第86話 決壊
非公式な対話を、どうにか保ち続けていた、ある夜のことだった。
「緊急事態です!」
深夜、局に駆け込んできた伝令の声に、レオンは、飛び起きるようにして、報告を受けた。
「何が起きた」
「国境付近の、帝国側の哨戒基地が、襲撃を受けました」伝令は、息を切らしながら報告した。「複数の死傷者が、出ている模様です」
レオンは、その報告に、全身の血の気が引くのを感じた。
「襲撃した部隊は、リュネス帝国の正規軍か」
「それが……まだ、確認が、取れていません」
レオンは、すぐに、ヴェルニエ局長、そして、アレクシスのもとへ向かった。
「これまでの、哨戒部隊間の連絡体制が、機能していなかった、ということか」ヴェルニエは、険しい表情で言った。
「分かりません」レオンは、正直に答えた。「意図的な攻撃なのか、それとも、別の勢力による、偶発的な事態なのか——」
「別の勢力、というのは?」
「ガルベイン将軍が、以前、言っていたことを思い出してください」レオンは言った。「国内の、過激な勢力——もし、彼らが、将軍の方針に反発して、独自に行動を起こしたのだとすれば」
アレクシスは、その可能性に、険しい表情を浮かべた。
「もしそうなら、これは、ガルベイン将軍の、統制が、及ばない事態、ということになるな」
「いずれにせよ」ヴェルニエは、厳しい声で言った。「この事態、帝都にも、すぐに伝わるだろう。強硬派は、これを、絶好の機会として、利用してくるはずだ」
その予想は、翌朝には、現実のものとなった。
「ヴァルディア帝国軍、国境付近で、不意打ちを受ける——これが、対話路線の、結末か!」
帝都の宮廷内では、強硬派の貴族たちが、一斉に、声を上げ始めた。
「これ以上、悠長な対話を、続けている場合ではない! 直ちに、応戦の準備を!」
この急速な世論の高まりに、レオンは、強い焦りを覚えた。
「まだ、詳細が、確認されていない段階です」レオンは、軍務省での緊急会議で、必死に訴えた。「襲撃した部隊の正体、そして、ガルベイン将軍側の、意図——それらを、確認する前に、結論を急ぐべきではありません」
「悠長なことを、言っていられる状況か」強硬派の一人が、鋭く反論した。「我が国の兵士が、命を落としているのだぞ」
レオンは、その言葉に、返す言葉を一瞬、失った。亡くなった兵士たちのことを思えば、確かに、感情的な反発は、当然のことだった。
「お気持ちは、理解します」レオンは、それでも、冷静さを保ちながら言った。「ですが、ここで、短絡的に、報復を選べば、それこそ、全面戦争への、引き金になりかねません」
「では、何もせず、黙って見ているというのか」
その問いに、レオンは、深く息を吸い込んだ。
「まず、事実関係を、正確に確認するべきです」レオンは、はっきりと言った。「商人のネットワークを通じて、ガルベイン将軍側に、この襲撃について、問い合わせます。もし、彼らの関与でないなら、共同での調査を、提案すべきです」
この提案に、会議の空気は、二つに割れた。
「悠長な対話など、もはや、意味がない」と主張する、強硬派。
そして、「拙速な判断は、避けるべきだ」と、慎重な姿勢を崩さない、穏健派。
「ヴァイス卿の提案、一理ある」軍務大臣が、最終的に、口を開いた。「ただし、時間は限られている。三日以内に、明確な回答を、得られなければ、軍としての、対応を検討せざるを得ない」
「三日、ですか」
「それが、限界だ」軍務大臣は、厳しい表情で言った。
レオンは、この厳しい期限を前に、すぐに、ケイレブを通じて、緊急の問い合わせを送った。
「間に合うのか」アレクシスが、不安げに尋ねた。
「分からない」レオンは、正直に答えた。「だが、やるしかない」
その夜、レオンは、ほとんど眠れないまま、返答を待ち続けた。これまでの、長い対話の努力——それが、この、たった三日間の中で、すべて、試されようとしていた。
(頼む。間に合ってくれ)
帝都の夜空の下、戦争か、あるいは、対話の継続か——その運命を分ける、緊迫した時間が、静かに、しかし、確実に、過ぎていった。




