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アーサーが戦地に行って、まもなく。
「失礼しますわ」
やたらと居丈高なご令嬢が、薬局にやって来た。侍女やら護衛やらをぞろぞろと引きつれて。あきらかに薬局とは異質の一行に、みんなが何事かと手を止めた。
ご令嬢はぐるりと医局の中を見渡すと、おもむろに口を開いた。
「リリー・ハワードさんはいらっしゃる?」
いきなり自分の名前を呼ばれて、リリーは飛び上がった。薬局中の目が自分に向いたのがわかって、ぞわっと鳥肌が立った。みんなの視線をたどったご令嬢の目が、リリーに止まった。
ひっ。思わず小さな悲鳴が出た。
コツコツとヒールを鳴らして、リリーに向かってやってくる。敵意むき出しだ。しかも見下しているのがわかる。
誰? なんでそんな目で見てくるの? こわいんですけど。
「あなたなのね」
ずいっと詰め寄ってくる。彼女の方がリリーよりも背が高いので見下ろされる。元々高いのに、ハイヒールを履いているからさらに高くなっている。リリーは歩きやすいようにローヒールだ。
彼女はもったいぶるように、しゅっと音を立てて扇子を開いた。
「わたくし、アーサー様の婚約者、ジェシカ・サイラスですわ。サイラス伯爵家の嫡子です」
――え? 婚約者? 嫡子って跡取りってこと?
ちょっと理解が追い付かなくて、リリーは隣に立つ上司を見た。上司も「わからない」というように首を振った。その隣の同僚も、そのさらに隣の先輩も、そのまた隣の後輩も、みんなそろって首を振った。
それからリリーたちはいっせいに首をかしげた。
「いやだわ。医局はそろいもそろっておバカさんなのかしら。わたくしこそがアーサー様の正式な婚約者ですのよ。バークレー公爵様がお決めになったの」
あれか! リリーは思い当たった。いつかアーサーが言いかけたなにか。これのことだったのだ。
アーサーは了承したのだろうか。
でも、帰ってきたら準備をしようと約束したのだ。どっち? 聞こうにも本人は遠い戦地だ。
「アーサー様に言い寄るふしだらな女がいると聞いて、くぎを刺しにまいりましたの」
言い寄る⁉ ふしだら⁉ わたしのこと⁉ そんな言い方されたくない。
「ま、待ってください。わたしだってちゃんとアーサーと約束したんですよ⁉ 帰ってきたら結婚式の準備をして、新居を見つけてって約束したんですから!」
「ほんとに嫌ですわ」
ジェシカが、リリーにケムシでも見るような目を向けた。
「公爵様がお決めになったと申しましたでしょう? バークレー公爵様、ご存じ? アーサー様のお父上ですわ」
「しっ、ししし」
知っていると言いたいのに、口がうまく回らない。ジェシカの目がますます侮蔑的になった。
「アーサー様もアーサー様ですわ。こんなパッとしない男爵家の娘など、どこがいいのかしら。きっと物珍しかったのですわね。たまに屋台の串焼きが食べたくなる。そんな気持ちなのですね」
誰が屋台の串焼きだ! 庶民に近いのは否定できないが! それでも高い方の串焼きだわ。チキンじゃなくてシャトーブリアンだわ!
……そんなことじゃなかった。
「戦地から帰られたら、アーサー様も目が覚めるでしょう。ご自分にふさわしいのがわたくしとあなた、どちらであるか。そもそも男爵家ごときが公爵家に縁付けるわけがありませんでしょう? 少し考えたらわかりますのに。いえ、考えるまでもありませんわね」
ジェシカは扇子を振りながら、ふっと鼻で笑った。
「で、でもっ! アーサーは公爵家とは関わっていないって言ってました」
「あらあら、アーサー様ったらそんなことをおっしゃったのですね。おわかりにならない? そんなのはその場しのぎの嘘ですわよ。ただの口説き文句ですわね」
そんなはずない。アーサーはそんな嘘をつかない。ちゃんと両親にあいさつもしたもの。あれが嘘なわけない!
「それから、馴れ馴れしく呼び捨てになさらないで。わたくしの婚約者ですのよ。不愉快ですわ。金輪際アーサー様のお名前を呼ぶことは許しません」
ジェシカはぎろりとリリーを睨みつけた。
え、こわい。
「いつまでも身の程知らずな女に付き纏われては迷惑ですわ。愛人も認めませんから、どうぞお引きになって」
ジェシカはくるりと踵を返すと、来た時と同じようにコツコツとヒールを鳴らして去っていった。
こわいこわいこわい。わたしが婚約者だというのはまぼろしだった?
