第83話 崩れた均衡
東方との緊張緩和から、半年が過ぎていた。
哨戒部隊間の連絡体制は、順調に機能し続けていた。国境付近での小競り合いも、以前と比べて、明らかに減少していた。軍備・外交調整局での日々も、これまでとは違う、落ち着いた調子で、進んでいた。
「このまま、うまくいくといいんだがな」
レオンは、局の窓から、帝都の空を眺めながら、そう呟いた。
だが、その平穏は、ある日を境に、唐突に崩れることになった。
「緊急報告です!」
局に飛び込んできた伝令の声に、レオンは、瞬時に緊張を取り戻した。
「何があった」
「東方国境、リュネス帝国領内で、政変が起きた模様です」
その知らせに、レオンは、言葉を失った。
「政変、というのは——」
「詳細は、まだ不明ですが……これまで、我が国との対話を主導してきた、穏健派の皇族が、失脚したとの情報が入っています」
レオンは、すぐに、ヴェルニエ局長のもとへ向かった。
「局長、この報告は」
「私のところにも、同じ知らせが届いている」ヴェルニエは、険しい表情で言った。「リュネス帝国内部で、強硬派が、実権を握った可能性が高い」
「これまでの、哨戒部隊間の連絡体制は——」
「現時点では、維持されている」ヴェルニエは言った。「だが、いつまで、その状態が続くかは、分からない」
レオンは、すぐに、アレクシスのもとへ向かった。
「聞いたか」
「ああ」アレクシスも、険しい表情を見せていた。「政務局でも、すでに、情報が錯綜している」
「これまでの、対話の成果が——」
「水の泡になりかねない」アレクシスは、言葉を選びながら、はっきりと言った。「強硬派が実権を握ったということは、これまで積み重ねてきた、信頼関係の土台が、根本から揺らぐ可能性がある」
レオンは、これまでの、長い努力——皇帝からの問い、使節団としての東方での交渉、そして、哨戒部隊間の連絡体制の構築——それらが、一夜にして、崩れ去るかもしれない現実に、強い焦りを覚えた。
数日後、より詳細な情報が、帝都にもたらされた。
「リュネス帝国の新体制、国境付近での、軍備増強の方針を、明確に打ち出しています」
報告を聞いたレオンは、これまでの分析——軍拡競争の悪循環——を、改めて、強く意識せざるを得なかった。
「向こうが、軍備を増強すれば、こちらも、対抗せざるを得なくなる」レオンは、苦い表情で言った。
「すでに、軍務省内でも、同様の議論が、始まっている」アレクシスは言った。「強硬派の貴族たちは、『それ見たことか』と、声を上げ始めている」
レオンは、これまでの、地道な対話の努力が、新体制の登場という、自分たちにはどうにもできない要因によって、根底から覆されようとしている現実に、深い無力感を覚えた。
だが、その無力感に、ただ沈み込んでいるわけにはいかなかった。
「まだ、完全に、対話の道が閉ざされたわけじゃない」レオンは、自分に言い聞かせるように言った。「哨戒部隊間の連絡体制は、まだ、維持されている。この繋がりを、何とか、保ち続ける方法を、考えなければ」
「具体的には?」
「新体制に対しても、改めて、これまでの成果——偶発的な衝突を防いだ実績——を、示す必要がある」レオンは言った。「軍事的な緊張の高まりは、双方にとって、利益にならないという、客観的な事実を、改めて、伝え続けるしかない」
アレクシスは、レオンの言葉に、しばらく考え込んだ後、頷いた。
「簡単な道のりじゃないな」
「ああ」レオンは、静かに、しかし、確かな決意を込めて言った。「だが、ここで諦めるわけにはいかない」
その夜、レオンは、皇帝への、緊急の報告書をまとめる作業に取りかかった。これまでの成果、そして、新たな懸念——それらを、できる限り、正確に、冷静に、伝えるための文書だった。
(軍を強くすることと、戦争を減らすこと——その答えを、ようやく、見出し始めたと思っていたのに)
レオンの中で、これまでの歩みが、改めて、問い直されようとしていた。
帝都の夜空に、これまでとは違う、重苦しい緊張が、確かに、広がり始めていた。東方での政変——それは、レオンにとって、これまでの戦いの中でも、最も、制御の難しい、新たな試練の始まりだった。
最後の戦争への、静かな、しかし、確実な足音が、帝国の空に、響き始めていた。




