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豪商生まれのただの平民士官【帝国改革記】  作者: 橘秀斗
南方戦域

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第33話 限界という現実

 司令部への進言が退けられてから、三日が過ぎていた。


 その間にも、状況は悪化の一途をたどっていた。


「食料、本日で完全に尽きます」


 兵站担当の部下からの報告に、レオンは奥歯を噛みしめた。


「予備の備蓄は?」


「先日の橋の破壊で、後方からの補充も止まったままです。手持ちの分だけです」


 兵士たちの間にも、疲労と焦燥が色濃く表れ始めていた。行軍と戦闘の疲れに加え、満足な食事も取れない日々が続いている。士気の低下は、もはや誰の目にも明らかだった。


「レオン殿、兵の中に、体調を崩す者が増えています」


 衛生兵からの報告も、深刻さを増していた。レオンは、これまで数字の上でしか見てこなかった「損耗」という言葉が、目の前で、生身の人間の苦しみとして現れていることを、痛感していた。


「アレクシス、これ以上は待てない」


 レオンは、仮設本部でアレクシスに詰め寄った。


「分かっている」アレクシスも、これまでにない切迫した表情を見せていた。「だが、正式な撤退命令が下りない以上、勝手に部隊を後退させれば、命令違反として処罰の対象になる」


「命令を待っている間に、兵士が死ぬかもしれない」


「私も、それは分かっている」


 二人は、これまでにない緊張感の中で、向き合っていた。


「一つ、確認したい」レオンは言った。「お前は、組織のルールを守ることと、目の前の兵士を守ること、どちらを優先する?」


 アレクシスは、しばらく沈黙した後、静かに答えた。


「……両方だ。だが、今この瞬間に限って言うなら」


「言うなら?」


「兵士を守ることの方が、優先されるべきだと思う」


 その答えに、レオンは少し驚いた。士官学校時代のアレクシスなら、間違いなく組織の秩序を最優先していただろう。


「変わったな、本当に」


「北方で、多くのものを見てきた」アレクシスは静かに言った。「命令のために、無駄に命を落とした兵士たちを、何人も見た。その経験が、私を変えた」


 その言葉には、レオンの知らない、アレクシスの実戦経験の重みが滲んでいた。


「では、どうする?」レオンは尋ねた。


「正式な撤退命令を待たずに、まず、前線部隊を一時的に安全な位置まで後退させる」アレクシスは言った。「これを『戦術的な再配置』として報告する」


「実質的な撤退を、言葉でごまかす、ということか」


「そうだ」アレクシスは、迷いなく答えた。「今は、それが最善の方法だと判断する」


 レオンは、この提案に、複雑な感情を抱いた。正面から正しさを主張してきた自分の生き方とは、少し違う手段だった。だが、目の前の兵士たちを救うためには、必要な選択肢でもあった。


「……分かった。俺は、その再配置に必要な物資の再分配計画を立てる」


「頼む」


 二人は、それぞれの役割に応じて、迅速に動き始めた。アレクシスは、部隊の再配置に関する指示を、慎重な言葉を選びながら伝達していった。レオンは、限られた物資を、後退する部隊が最低限生き延びられるよう、緻密に再分配する計画を立てた。


「食料は、まず負傷者と最前線の部隊を優先する」レオンは指示を出した。「後方の部隊は、一時的な減配を我慢してもらう」


「不満が出るのでは?」部下が心配げに尋ねた。


「不満が出るのは承知の上だ。だが、限られた資源で、できるだけ多くの人間を生かすには、これしかない」


 この判断は、士官学校時代、荷車引きたちの心理を考慮した経験——数字だけでなく、人間の納得も考える姿勢——から生まれたものだった。レオンは、後退の指示と共に、なぜこの配分にしたのかを、丁寧に説明することを忘れなかった。


「一時的な我慢だ。状況が安定すれば、必ず調整する」


 その説明に、部隊内からの反発は、レオンが懸念していたほど大きくはならなかった。


 翌日、前線部隊は、正式な「戦術的再配置」という名目で、比較的安全な後方拠点まで後退した。この動きは、司令部にも即座に報告されたが、想定通り、明確な処罰の動きにはならなかった。


「際どい判断だったな」レオンは、後退が完了した後、アレクシスに言った。


「ああ」アレクシスも、緊張を解くように、小さく息を吐いた。「もし司令部が、これを命令違反と判断していれば、私たちの立場は、危ういものになっていただろう」


「それでも、やる価値はあった」


「そうだな」


 後退した部隊の中には、疲労と衰弱が激しく、すぐには回復しそうにない兵士たちも多くいた。だが、それでも、これ以上の進軍を続けていた場合に比べれば、被害ははるかに少なく抑えられていた。


 その夜、レオンは、後退拠点で、久しぶりに落ち着いた時間を持つことができた。


「アレクシス」レオンは、隣に座る相手に声をかけた。「お前、士官学校の頃と、本当に変わったな」


「お前もだ」アレクシスは答えた。「あの頃の君なら、こんな回りくどいやり方を、もっと嫌っていたはずだ」


「今も、正直好きじゃない」レオンは苦笑した。「だが、これが今できる、最善の方法だった」


 二人は、しばらく静かに、夜空を見上げていた。危機は、まだ完全に去ったわけではない。だが、少なくとも、この瞬間、多くの兵士たちの命が、救われたという事実があった。


 (正しいことを、正しい方法で言う。それだけじゃ、足りない時もある)


 レオンの中で、これまでの信念に、新たな一片が加わろうとしていた。


 だが、この判断が、後に大きな代償を伴うことになるとは、この時のレオンには、まだ分かっていなかった。

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