第60話 仕掛けるタイミング
デルモン子爵の署名がある記録を手にしてから、レオンとアレクシスは、慎重に次の一手を検討していた。
「証拠は、確かに強力だ」アレクシスは言った。「だが、これ一枚だけで、押し切れるかどうか」
「南方戦線の時も、単一の証拠だけでは、押し切れなかった」レオンは、これまでの経験を振り返りながら言った。「複数の証拠を、重ねる必要がある」
「もう少し、時間をかけて補強するべきだと思うか」
「いや」レオンは、首を振った。「時間をかけすぎれば、証拠そのものが、握りつぶされる危険がある。局内での圧力も、日に日に強くなっている」
二人は、しばらくの沈黙の後、一つの結論に達した。
「今ある証拠を基に、一度、監査部に相談してみよう」アレクシスは言った。「正式な告発ではなく、まずは、非公式な形で」
「握りつぶされないための、下準備、ということか」
「そうだ。南方戦線の時、私たちが最初に躓いたのは、証拠を提出するタイミングと、相手の見極めだった」
レオンは、その言葉に頷いた。以前の経験から、二人は、着実に学びを重ねていた。
翌日、レオンとアレクシスは、以前フェルナン家の一件で協力してくれた、監査院の文官——あの時と同じ人物を、密かに訪ねることにした。
「お久しぶりです」
文官は、二人の来訪に、少し驚いた様子を見せた。
「今回は、別件で、ご相談があります」アレクシスが切り出した。
二人は、これまで集めた証拠——グラーツ商会とデルモン家、そしてフォーグラー局長の繋がりを示す資料を、丁寧に説明した。
「……また、大きな話になりそうだな」文官は、資料に目を通しながら、深いため息をついた。
「以前ほど、規模は大きくないかもしれません」レオンは言った。「ですが、同じ構造の不正が、この局にも存在していると考えています」
「デルモン子爵本人の署名がある、という点が、特に重要です」アレクシスは付け加えた。
文官は、しばらく資料を見つめた後、慎重に口を開いた。
「率直に言おう。この証拠だけでは、まだ、正式な調査を開始するには、弱い」
「弱い、というのは?」
「デルモン子爵側が、『局長への私的な便宜として、個人的に署名しただけだ』と主張すれば、それを覆すのは難しい」文官は説明した。「不正な意図があったことを示す、もっと明確な証拠が必要だ」
レオンは、その指摘に、落胆しながらも、納得せざるを得なかった。
「もう一つ、証拠を集める必要がある、ということですね」
「そうだ」文官は頷いた。「特に、この支払いによって、実際にどのような不利益が、軍全体に生じているか——それを、数字で示せれば、より説得力が増す」
レオンは、この助言に、一つの方向性を見出した。
「価格の不正な上乗せが、実際に、どれだけの損失を生んでいるか——それを、具体的な金額で示す、ということですね」
「その通りだ」
レオンとアレクシスは、文官への相談を終え、局への帰路についた。
「振り出しに、戻ったわけじゃない」レオンは、自分に言い聞かせるように言った。「次に何をすべきか、はっきりした」
「そうだな」アレクシスも、頷いた。「数字による立証は、お前の得意分野だ」
「ああ」レオンは、小さく笑った。「これは、任せてくれ」
その夜から、レオンは、これまで以上に、局内の記録の精査に没頭した。グラーツ商会との契約による、価格差の総額。それによって、他の分野に回せたはずの予算が、どれだけ圧迫されていたか——レオンは、士官学校時代から培ってきた分析力を、余すことなく発揮していった。
「この三年間で、少なくとも、これだけの損失が出ている計算になる」
数日後、レオンは、緻密な分析結果を、アレクシスに見せた。
「……これは、想像以上の数字だな」アレクシスは、資料を見て、驚きを隠せなかった。
「この金額があれば、南方戦線で、あとどれだけの物資を、前線に送れたか——考えるだけで、腹立たしい」
レオンの声には、これまでにない、静かな怒りが滲んでいた。南方戦線で見てきた、飢えた兵士たち、不足する物資——それらの光景が、この数字の裏に、確かに繋がっていた。
「この資料を、改めて監査部に提出しよう」アレクシスは言った。
「ああ」レオンは、力強く頷いた。「今度こそ、押し切る」
帝都の夜、レオンとアレクシスの決意は、これまでで最も強固なものになっていた。だが、この動きが、デルモン家やフォーグラー局長に、どのような反応を引き起こすのか——その予測は、まだ、二人にもつかなかった。
新たな証拠を携え、二人は、次なる一手へと、着実に歩みを進めていた。