後には呆然としたリリーと薬局の面々が残された。
その日のうちに、アーサーの本当の婚約者がリリーに引導を渡しにやって来た。と医局中を噂が駆け巡った。アーサーとバークレー公爵家との関係は、おおむね把握されていたから、リリーに対しては同情が多かった。
が、この時とばかりに騒ぎ立てたのは看護婦たちである。
――婚約者がいる殿方に言い寄った。
――節操のないふしだらな女。
――泥棒猫。
ひどい。鬱憤を晴らすように、言いたい放題。あることないこと言いまくった。
やがてそれは患者たちに伝染する。王宮の医局には貴族だけではなく、官吏と使用人も患者としてやってくる。その家族もだ。だからなんの事情も知らない人たちが、面白おかしく噂を流していく。
「あの方の薬は嫌です」
そう言う患者も出てきた。
しかも噂とは尾ひれがつくものだ。
伯爵家のご令嬢の婚約者を略奪したとか、アーサーが戦地に行ったのをいいことに、手当たり次第男をあさっているとか。
悪いことにサイラス伯爵家とは貿易で財を成した超富裕層である。王国の経済に深ーく関わっているのだ。この伯爵が一言「うちの娘の婚約者に付き纏っている身の程知らずの下級貴族の娘がいる」などと言ったら、それが真実になるのだ。
そうすれば、社交界の上のほうでもリリーはふしだらな略奪女になってしまう。いや、もうなってしまった。権力が白を黒に塗り替えた。
理不尽だ。
アーサーに手紙を書いた。いつ届くかわからないが、自分の置かれている立場をちゃんと伝えなければいけないと思った。
手紙を出して一週間。そろそろ届くかな。返事が来るのがさらに一週間後かな。もしかしたら本人が先に帰ってくるんじゃない? それならそれでもいい。
ただアーサーにだいじょうぶだから、と言ってほしかった。
薬局のみんなも最初は同情してくれた。が、噂と現実の区別があいまいになり、もしかしたら噂が本当なのかも、なんて思い始める。たとえ嘘だとわかっていても、公爵家には抵抗できない。見て見ぬふりをする。リリーはいたたまれない。
上司が気を遣って、薬局から出なくていいように図ってくれたのがせめてもの救い。食堂も行けないから、家からパンを一個持ってきて、薬局の隅っこで一人もそもそと食べるようになった。それがまた、みじめ。
理不尽だ。わたしはなにも悪いことはしていのに。
二週間たっても返事は来ない。リリーは耐えた。明日届くかもしれない。あさってかもしれない。最悪返事が来なくても、あと二週間待てばアーサーが帰ってくる。それまでがんばれば……。
だって、アーサーが「待っていて」と言ったもの。
リリーは歯を食いしばって耐える。針の筵。アリ地獄。逆風。超逆風。暴風雨の逆風。いろんな言葉が頭の中を駆け巡る。
もうすぐアーサーが帰ってくる。それまでがんばれば。それまでの辛抱。
食欲の落ちたリリーを、家族がいたわる。
とろりとしたポタージュにフルーツのゼリー。プリン。昼食のパンものどを通らなくなったので、母は軟らかいパンにジャムとクリームをたっぷりと塗ってくれた。それでも半分食べるのがやっと。
夜も眠れない。母はカモミールのお茶を用意して、枕元にはラベンダーのお香を焚いてくれた。
「ありがとう」
リリーが小さな声で言う。が、そのころにはリリーの感情は、すっかり凍り付いて微塵も動くことはなかった。
悪いことは重なる。
紛争の終結が見えない。軍の帰還は延期になった。それも無期限。先が見えない。
アーサーが帰らない。リリーはもう限界だったのだ。
ある朝、リリーが出勤すると薬局がざわついていた。なんだろう。またなにか、されたんだろうか。いちおう小さな声で「おはようございます」と声をかけた。
みんなが一斉にこちらを見た。なぜか詰るような視線である。外では散々向けられて、悲しいことに慣れてしまったが、薬局では初めてだ。今までなら同情はあったけれど、こんなふうに責めるようなことはなかった。
リリーは思わず怯んだ。
「ハワードさん」
口を開いたのは上司だった。いつも庇ってくれて、気遣いをしてくれる上司が、今日は気まずそうに目を逸らす。
「仕入れた薬草が入ってこないんだ」
「……え?」
「配送が……」
上司はそう言って口ごもってしまった。いったい配送がどうしたというのだ。別の同僚が忌々しそうに後を引き継いだ。
「薬草だけ入ってこないんだよ。他の食料品や資材は来ているのに、薬草だけが来ていないんだ」
「な、なぜ……」
「なぜだって⁉ この国の物流を牛耳っているのはサイラス伯爵なんだよ! 伯爵の一言で、物流なんて簡単に止められるんだよ!」
最後に「おまえのせいだ」と聞こえた気がする。
「そ、それじゃあ患者さんは……」
「薬がなくて困るなぁ! 命に係わる患者もいるのにな!」
