第40話 父の言葉
父グランへの連絡は、慎重に行う必要があった。手紙では、これ以上踏み込んだ内容を書くことは危険だと、レオンは判断していた。
「直接会うしかない」
レオンは、アレクシスに相談した。
「今の任務を離れて、実家に戻るのは、簡単じゃないぞ」アレクシスは言った。
「分かってる。だが、これは避けて通れない」
「一つ、提案がある」アレクシスは言った。「南方戦域の状況は、今、大きな転機を迎えようとしている。近いうちに、正式な撤退命令が下る可能性が高い。もしそうなれば、部隊の再編に伴い、一時的な休暇が取りやすくなるはずだ」
「撤退命令が下るのか」
「司令部内でも、これ以上の攻勢継続は不可能だという声が強まっている」アレクシスは言った。「私たちの『戦術的再配置』の一件も、その判断材料の一つになったはずだ」
レオンは、その情報に、複雑な感情を抱いた。多くの犠牲を経て、ようやく現実的な判断に近づきつつある帝国軍の姿——それは、これまでレオンが繰り返し感じてきた、帝国という組織の限界を、改めて突きつけるものだった。
それから数日後、レオンが予想していた通りの知らせが届いた。
「南方軍、正式に撤退命令が発令された」
カルディオへの進軍は、最終的に断念されることになった。奪還した都市の一部は放棄され、部隊は、より防衛しやすい後方拠点への撤退を開始した。
「勝てなかった、ということですね」
レオンが率直に言うと、中隊長は、疲れた表情で頷いた。
「戦術的には、いくつかの局地戦で勝利した。だが、戦争全体としては……そう言わざるを得ないだろうな」
撤退作戦は、レオンとアレクシスがこれまで培ってきた経験を、最大限に活かす場となった。レオンは物資の再分配と輸送計画を、アレクシスは部隊の秩序ある後退と士気の維持を、それぞれ担当した。
「レオン、こちらの部隊、予定より早く後退できそうだ」
「補給物資も、優先順位をつけて再配分した。負傷者を優先している」
二人の連携は、士官学校時代の共同指揮演習、そして先の「戦術的再配置」の経験を経て、これまでで最も洗練されたものになっていた。
撤退作戦は、大きな混乱もなく、比較的秩序立って進められた。もちろん、犠牲がまったくなかったわけではない。だが、レオンが当初懸念していたような、壊滅的な事態は避けられた。
撤退完了後、部隊にはようやく、一時的な休息期間が与えられることになった。
「今のうちに、実家に戻れ」アレクシスは言った。「この機会を逃せば、次はいつになるか分からない」
「お前は?」
「私は、部隊の再編を見届ける必要がある。だが、証拠集めについては、引き続き、こちらでも動いておく」
「頼む」
レオンは、短い休暇を得て、久しぶりに実家への帰路についた。
実家に到着したのは、それから数日後のことだった。故郷の町並みは、レオンが士官学校に入学する前と、大きくは変わっていなかった。だが、レオン自身は、あの頃とは、まるで違う人間になっていた。
「……レオン、か」
商会の店先で出迎えた父グランは、レオンの姿を見て、一瞬、言葉を失ったようだった。
「久しぶりです、父上」
「大きくなったな……いや、それより、随分と、雰囲気が変わった」
グランは、息子の顔を、しげしげと見つめた。士官学校での日々、そして南方戦線での実戦——その経験が、レオンの表情に、確かな変化をもたらしていた。
店の奥にある居間に通されると、レオンは、しばらく世間話を交わした後、意を決して本題を切り出した。
「父上、ケイレブさんに、お会いしました」
その名前を聞いた瞬間、グランの表情が、明確に強張った。
「……そうか」
「フェルナン家とメルツ商会のこと、そして——母さんのことについても、伺いました」
グランは、長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……いつかは、こうなると思っていた」
「なぜ、教えてくれなかったんですか」
「お前を、この件から遠ざけたかった」グランは、静かに言った。「あの一件で、私は、多くのものを失った。お前にまで、同じ思いをさせたくなかった」
「でも、俺はもう、この件に踏み込んでしまいました」レオンは、はっきりと言った。「南方戦線での輸送不正も、フェルナン家とメルツ商会が関わっています。今も、多くの兵士が、その不正のせいで苦しんでいます」
グランは、レオンの言葉を、じっと聞いていた。
「お前は、これを、どうするつもりだ」
「正式な証拠を集めて、然るべき場所に提出します」レオンは言った。「父上が、当時できなかったことを」
その言葉に、グランは、複雑な表情を浮かべた。怒りとも、悲しみとも、そして——どこか誇らしさとも取れる、様々な感情が入り混じっているようだった。
「……危険な道だぞ」
「分かっています」
「一度、私は、この道で、大切なものを失った」グランの声には、これまで聞いたことのない、深い重みがあった。「お前にまで、同じことが起きたら——」
「父上」レオンは、父の言葉を遮った。「俺は、母さんの死を、無駄にしたくないんです」
グランは、しばらく無言で、息子の顔を見つめていた。そしてやがて、静かに立ち上がると、部屋の奥にある、古い木箱を取り出した。
「……これを、渡しておく」
「これは?」
「当時、私が集めていた証拠だ」グランは、木箱をレオンに差し出した。「全部ではないが、フェルナン家とメルツ商会の関係を示す、契約書の写しや、記録が入っている」
レオンは、震える手で、その木箱を受け取った。
「捨てずに、持っていたんですね」
「捨てられなかった」グランは、目を伏せた。「いつか、こういう日が来ることを、心のどこかで、恐れながらも、待っていたのかもしれない」
その言葉に、レオンは、父の長年の苦悩の深さを、改めて感じ取った。
「ありがとうございます、父上」
「礼を言うのは、まだ早い」グランは、厳しい表情に戻って言った。「これを使うなら、覚悟を決めろ。相手は、簡単には屈しない」
「覚悟は、できています」
グランは、息子の目を、まっすぐに見つめた。そこには、かつての自分と同じ、しかしより強い意志を持った目があった。
「……お前になら、託せるかもしれないな」
その言葉には、長年の後悔と、そして——確かな期待が込められていた。
窓の外、夕暮れの光が、静かに部屋を照らしていた。レオンの手の中にある木箱には、母の死の真相、そして帝国の不正を暴く、重要な鍵が眠っていた。




