最終話 全員を食わせてから
新学期の朝、帝国中央士官学校の正門には、これまでにない種類の人波ができていた。
仕立ての良い制服の少年。継ぎの当たった上着の少女。荷馬車で乗り付けた商家の息子。農村から出てきたらしい、日焼けした青年。身分も出身もばらばらな新入生たちが、緊張した顔で、石造りの門をくぐっていく。
その様子を、レオン・ヴァイスは、校舎の二階の窓から、静かに見下ろしていた。
「見ているのか」
背後から声がかかった。振り返らなくても、誰か分かる。
「ああ。今年は、平民枠が、三割を超えたそうだな」
「登用試験の参考書を、各地の図書館で、無料で借りられるようにした成果だ」アレクシスは、レオンの隣に並んだ。「発案者は、誰だったか」
「さあな。どこかの、口の悪い兵站屋だったかもしれない」
「自覚はあるのか」
「悪口の方はな」
二人は、同時に小さく笑った。
十数年前、この門をくぐった日のことを、レオンは、はっきりと覚えている。値踏みするような視線。貴族ばかりの講堂。「この学校、制服だけでどれだけ金を使ってるんだ」と呟いた、あの朝。
あの頃、自分は、この国のすべてが気に入らなかった。
今は、少しだけ違う。気に入らないところは、まだ山ほどある。だが、それを直す手段と、一緒に直してくれる仲間が、確かにいる。
「そろそろ、時間だぞ」
「分かってる」
「緊張しているのか」
「お前に言われたくない」
アレクシスは、わずかに、口の端を上げた。
講堂には、二百人を超える新入生が、集まっていた。
壇上には、ガレス・クロウ校長が、変わらない鋭い目つきで立っている。その隣には、南方戦域から戻ったユリウスが、実技教官として控え、会場の後方では、トーマが、事務方として、段取りの確認に走り回っていた。
「皆、揃っているな」
ガレスの声が、講堂に、響いた。
「本日から、お前たちは、この国の、士官候補生だ。生まれは、問わない。ただし、ここを出る時に、何を学んだかは、必ず問われる」
新入生たちの背筋が、伸びた。
「特別講師を、紹介する。兵站学を担当する、レオン・ヴァイス将軍。そして、戦略学を担当する、アレクシス・フォン・レーヴェン卿だ」
拍手が起こった。レオンは、軽く頭を下げ、壇上に立った。
講義は、あっという間に過ぎた。
地図の読み方。物資の数え方。一日に、一人の兵士が食べる量。荷車の積載限度。道が悪くなれば、何が起きるか。
新入生たちは、最初は退屈そうに聞いていたが、レオンが、南方戦線で、補給が止まった時の話を始めると、次第に、ペンを走らせる手が、速くなっていった。
講義の後、教室から人が引いた頃、一人の少年が、おずおずと、レオンの前に歩み出た。
痩せた体に、少しだけ大きな制服。日に焼けた顔には、どこか、見覚えのある緊張があった。
「あの、将軍。質問しても、よろしいでしょうか」
「いいぞ」
「僕は、地方の、小さな村の出身です。登用試験で、ここに来ました」少年は、拳を握りしめた。「将軍は、数々の戦いを、勝ち抜いてこられたと聞きました。……戦争に勝つには、どうすればいいんですか」
教室の空気が、少しだけ、静かになった。
残っていた数人の新入生が、聞き耳を立てているのが、分かった。後ろの席では、アレクシスが、腕を組んで、こちらを見ている。
レオンは、少し考えた。
この質問は、かつて、自分自身が、何度も、頭の中で、繰り返したものだった。正しい作戦を考えれば勝てると思っていた頃も、補給を断てば勝てると思っていた頃も。
「まず」レオンは、口を開いた。「戦わなくて済む方法を、考えろ」
少年は、きょとんとした顔で、首を傾げた。
「……戦わなくて、済む方法、ですか」
「そうだ」
「でも、僕は、戦争に勝つ方法を、聞いて——」
「勝つ方法を、知りたいんだろう」レオンは、小さく笑った。「だから、まず、そう答えた。戦わずに済むなら、それが、一番、安く済む。兵士も死なない。金も減らない。畑も焼けない」
少年は、まだ、納得がいかない顔をしている。
「それでも、戦うことに、なったら——」
レオンは、少し、間を置いた。
窓の外では、新学期の風が、校庭の木々を揺らしている。遠い昔、薄暗い商会の事務所で、帳簿を睨みながら、父が言った言葉が、耳の奥で、響いた。
「そのときは」
レオンは、少年の目を、まっすぐに見た。
「全員を、食わせてから、戦え」
少年は、目を、瞬かせた。
「食わせて、から……」
「腹が減った兵士は、剣を振れない。腹が減った民は、国を守る気に、ならない。勝ち負けの前に、まず、全員が、明日も、飯を食える状態を作れ。それができない戦争は、始める前から、負けている」
教室の後ろから、トーマの、吹き出す声が聞こえた。
「相変わらず、言うことが、変わらないな、お前」
「うるさい」
少年は、しばらく、考え込んでいたが、やがて、真剣な顔で、頷いた。
「……分かりました。まず、戦わなくて済む方法を、考えます。それでも戦うことに、なったら、全員を、食わせてから、戦います」
「それで、いい」
少年は、深く頭を下げ、教室を出ていった。
その背中を見送りながら、レオンは、小さく、息を吐いた。
「いい答えだったな」アレクシスが、隣に、並んだ。
「父上の、受け売りだ」
「それでも、お前の言葉だ」
レオンは、答えなかった。ただ、窓の外に、視線を向けた。
校庭では、新入生たちが、身分の違いも、忘れたように、笑いながら、走り回っている。誰かが転び、誰かが手を差し出し、誰かが、それを笑った。その光景は、十数年前の、この場所には、なかったものだった。
「なあ、アレクシス」
「何だ」
「この国は、いつか、また、間違うだろうな」
「ああ。必ず、間違える」アレクシスは、あっさりと、答えた。
「その時、俺たちは、もう、いないかもしれない」
「そうだな」
「それでも、いいか」
アレクシスは、少し、考えた。そして、静かに、言った。
「間違った時に、『それは、違う』と、言える人間が、いればいい。その人間を、育てるのが、この学校だ」
レオンは、小さく、頷いた。
「……そうだな」
窓の外で、午後の鐘が、鳴った。
新しい時代の、新しい士官候補生たちが、それぞれの教室へと、駆け出していく。その足音が、廊下に、にぎやかに、響き渡った。
レオンは、窓から、離れた。
次の講義が、待っている。地図を広げ、荷車の数を数え、一日に、何人の兵士が、何を食べるのかを、教える時間だ。
「行くか」
「ああ」
二人は、並んで、廊下を、歩き出した。
戦争に勝つ方法を学んだ少年は、最後に、戦争を始めないための、国の作り方を、学んだ。
そして今、その学びを、次の世代へと、手渡そうとしている。
それは、剣でも、魔法でもない。ただ、一人の、口の悪い兵站屋が、血と泥と、帳簿の山の中から、掴み取った、ささやかな、しかし、確かな、答えだった。
帝国の空は、高く、晴れ渡っていた。




