第105話 皇帝の孤独
謁見から三日が過ぎても、皇帝からの、正式な決定は、下されないままだった。
「陛下は、今、何を、されているのでしょうか」
宮殿の片隅、与えられた一室で、レオンは、落ち着かない様子で、そう漏らした。
「分からない」アレクシスも、同じように、緊張した表情で、答えた。「これほどの、長い沈黙——それだけ、陛下自身も、深く、お悩みになっているということだろう」
その間、宮廷内では、様々な憶測が、飛び交っていた。
「陛下は、両名を、処罰されるおつもりだ」
「いや、むしろ、進軍そのものを、取りやめる方向だという話もある」
そうした、根拠のない噂に、レオンは、深く、気を揉みながら、ただ、沈黙の時間を、過ごし続けていた。
四日目の夜、思いがけない、知らせが、レオンのもとに、届いた。
「ヴァイス殿、陛下が、お呼びです。ただし——」
伝令は、少し、戸惑った様子で、続けた。
「此度は、正式な、謁見ではなく、内密の、お召しとのことです」
レオンは、この異例の招集に、強い緊張を覚えながらも、指示された通り、人目を避けるようにして、宮殿の、奥まった一室へと、案内された。
そこには、これまでの、謁見の時とは、まったく違う、簡素な服装の、皇帝が、一人、佇んでいた。
「……陛下」
レオンは、深く、頭を下げた。
「堅苦しい挨拶は、いい」皇帝は、疲れたような声で、そう言った。「座れ」
レオンは、戸惑いながらも、指示された椅子に、腰を下ろした。
「アレクシスは、呼んでいない」皇帝は、続けた。「今日は、お前一人に、話したいことがある」
「……どのような、お話でしょうか」
皇帝は、しばらくの間、沈黙していた。その表情には、これまでの、謁見の場での、威厳に満ちた姿とは、まったく異なる、深い、疲労と、孤独の色が、滲んでいた。
「お前の、あの問いかけ——勝利そのものが、次の戦争の理由になっている、という指摘」皇帝は、やがて、静かに、口を開いた。「あれから、ずっと、考え続けている」
「……陛下」
「正直に、言おう」皇帝は、続けた。「お前の、指摘は、正しい」
その言葉に、レオンは、息を呑んだ。
「私は、これまで、本当に、ただ、帝国の、安全を、守りたいと、願ってきた」皇帝は、静かに、言葉を続けた。「だが、お前の言う通り、その『安全』を求める行為そのものが、新たな、不安定を、生み出し続けてきたのかもしれない」
「陛下——」
「私は、いつの間にか」皇帝は、重い声で、続けた。「『戦わなければ、守れない』という、強迫観念に、囚われていたのかもしれない」
レオンは、その言葉に、これまで、一度も、見たことのない、皇帝の、人間としての、深い葛藤を、垣間見ていた。これまで、絶対的な、権威として、存在していた皇帝——その人物も、また、一人の、悩み、苦しむ、人間だったのだと、レオンは、改めて、実感していた。
「ですが、陛下」レオンは、慎重に、言葉を選びながら、続けた。「これまでの、すべての判断を、否定するわけでは、ありません。帝国が、これまで、守られてきたのも、また、事実です」
「お前は、優しいな」皇帝は、小さく、自嘲するように、笑った。
「優しいわけでは、ありません」レオンは、はっきりと、言った。「ただ——物事を、単純に、善悪で、割り切ることは、できないと、学んで参りました」
皇帝は、その言葉に、しばらくの間、レオンを、見つめていた。
「お前は、本当に、不思議な男だな」皇帝は、やがて、そう言った。「平民の出でありながら、これほど、物事の本質を、見抜く力を、持っている」
「商人の家で、育った経験が、大きいのだと、思います」レオンは、素直に、答えた。「父から、戦争は、戦場だけで、起きているわけではないと、教わりました」
皇帝は、その言葉に、深く、頷いた。
「お前の、父親に、一度、会ってみたいものだな」
その言葉に、レオンは、少し、驚きながらも、小さく、微笑んだ。
「一つ、聞かせてほしい」皇帝は、改めて、真剣な表情で、尋ねた。「もし、私が、今回の、進軍命令を、撤回するとしたら——それは、帝国にとって、本当に、正しい選択に、なるのだろうか」
レオンは、深く、息を吸い込み、慎重に、答えた。
「正しいかどうかは、私には、分かりません」レオンは、正直に、言った。「ですが、少なくとも——今回の、進軍を止めることで、多くの兵士の命が、救われることは、確かです」
「それだけでは、不十分だと、思うか」
「いいえ」レオンは、はっきりと、首を振った。「それこそが、何より、重要なことだと、信じています」
皇帝は、その答えに、長い、長い、沈黙の後、静かに、頷いた。
「……分かった」皇帝は、やがて、そう、言った。「少し、時間が、欲しい」
この、内密の対話は、それで、終わった。だが、レオンは、皇帝の、その、人間らしい、葛藤と、苦悩に触れたことで、これまでの、単純な「命令と反逆」という、構図とは、まったく異なる、重い、現実を、改めて、感じ取っていた。
(陛下もまた、この、帝国という、巨大な仕組みの中で、一人、戦っておられるのかもしれないな)
帝都の夜、レオンは、これまでの、すべての経験を、改めて、胸に、刻みながら、皇帝の、最終的な決断を、静かに、待ち続けていた。