ここまでする? リリーは呆然となった。人の命をかけてまですることなのかな。わたしはもう十分追い込まれた。ご飯も食べられない。夜も眠れない。外も歩けない。それくらい追い込んだのに、まだやるのか。
仲間だったはずの薬局のみんなの目がリリーに刺さる。
ああ、そう。あなたがたも、簡単に白を黒と言い換えるのね。
感情がすうっと引いていった。
仲のいい同僚たちだと思っていたのはリリーだけだったのだ。おたがいに助け合って、切磋琢磨して患者さんのために仕事をしていたと思っていたのはリリーだけだったのだ。
そうか。仲がいいと思っていたのは気のせいだったのか。
もういいや。めんどくさい。
わたしがいなくなればいいんでしょ。
そうしますよ。
リリーは引き出しを開けると、私物をカバンに詰め始めた。それほど多くはない。
学生時代から書き溜めたノート。隙間がないほど書き込んだ教本。アーサーがプレゼントしてくれたペン。その程度。
ぎゅうぎゅうとカバンに押し込め、入りきらない教本は腕にかかえて薬局を後にした。
みんなは黙って見ていた。
あいさつをするべきなのはわかっている。でもそんな気にはとてもならなかった。
かまわない。どうせ迷惑な他人と切り捨てられたのだ。
「ハワードさん」
上司だけが声をかけてきたけれど、答えることも、足を止めることもなく飛び出した。
リリーは半ば小走りで人事部に向かった。
「退職の手続きをお願いします」
何の説明もしていないのに、待っていたかのように書類が出された。その場で書き込んで提出すると、担当者はちらりと見ただけで「受理します」と言った。
もう用意はできていたんだ。きっと、今か今かと待っていたんだろうな。リリーは顔を上げることもせず、人事部を出た。
たぶん、もうここにいてはいけないのだ。家にも迷惑がかかるかもしれない。なにをされるかわからないのだ。家も出よう。行く当てはないけれど、どこか遠くへ行こう。
いっそ王国を出ようか。
アーサーに会いたい。でももう会っちゃいけないのだ。わたしのせいでアーサーにも迷惑がかかる。
きっとアーサーはあのご令嬢と結婚したほうがしあわせなんだ。きっとそう。わたしは夢を見たんだ。
アーサーが「愛してるよ」と言ったのも「結婚しよう」と言ったのも、全部気のせい。キスをしたのも気のせい。新居探しも気のせい。食器を探したのもカーテンを探したのも、全部全部気のせい。
だって、手紙も来ないもの。リリーがこんな状況なのに、何も言ってはくれないんだもの。手紙はわたしじゃなく、あの令嬢のところに送っているんだ。
その手紙には愛しているとか結婚しようとか、きっと書いてあるんだ。
流れる涙は悲しさなのか、悔しさなのか、怒りなのか。
家に戻ったら父と兄がいた。おかしい。リリーと一緒に仕事に行ったはずなのに。
「ああ、リリー。大変なの。おとうさまもおにいちゃまも配属が変わったのよ!」
え? とリリーは三人の顔を見た。なぜ今、そんなことに?
「おとうさまは北部の町に出向で、おにいちゃまは南部の軍の詰め所に出向なのよ。いったいどうなっているの⁉」
どちらも遠く離れた場所で、母はもはや半狂乱だ。父も兄もすっかり青ざめている。これでは一家離散だ。
こんなことまでするなんて。
わたしはどれだけ憎まれたのだろう。わたしのなにが悪かったのだろう。身に覚えなど、ひとつもないのに。
「きっと明日には取り消しになっているわよ。わたしが辞めてきたから」
リリーはそう言って階段を駆け上がった。部屋に入ると鍵をかけた。
もう、ここにもいられない。
リリーは旅行用の大きなカバンに、つぎつぎ荷物を詰め始めた。着替えを数枚、ノート、教本、こつこつとためた貯金。
アーサーにプレゼントしてもらったペンとブローチ。髪飾り。花束はいくつも貰ったが、さすがに枯れて捨ててしまった。それでも記念に残しておきたかったから枯れる前に数点、分厚い辞典に挟んでおいた。開いてみたらちょうどよく押し花になっていた。それを大事に教本に挟み直す。
こんなふうに、アーサーの気持ちも色褪せてしまったんだな。それでも、リリーは大事にそれを持つ。
アーサーに会うことはもうない。だからプレゼントくらい持っていても罰は当たらないはず。それくらいは許してほしい。
全部気のせいだったと思うから。神様、これだけは取り上げないで。
流れる涙をぬぐいもしないでパンパンのカバンをなんとか閉めて、鍵をかけた。
さようなら。みんな、さようなら。
リリーはカバンを抱えると、階段を駆け下りた。階下では両親と兄がまだ立っていたけれど、すり抜けるように玄関を飛び出した。
「リリー‼」
三人が呼ぶ声がしたけれど、かまわず走った。駅馬車の待合まで走り続け、居合わせた馬車に飛び乗った。座って、王都を出るまで抱えたカバンに突っ伏して、顔をあげなかった。
行先なんか見もしなかった。




