。
紙の上で、二つの名前が隣り合っていた。幼い頃と同じだった。いつも隣にいて、いつも同じ場所にいるのに、向けられるものがまるで違った。
「——レオ。一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「レオは、わたしの帳面の写しを取り始めたとき、わたしのことをどう思っていましたか」
レオは少し考えた。
「記録管理官として言えば、帳面の書式が整っていると思いました。候補生が書いた記録としては異例でした。名前、症状、処置、日付。必要な情報が過不足なく並んでいた」
「それだけですか」
「それだけです。最初は。——でも、読み続けているうちに気づいたことがあります」
「何ですか」
「帳面に書かれた患者の数が、月ごとに増えていたんです。五年目に入る頃には、他の翼の候補生より多くの患者を一人で診ていた。でもフィアさんは、そのことを誰にも報告しなかった。帳面に淡々と書いて、それだけだった」
「報告する先がなかったんです。得点にも反映されませんでしたし」
「ええ。だから余計に——この人は、誰かに認めてもらうために書いているのではないんだ、と思いました」
フィアは黙った。
認めてもらうために書いていたのではない。それは本当だった。帳面は、患者のための記録だった。でも——認めてもらいたくなかったわけではない。
父に見てもらいたかった。姉の隣ではなく、自分を見てほしかった。
その言葉は、まだ口にできなかった。胸の奥のどこかに確かにあるのに、声にする方法がわからなかった。
「フィアさん。事前資料は今日中に読まなくても構いません。聴取は来週ですから」
「ええ。ありがとうございます」
レオが帰った後、事前資料の二枚目を読んだ。メゼールがヴェルネイユ家の当主と初めて接触した時期。フィアが十一歳のとき。候補生になる二年前。もうあの頃から、父は動いていた。
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夜、帳面を閉じた。
幼い頃の記憶。歪んだ三つ編み。父の書斎の扉。母の祈祷書。
姉はあの頃から「四代目の聖女」として育てられた。フィアは何として育てられたのだろう。何も期待されなかった子供。でも、母はフィアの名前を祈祷書に書いた。あれは期待だったのだろうか。祈りだったのだろうか。
わからない。でも母の筆跡は、たしかにフィアの名前を書いていた。父は姉だけを見た。母はフィアの名前を書いた。同じ家の中で、二人の親が二人の娘に、それぞれ違うものを向けていた。
帳面は、母の祈祷書に似ているかもしれない。革装丁で、毎日使って、角が丸くなっていく。誰かに見せるためではなく、自分の手で書き続けるもの。母がフィアの名前を祈祷書に書いたように、フィアは患者の名前を帳面に書いている。
明日、メゼールの聴取の事前資料を読む。父が何をしたのかが、もっと明らかになるだろう。覚悟しなければならない。でもそれは明日のことだった。
雨はまだ止まなかった。細い雨が石壁を伝う音だけが、東翼の夜を満たしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は物語の手を止めて、フィアの記憶の中に入りました。歪んだ三つ編み。父の「姉に聞きなさい」。何も言われなかった書斎の日。そして母が祈祷書に書いた名前。
期待されなかった五年間と、期待の形は一つではなかったという気づき。フィアの核心に少しだけ近づいた回です。ブックマーク、評価、感想をいただけると嬉しいです!




