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豪商生まれのただの平民士官【帝国改革記】  作者: 橘秀斗
帝都・改革編

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115/116

第114話 数年後

 新皇帝の即位から、七年が過ぎた。


 帝都の石畳は、以前よりも、少しだけ、広くなっていた。荷車が行き交う街道の脇には、新しい倉庫が並び、そのどれにも、帳簿の写しを掲示する、小さな板が取り付けられている。誰でも、その月の仕入れ値と、納入量を、見ることができた。


「七年前なら、考えられなかったな」


 軍務省の窓から、その光景を眺めながら、レオンは、独り言のように、呟いた。


「何がだ」


 背後から、書類を抱えた、トーマが、顔を出した。いつの間にか、人事・連絡局の、局長補佐という、立派な肩書きを持つようになっている。


「倉庫の帳簿を、誰でも見られる国なんて」


「見る奴は、ほとんど、いないけどな」


「見られる、ということが、大事なんだよ」


「お前は、相変わらず、理屈っぽいな」トーマは、笑いながら、書類を机に置いた。「ほら、来月の人事案。ミハイルの奴、監査院の、次席に、推薦されたぞ」


 レオンは、書類に目を通し、思わず、口元を緩めた。あの、局の薄暗い廊下で、声をひそめて、相談を持ちかけてきた、真面目な若者が、今や、帝国の監査を担う、立場になろうとしている。


「コレットさんは」


「経理の、改革委員会の、委員長だとさ。『もう、隠れて動く必要はありませんから』って、言ってたぞ」


「そうか」


 レオンは、静かに、頷いた。


 この七年間で、帝国は、確かに、変わった。


 戦争は、あれ以来、起きていない。リュネス帝国との国境には、今も、軍が配置されているが、哨戒部隊同士は、毎月、互いの陣地を訪れ、茶を飲み交わしていると聞く。報告書には「軍事的緊張なし」と記されるが、実際には、小さな衝突の火種は、いくつも、あった。そのたびに、連絡体制が、働き、事態は、大きくなる前に、収められていった。


 完全な平和では、ない。南方のサルディア連合との交易路を巡る交渉は、今も、難航している。北方のノルデン王国との国境でも、時折、緊張が高まる。軍は、廃止されておらず、予算の審議のたびに、議会では、激しい議論が、交わされる。


 それでも、レオンは、思う。


 (戦争以外の選択肢を、選べる国には、なった)


 それは、七年前には、誰も、持っていなかった、選択肢だった。


 その日の夕方、レオンは、帝都の外れの、小さな酒場に、足を運んだ。


 扉を開けると、奥の席に、見慣れた、二人の姿があった。


「遅いぞ、レオン」


 父グランが、不機嫌そうに、言った。その向かいには、簡素な服装の、白髪の老人が、杯を傾けている。


「悪い、会議が、長引いた」


「約束の時間に、遅れるな。客の信用を、失うぞ」


「客じゃない、息子ですよ、父上」


「同じことだ」


 老人が、愉快そうに、笑った。


「相変わらず、厳しい父上だな」


「恐れ入ります、陛下」グランは、硬い口調で、頭を下げた。


「もう、陛下ではない。ただの、隠居老人だ」先代の皇帝——今は、郊外の屋敷で、静かに暮らす老人——は、手を振った。「それに、先ほどから、お前は、緊張して、数字の話ばかり、しているではないか」


「それは、その、職業病でして」


 レオンは、思わず、吹き出した。以前、自分が、皇帝に「父は、緊張して、数字の話ばかり、してしまう」と、言った言葉が、そのまま、現実になっている。


「何が、おかしい」


「いえ、何でも」


 三人は、杯を、交わした。先代の皇帝と、軍需商人の父。かつて、玉座と、帳簿の上で、互いに、顔も、知らなかった二人が、今、同じ卓を、囲んでいる。


「グラン殿」先代の皇帝が、杯を、置いて、言った。「あなたが、若い頃、告発しようとした、不正のこと。私は、その時、何も、知らなかった。……いや、知ろうとしなかった、というべきか」


「陛下——」


「もう、陛下では、ない」老人は、静かに、首を振った。「ただ、一言だけ、言わせてほしい。あなたの、奥方の死を、止められなかったこと、この国の、長として、詫びたい」


 グランは、しばらく、黙っていた。杯を持つ手が、わずかに、震えている。


「……もう、遠い昔の、話です」やがて、グランは、低い声で、言った。「ですが、その言葉は——ありがたく、受け取ります」


 レオンは、二人の、やり取りを、黙って、見守っていた。


 母の死の、真相は、完全には、分からなかった。それでも、この、老人が、頭を下げ、父が、それを、受け取った。それだけで、長い年月の、何かが、少しだけ、報われたような気がした。


 酒場を出た後、レオンは、帝都の夜道を、一人、歩いていた。


 石畳の上に、星明かりが、淡く、落ちている。遠くで、新しい議事堂の、鐘が、鳴っていた。


 (母さん)


 心の中で、小さく、呼びかける。


 (この国は、少しだけ、変わったよ)


 もちろん、答えは、返ってこない。だが、夜風は、どこか、穏やかに、頬を撫でていった。


 数日後、レオンは、一通の、封書を、受け取った。差出人は、ガレス・クロウ。士官学校の、校長になった、かつての、戦術教官からだった。


『新学期より、教壇に立つ気はないか。兵站学と、戦略学の、特別講義だ。レーヴェン卿には、すでに、承諾を、得ている。——ガレス』


 レオンは、手紙を、読み終えると、小さく、笑った。


「あいつ、本当に、引き受けたのか」


 帝都の空は、今日も、晴れていた。

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